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三郎はその後も千代丸のことが気にかかり、藩校でも姿を見れば声をかけた。千代丸も三郎たちといると安心するのか、時には源蔵の女形芸に、白い歯を見せて笑うこともあった。
(ゆっくり元気になればよい…)
三郎だけでなく、供回りの全員が同じ気持ちだった。
三郎は特に千代丸から話を聞き出そうとはせず、ただ寄り添うような気遣いが、千代丸の心にしみた。数学の授業がある火曜と木曜、三郎は放課後の剣術稽古をやめて、千代丸の勉強を見てやった。倫太郎はこれまで通り、道場で汗をかき、時をみはからって教室へ三郎を迎えに行くことにした。
そうして二週間が過ぎた、八月のある日のことだった。
元々千代丸はあまり数学が得意でなかったところへ、この夏は心乱され、勉強どころではなく、すっかり朋輩に遅れをとってしまった。千代丸は決して愚鈍ではないが、飲み込みの速いほうではない。一度理解したことはよく覚えるが、そこへ行くまで多少時間がかかるのだった。
その日の『課題』を終えた千代丸は、三郎に礼を言うとともに、小さなため息をついた。
「まったく…勘定方の家に生まれて、ここまで算術が苦手な者は他におりますまい」
「苦手と決めつけぬほうがよいぞ。根気よく続けていれば、いつか芽が出るやもしれぬ」
だが千代丸は増々肩を落とした。
「それは…三郎ぎみが何でもおできになるからです」
「さようなことはない。私とて、ついこの間まで弓は苦手にしておった」
千代丸は美しい形の目を、こぼれんばかりに見開いた。
「それが今や、連続十五射皆中ですか」
「いや、その…」
自慢するつもりはなかったのだが、上手に話が運べず、三郎は口ごもった。
千代丸を励ますつもりが、かえって落ち込ませたのではと焦ったが、
「兄上?!」
突然千代丸が声を上げて膝立ちになった。
三郎もつられて顔を上げれば、廊下に羽織をつけた青年武士の姿があった。
千代丸に目で問うと、
「一番上の兄、文太郎と申します」
文太郎は廊下に控えたまま、三郎の許しを待っている感があった。
「遠慮せずともよい、ここは藩校じゃ。中へ入るが良い」
「はっ」
文太郎は手をついて一礼すると、教室内へ入った。
すり足で三郎の前まで歩み寄り、袴の裾をさばいて着座した。
文太郎は再度一礼し、
「三郎ぎみ、年始御礼でご尊顔を拝しておりますが、あらためてご挨拶申し上げます。それがし、千代丸の兄で勘定方の脇坂文太郎 と申します。恐れ多くも、弟が大変お世話になっておると聞き、本日はお礼にまかりこしました」
「堅苦しい挨拶はよい。少しばかり勉学の手伝いをしているだけじゃ。そなたこそ下城後、疲れているところを大義であった」
ここは藩校でもあるし、三郎はもっと気楽に接したいのだが、既に出仕している文太郎にとってはそうもいかぬのだろう。
三郎は相手に合せることにした。
年始御礼で対面したとはいえ、挨拶に来る藩士は、とても覚えておける人数ではない。
三郎は事実上初対面の文太郎に対し、まずは共通の知り合いの話から入った。
「勘定方と言えば、筧真之介はそなたの朋輩か?」
「はい、筧をご存知で?」
「兄上、三郎ぎみの御学友、松之助殿は真之介様の弟じゃ」
千代丸がおずおずと横から説明を加えた。
「おお、さようにござりましたか」
文太郎は感心したようにうなずき、
「わが愚弟と違い、松之助殿は英才の誉れも高く、藩庁もその将来に期待をかけておるでしょうな」
「いかにも」
「三郎ぎみの御学友にふさわしい人物です」
三郎は文太郎には鷹揚にうなずくも、比較された千代丸が気にかかる。
文太郎はそんな三郎の気も知らず、
「こいつは多少見目良い姿形と、気立ての良さだけが取り柄で、これといった才もなく」
「容姿端麗、人柄も申し分なし。十分ではないか?」
三郎は心からそう言った。
文太郎は苦笑しながら、
「これが女子なら、嫁の貰い手がいくらでもありますが一」
言いかけた文太郎を三郎は軽く睨んだ。
念者が妻を娶ってしまった今の千代丸に、この話題は無神経ではないか。
身内なら知らぬわけはあるまい。
三郎はわざとに明るい声で、
「なんの、良い養子の口があるやもしれぬ。千代丸にはいずれ、千代丸の道が開けようぞ」
この話題に蓋をした。
千代丸は感謝のこもったまなざしで三郎を見たが、以後は終止畏まった様子で、三郎と兄の会話に入ろうとはしない。
どこの家でもそうだが、嫡男と次、三男の間の力関係は絶対的なものらしい。
文太郎は『勘定吟味役』による明和四年の大掃除以来、藩庫の金の流れはきわめて明朗で、不正の気配はどこにもない。去年から作柄は良好で、藩財政は多少の改善を見せているが、まだまだやれることはあると熱く語った。
『勘定吟味役』の名が出た時、三郎は一瞬眉をしかめたが、すぐに口元に笑みを作った。
「ところで三郎ぎみ。我ら若手藩士の勉強会のこと、お耳に入ってはおりませんでしょうか?」
「勉強会?」
「藩庫を潤すため、商人にばかり頼ってはおれませぬ。櫻田様の残された新たな特産品の生産、販路開拓の案を実現させるべく、我ら若手が月一回会合を開いております」
「ほう、それは初耳じゃ」
三郎は興味をひかれた。
発案者が櫻田右近というのが気に食わぬが、藩と領民を豊にしようとの志にはおおいに共感する。
「いかがでしょう、一度、会にお運びいただけませぬか?」
「私がか?」
「はい、ぜひに」
「そなたら優秀な者が知恵を絞っておる場に、世間知らずの私がのこのこ出かけてもな…」
「なに、十人ほどの気軽な集まりです。我らの話をお聞き頂き、忌憚なきご意見を賜りたいと存じます」
「うむ…」
正直おおいに関心はあった。
が、その手の会合、誠之進に話せば止められそうな予感もある。
三郎が迷っていると、
「次回は十五日、上紺屋町の妙光寺にて申の下刻(午後五時)より参集いたします」
文太郎は一方的に場所と日時を告げた。
「お時間がございましたら、せひお立寄り下さりませ」
「…うむ、考えておこう」
文太郎はそれ以上しつこく誘うこともせず、改めて三郎に礼を言うと、千代丸を連れて帰っていった。
二人と入れ違いに倫太郎が慌てて三郎を迎えにきた。
「三郎ぎみ、さきほど千代丸と一緒に出てきたのは!?」
「千代丸の兄、文太郎だ。私が勉強を見てやっているのを聞きつけ、わざわざ礼を言いに参った」
「さようにござりましたか」
倫太郎はうなずくも、
「はて、いずこからこの棟に入られたのやら?」
首をかしげた。
「教授方控え室の方からやってきたぞ」
「あ…そちらからも入れたのですな」
倫太郎は合点がいったようだが、何やら苦々しい表情をしている。
「いかがした?」
「いえ、何でもありませぬ。さ、遅くなりました、城へ戻りましょう」
倫太郎の様子が気になったものの、あたりは夕闇が漂い始め、三郎はにわかに空腹を覚えた。
三郎は素直にうなずき、ふたりは足早に門を出ると、『けやき坂』を下った。
つづく
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