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盂蘭盆会の休みも明け、秋風の立ち始めた蒼天の下。
始業後の一限目、高山藩校『宗道館』の弓術場に、研ぎすまされた緊張感が漂っていた。
年長組の少年たちが固唾をのんで見守る中、黒袴に白道衣、片衣脱いだ射手が弓構えに入った。
露になった肩の白さが眩しい。
青年と呼ぶにはまだ年若い、しなやかな身体つきの射手は、堂々たる二足開きの足踏みで正面に構えた。
道場の入り口にも、幾重も人だかりができている。
休講になった成人組の若侍たちのようだ。
人垣の間を見つけては、つま先立ちで中をうかがう者、屈んで覗き込もうとする者もいる。
半ば諦めた後方から、焦れたような声がとんだ。
「おい、中の様子は?」
前の者が肩越しに振り返り、
「…連続十射皆中だ」
小声で伝えた。
「おおっ」
「まことか…」
若者の間で驚嘆の声が漏れたが、道場内から師範にひとにらみされ、皆は一斉に押し黙った。
再び静寂が満ちると、射手は打ち起こしから引き分けに入った。
黒曜の瞳が鋭く的を見据え、右頬に軽く添えられた矢はまっすぐに的を狙っている。
不動の姿勢で、射手は静かに力を掛け続ける。
気の充溢が頂点に達した時、射手は右手を離し矢を放った。
弦が鳴り、矢は一直線に的に吸い込まれた。
小気味良い音が場内に響いた。
「十一射皆中じゃ!」
弓術場の内外でどよめきが漏れる中、射手の品位ある『残心』に、師範が大きくうなずいた。 (皆中:的の中心を射抜くこと、残心:矢が放たれた後そのままの姿勢を数秒保ち、心身ともに一息置くこと)
*
「まったく惚れ惚れするのう」
「あれでまだ十七であろう?」
「あの落ち着きようは、日頃の修練の賜物じゃろうか」
「いやいや、持って生まれたご器量じゃ」
「結局、いくつ当てられたのじゃ?」
「連続十五射皆中で、師範がお止めになった」
「さようか」
その日の昼時、成人組から幼年組まで、藩校内は三郎の弓の話で沸き返っていた。
十五射、二十射と連続皆中をしてのける者は、藩校の中は言うに及ばず、藩士の中にもそう多くはいない。
熱く語っているのは、自習時間、教室を抜け出してまで見物した成人組の若者たちだった。
七月も終わりとはいえ、まだまだ日盛りは残暑が厳しい。
若者たちは単衣の襟をくつろげ、教科書を団扇代わりに風を送った。
「やはり藩校に三郎ぎみのお姿があるのは良いものだな」
「いかにも。何やら校内に活気が出る」
「加えて、目の保養である」
そう言って、にんまりと笑った者に、
「おぬし、その発言、いささか不敬であるぞ」
友人が意見した。
「ばかもの、眼福だと申しておるだけじゃ」
一同は邪気のない笑い声をたてた。
陽気に三郎を讃える会話は、廊下にまで漏れ聞こえている。
成人組の教室の前を通りかかった筧松之助は、足を止めてため息をついた。
(まったく…三郎ぎみがお小さい頃、お手前方も『旅籠の倅』と軽んじていたのではないのか?)
それが今や、藩校は言うに及ばず領内のいたるところで、この数年間、三郎が藩士・領民を助けた幾多の話が語り継がれ、三郎への敬愛はいや増すばかりだ。
松之助は三郎の学友として誇らしく思うと同時に、この事態の危うさをも理解できる年になっていた。
三郎のひとつ年下の学友、筧松之助は、三郎が藩校に入学して以来の友であり、三郎分家のあかつきには用人を務めることがほぼ決まっている。学業優秀ながら、次男の松之助は家督を継げず、このまま行けば部屋住みの無役だ。三郎の側近として出仕することに何の差し障りもなかった。むしろ家族も大喜びである。
三郎の後見、溝口誠之進も松之助には全幅の信頼を寄せている。
その誠之進から、三郎が藩校に復学するにあたり、松之助は因果を含められていた。
*
六月の始め、いよいよ三郎が復学する前夜、松之助はもう一人の側近、神原倫太郎とともに西の丸館の離れ、誠之進の居室に呼ばれた。
床の間を背に、誠之進が威儀を正した。
「よいか松之助。『緑風会』に連なる者が三郎ぎみに近づかぬよう、倫太郎とともにしかと目配りせよ」
「はっ」
「三郎ぎみの友であるそなたらに、斯様な役目を申し付けるのは忍びないが、ここはどうか聞き分けてくれ」
「誠之進様、どうぞ我らにお気遣いなく」
まずは倫太郎が頭を下げ、
「それが三郎ぎみの御ためであること、承知しております」
松之助もすかさず同意した。
誠之進はしかとうなずき、
「すまぬな。もはや藩校まで私がついていくわけにもいくまい。そなたらが頼みぞ」
ふたりと代わる代わる目を合せた。
誠之進は、三郎を藩校へ戻す決意をした理由を、ふたりには包み隠さず話していた。そもそも藩政研究会『緑風会』と関わりを深める江戸の儒者・早坂甚斎に不審を抱き、報告してきた勘定方の若手・筧真之介は、松之助の兄だ。筧兄弟の間では早坂について既に了解がなっていた。
早坂が誰の差し金で高山を訪れ、『緑風会』に入れ知恵し、家中を混乱せしめんとする真の狙いは何なのか。未だ判然としない部分は残るが、三郎が早坂や『緑風会』と関わる、もしくはそのような既成事実を作られただけでも、この先、三郎にとって良いことなどひとつもない。
ならば三郎を城から出さず、早坂を西の丸出入り禁止にしてしまえば事は簡単だが、誠之進は三郎に籠の鳥のような暮らしをさせたくはない。一方で、三郎から早坂を遠ざけても、藩校へ行けば、中・下級藩士の子弟との接触は増え、そこから『緑風会』につながる可能性もある。誠之進は迷った末、リスクを負うことは承知で三郎を藩校に復学させた。
「講義中は松之助、武芸の時間は倫太郎、常にいずれかが三郎ぎみのお側につき、片時もおひとりにしてはならぬぞ」
「心得ました」
ふたりはかしこまって平伏した。
使命の重大さに身のひきしまる思いだ。
三郎を政争の具にさせまいという、誠之進の心を松之助は痛いほどに理解している。
また、政のことはわからねど、三郎と誠之進に絶対的忠誠を誓う倫太郎も、お役目を果たす決意は固かった。
なお、乳兄弟の源蔵は三郎に近過ぎるからという理由で、誠之進は敢えて『見張り役』から外した。
*
だが事態は意外な展開を見せる。
『来年の春、殿のお国入りで分家が正式に決まる』
三郎にとっても、残り少ない藩校での日々は大きな意味を持っていた。
長年の友人をないがしろにするつもりは毛頭なかったが、三郎はできるだけ多くの子弟と交わり、彼らの暮らしぶりを知り、生の声を聞きたいと思った。
時に三郎の行動は素早く、松之助、倫太郎が目を離した隙に、いなくなることがしばしばあった。
***
「三郎ぎみ、お待ち下さりませっ!」
袴に片足突っ込んだ姿で慌てふためく倫太郎に、
「なに忘れ物を取って来るだけじゃ。そなたは着替えて後から参れ」
三郎は肩頬で笑い、さっさと控え室から出ていってしまった。
「それは困りますっ!」
追いすがろうとした倫太郎は、もう片方の袴の裾を踏んづけ、派手な音をたてて板の間にひっくり返った。
*
下校前の日課となった剣道場での稽古後、三郎は倫太郎を置き去りに、控え室から姿を消した。倫太郎が慌てて後を追い、本日最後の講義があった部屋へ戻って見ると、ひとり残っていた同い年の脇坂千代丸に、三郎が話しかけていた。
まずは主の姿を見つけ、倫太郎は安堵した。
(そうか、千代丸は神岡助教から居残りを命じられておったな)
午後の数学の時間のことだった。
予習してきたはずの問題が解けず、千代丸は皆の前でこっぴどく怒られた。
できるまで陽が暮れても帰さぬと、居残りを命じられたのだ。
倫太郎はすぐに声をかけず、柱の陰からしばしふたりを見守った。
三郎は千代丸の横に座り、ともに机に向かっている。
「よいか千代丸、ここで計算を間違っておるのだ」
三郎が帳面を指差しながら、
「もう一度始めからやってみよ」
優しく促すと、千代丸は涙ぐみながらも言われた通りにした。
「そう、そこまでは良い、問題は次じゃ」
「…あっ」
間違いに気づいた千代丸がはたと膝を打った。
「わかりました」
千代丸は初めて嬉しげな声をあげ、計算を続けた。
終わりまでたどり着くと、
「これでいかがでしょう?」
おずおずと三郎の目を覗き込む。
三郎は答えを確認し、
「よし、正解じゃ」
満足げにうなずいた。
「では次もやってみよ」
「はいっ」
千代丸の頬にも愛らしい笑みが戻った。
(三郎ぎみ…)
三郎の忍耐と優しさに、倫太郎もつい目元を和ませた。
*
今日に限らず、最近の脇坂千代丸は元気がなく、授業にもまったく身が入らない様子だった。
剣術と三郎ぎみへの奉公一筋の倫太郎だ。くだらぬ恋愛話には耳を貸さぬ主義だが、千代丸の一件は心にひっかかっていた。
千代丸には契った相手がいたのだが、どうやら最近家督して妻帯したらしい。
噂はまたたく間に校内に広まった。
「何と言う裏切りじゃ!」
「ばか。手拭いを換えるの何のと、子供じみたマネは藩校にいる間だけじゃ。お役も付き、家を継ぐとなれば致し方なかろう?」
「しかしのう、あのように打ちひしがれて。千代丸が哀れじゃ」
「ならばおぬしが慰めてやれ」
「おっ、今なら俺でも脈があるかのう?」
「ばか、その顔で良く言うわ」
「おのれ?、言うたな!」
最近、千代丸をネタに、藩校内のあちこちでこんな会話が交わされていたのだ。
色白で可憐な千代丸は、年少組の頃から上級生の間で人気が高かった。早々と年長組の生徒と契ってしまったため、以後、千代丸を巡って下世話な争奪戦が繰り広げられることもなく、ふたりは藩校でも似合いの一対として有名だった。登下校はもちろん、花見や祭りに連れ立ってやってくる姿は、藩校生たちの秘かな羨望の的だった。
念者を失っただけでも辛かろうに、恋の破局が皆に知れてしまい、千代丸は身の置き場がないに違いない。それでも休まずに登校しているのは立派だ。倫太郎はかなり千代丸に同情的だった。
全くの偶然だったが、実は四年前、倫太郎は三郎や松之助と共に、千代丸が件の生徒と手拭いを換えている場を目撃したのである。(下弦の月 四の巻「薫風」)
初夏の木漏れ日を浴び、控えめな抱擁を交わすふたりの姿が、今でも目に焼き付いている。あのような幸せにも終わりが来るのかと、倫太郎は胸に鈍い痛みを覚えた。
だが三郎を追ってきた先に千代丸の姿をみとめ、倫太郎は別の意味で安心した。
(あの千代丸が『緑風会』と関わりなどあるわけない)
夕日が長い影を落とし始め、教室の中のふたりを黄金色の光が包んだ。
三郎はもう少し勉強を見てやるつもりのようだ。
倫太郎は黙ってその場を立ち去り、学舎の外で三郎が出てくるのをじっと待った。
*
三郎と倫太郎が城に戻った頃には、もうとっぷりと陽が暮れていた。
先に帰った源蔵が、今朝の三郎の快挙、『十五射皆中』の話を屋敷中に触れ回り、顔を合せるものたちは口々に三郎をほめた。
三郎は元々弓が得意ではなかった。稽古を始めたばかりの十三歳の頃は、まだ身体ができておらず、どうしても腕だけで弓矢を扱おうとするところがあったが、今や骨格もしっかりし、総身にバランスよく筋肉がつき始めたため、格段に姿勢が安定してきたのだ。
「夏中、稽古に励まれた介がありましたな。私も見物しとうございました」
誠之進から手放しの賛辞を受け、三郎の頬に誇らしげな笑みが広がった。
「井戸師範がな、最初の手ほどきがよかったのだと、いつもほめてくれるぞ」
「それはようござりましたな」
鳶色の瞳を和ませ、誠之進はさらっと受け流した。
むろん、最初に手ほどきしたのは誠之進である。
弓に限らず、剣術、馬術、論語から茶の湯にいたるまで…。
倫太郎は脇に控えながら、何やらのろけを聞かされているような、微笑ましくも面映い気分になった。
まわりを見れば、源蔵やお福も曖昧な笑みを浮かべている。
何やら微妙な空気感に、三郎は湯殿へと退散し、お福は夕餉の膳の用意を始めた。
「ところで倫太郎、今日は遅かったの」
三郎がいなくなった途端、誠之進から尋ねられた。
「剣術の稽古の後、三郎ぎみが、居残りを命じられた者に代数を教えておいででした」
「ほう。して、その者の名は?」
「脇坂千代丸と申します」
「脇坂…確か家は勘定方の…」
左拳を軽くあごにあて、自問する誠之進に、
「政などおよそ関心のない、柔弱な少年にござります」
倫太郎はご懸念にはおよびませぬ、と小さく首を振った。
「さようか」
誠之進もその場は深く追求せず、倫太郎の労をねぎらい解放した。
*
夕餉の後、心地良い疲労を感じた三郎は、早めに床についた。
明日は馬術練の日だ。早朝から『疾風(はやて)』の世話もせねばなるまい。
残暑きびしい昼間と違い、蚊帳の裾をふわりとめくる夜風の涼しさに、一転して秋の気配を感じる。虫の音に耳を澄ましながら、三郎は千代丸のことを考えていた。
千代丸の恋の終わりは、三郎の耳にも入っていた。
三郎も四年前の『文庫裏の光景』はよく覚えている。
頬を染めて、困惑しきっていた千代丸を、頭一つ背の高い、眉目整った少年が熱心にかきくどいていた。その熱意に負けたか、千代丸がためらいがちにうなずき、ふたりは手拭いを交換し、年かさの少年が千代丸をふわりと包み込むように抱きしめた。
千代丸の甘やかな恋の始まりを、三郎は楡の木陰から確かに見届けたのだった。
その千代丸の相手が、四年後、家督して妻帯した。
千代丸は捨てられたのだと、皆が噂し、それを肯定するかのように、千代丸は哀れなほど面やつれし、勉学にも身が入らない。
(あたりまえだ。同じことが自分に起こったら一一)
三郎は瞳を閉じ、夜具の下、己の両肩を抱きしめた。
つづく
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