五の巻
「緑風会」4




by 戸田采女

 彼岸も過ぎ、西の丸にも溝口家の知行地から、今年初めての松茸が届いた。
あっさりと焼いて賞味したり、鴨肉と甘辛く煮たり、西の丸主従は秋の味覚を堪能した。

 藩校はそろそろ秋の試験も近づき、皆の形相が変わって来た。千代丸も大分遅れを取り戻したと見て、三郎は数学の復習のため、ふたりで居残るのを切り上げ、放課後は自らの勉学のため、早めに帰城するようになった。

 元の日課に戻ったことで、供の倫太郎や松之助は内心おおいに安堵した。三郎から片時も離れるなと命じられているふたりは、藩校生活で予定外の事が起こると辛いのだ。

 半月ほど前、ふたりが目を離した隙に、三郎が夕方ひとりで野駆けに出てしまった。以前にも誠之進の留守中、似たようなことがあった。今回も一刻半ほどで戻ってきたし、単に羽を伸ばしてきただけだと思いたいが、ふたりはその事を誠之進に報告できずにいた。

 松之助は三郎の出かけた日が十五日だったのが気かがりだ。兄、筧真之介から『緑風会』の定例会が十五日と聞いていたからだ。

 しかし、年下で臣下の松之助は三郎を問いつめることができず、胃の腑に重いものを抱えながら、三郎が再度同じ行動をとろうとするか、目を光らせるしかないのだった。せっかく相伴に預かった松茸も、何やら砂を咬むがごとく、味気なく喉を通っていく。騎馬の身分でない松之助や倫太郎は、藩校でも馬術の授業は取らせてもらえない。三郎に馬で出かけられては、追いかけることもできないのだった。



「いかがした千代丸?」

兵学の授業が終わり、生徒たちが武術棟へと移動を始めた時、千代丸が物言いたげな瞳で近づいてきた。
「あの…三郎ぎみ」
いつになくおどおどした様子で、懐中に手を入れた。
「なんじゃ?」
「これを」
千代丸は懐から出した手紙を、三郎に差し出した。
三郎は訝りながらも、手紙を受け取った。
千代丸はあたりを見回すと、小声でささやいた。
「また十五日に集まりがあるそうです」
三郎はちらりと千代丸を横目で見た。
「…その手紙は、そなたの兄からか?」

 再び脇坂文太郎が会に誘ってきたのだと思った。
三郎も前回中途半端な帰り方をしたのが気になっていた。
何やら江戸詰の者たちに不満があるらしく、このまま捨て置けぬ気にもなっていたのだ。

 千代丸は伏し目がちに押し黙っていたが、
「あいわかった、城へ戻ってから、手紙は読んでおこう」
三郎は武芸の時間に遅れまいと、懐に手紙をしまい込んだ。
千代丸はなおも潤んだ瞳で三郎を見つめていたが、
「そなたも早う道場へまいれ」
千代丸を促し、自らは先に立って武術棟へ向かった。



 三郎が城へ戻ると、珍しく誠之進が先に帰っていた。お福によれば、離れにこもって書状をしたためているらしい。

 夏以来、誠之進は西中江用水の『加え水』の件で、関川の上流、下流の村々に再三足を運んでいた。

 矢代川上流を堰とめて引水し、最終的に今町の天王川へ落とす、『西中江用水』は松平光長時代に完成し、関川西岸を潤してきたが、その働きは期待通りにはいかず、慢性的な水不足に悩まされてきた。矢代川からの取り入れ量と勾配が少ないことが原因とされた。

 関川からの『加え水』で水量を増やす策が最も効果的と考えられ、用水の上流、下流の村々はふたつに別れて、各々用水計画に着手した。準備のための調査が始まったが、下流の村が取水の候補地として考えた某村は、幕府天領である。 農民主導の計画ではあったが、幕府代官との交渉は、やはり藩庁が行うべしとの声が高まり、誠之進がその任にあたっている。

 用水計画は関係各村の利害が絡みあい、領内の村同士でもしばしば交渉は難航する。ましてや相手が天領ともなれば、一筋縄ではいかぬ。おそらくは大変な心労だろう。

 三郎もそれを承知しているため、最近はできるだけ誠之進に心配をかけぬよう、振る舞ってきたつもりだ。

 三郎はひとり居室に戻ると、懐から手紙を取り出して広げた。
先日三郎が足を運んだことへの感謝と、次回会合の議題が手短かに述べられていたが、来る十五日は早坂甚斎先生もご参加の予定にて、
『何卒三郎ぎみのご臨席を賜りたく、伏してお願い申し上げ候』
と、結ばれていた。
差し出し人は連名となっており、脇坂文太郎を筆頭に、先日の会合にはいなかった者の名も見受けられた。

 三郎は手紙を読み終わると、元通りに畳み、手文庫にしまいこんだ。

(はて…いかがしたものか)

 次回会合に行くべきか、行かざるべきか。

 誠之進に報告すべきか、するまいか。

 夕日が差し込む部屋で、三郎はひとり沈思に落ちた。



 夜風に乗り、菊の香が仄かに漂っていた。

 九月の会合は前回よりは遅い、酉の下刻(夜七時)、妙心寺にて開かれた。
さすがに再び『野駆けに出る』との言い訳は使えず、三郎は迷った挙げ句、「一刻ほどで戻るゆえ案ずるな」との置き手紙を残した。夕餉の後、仕事が残っているのか、誠之進が急ぎ自室に戻った後、三郎は誰にも告げずに城を抜け出した。馬番の老爺は最近ではボケたふりをして、三郎が疾風を連れ出すのを黙認している。

 今日、会合に行くことを決めた三郎は、昼間のうちに『遅れるが後から参る』と千代丸に耳打ちしておいた。
 
 寺に着くと、三郎を意外な人物が迎えた。温泉開発の提唱者、松本権助だ。
三郎が馬から降りるなり、
「三郎ぎみ、今宵はお帰りになったほうがよい」
開口一番そう言った。
「なにゆえじゃ」
「早坂甚斎が来ておる」
「…それが、いかがした?」
「あの男は胡散臭い」
「それは異なこと。仮にも佐伯先生の知己で立派な学者ではないのか? 」
「皆そのように言うがな。儂の勘にござる」
言葉少ない中にも、この男の真摯な警戒感が伝わってきた。
それでも三郎は、
「案ずるな。私のほうからも皆に言うておきたいことがあったのじゃ」
「どうしても行かれるか」
三郎はしかとうなずき、
「通せ」
静かに命じた。
松本は黙って道を開けると、三郎の手から疾風の手綱をとって、傍らの木に結びつけた。
「ならばお供いたします」
松本はいかつい顎を引いて一礼すると、三郎を伴い本堂へ向かった。



「おお、おいで下さりましたか?!」
廊下に三郎の姿をみとめると、総髪の儒者が立ち上がり、両手を広げて三郎を迎え入れた。
「三郎ぎみ、お久しゅうございます」
「早坂先生もご健勝にて何よりです」
三郎が軽く頭を下げると、
「もったいないお言葉、痛み入ります」
早坂も丁寧な挨拶を返し、あらかじめ空けておいたらしい、上座へ三郎を座らせた。

 気がつけば、今回は前のような車座ではなく、三郎を上に、下手両側に藩士が居並ぶ形になっていた。

(やはり様子が前回とは違うな)

 三郎は松本が伝えたかったことを、おぼろけに理解したが、今更後へは引けぬ。

 まずは脇坂文太郎が口火を切った。
「本日は物産の話ではなく、早坂先生をお招きし、わが藩の今後のあるべき姿につき、ご助言を賜っておりました」
「うむ」
三郎は傍らで一礼する早坂に向かってうなずいた。
「遅れてきて悪かった。私に遠慮せず、話を続けてくれ」
「では」
早坂は三郎に薄く微笑んで、藩士たちの方へ向き直った。

「ご一同。常々申しているように、貴藩は度重なる旱魃、洪水にも拘らず、家中のものは質素倹約に励み、藩庁も民百姓への仁愛をもって国を治めている。災害の後も、飢饉、一揆が起きるどころか、藩士・領民は共に復興に力をつくし、『半知御借上』も二年で終えられた。他ではなかなかこうはいかぬもの。先の大殿の功徳か、家老座に人を得たか、いずれにせよ高山領内の行政は非のうちどころがない」

 多少、歯が浮く様な褒め言葉ではあったが、亡き父はもちろん、主膳や誠之進が高く評価されたことで、三郎も悪い気はしなかった。

「そして、ここにおられる三郎ぎみ」
早坂は、やや芝居がかった所作で、三郎を指し示した。
一座の視線が三郎に集中する。
「木綿の着物で過ごされ、教養は身につけても奢侈に偏らず、武芸においても日々鍛錬を重ねておいでとか」
早坂は着座したまま、首だけ動かして三郎と目を合せた。
面と向かってそう言われても、
「いや、私はなにも…」
照れ臭いばかりで、困惑する。
質素倹約と言われても、贅沢品に興味がないだけで、三郎としてはごく普通に過ごしているだけなのだ。
早坂はそれを三郎の初々しさととったか、
「まこと、謙虚なお人柄です。御養子にいかれず、領内に残られたこと、ここにおる者たちはもちろん、藩士の多くが喜び、心強く思うているでしょう」
「その通りにござります!」
「御分家の儀、祝着至極に存じます!」
下座の藩士たちも熱に浮かされたように、口々に同意した。

「さて」
高まった熱気に水をさすがごとく、早坂は手にした白扇で膝を打った。
「ひるがえって、江戸の様子はいかがにござりましょう、三郎ぎみ」
「江戸の様子とは? 藩邸のことか?」
「さよう」
早坂の切れ長の目が、ひたと三郎を捉えた。

「皆、それぞれの立場で忠勤に励んでおる」
「それは重畳」
まばたきもせず見つめられ、三郎はいささか圧迫感を覚えた。
それを跳ね返すがごとく、
「特に要職にあるものは、大そうな激務と聞く。幕府や諸藩との折衝には才覚が要り、何かと気苦労も多そうじゃ」
と、胸を張って言った。

 言ってしまってから、美貌の『留守居役』の顔が頭に浮かび、
(なにゆえ私があの者をほめねばならぬ…っ)
と、秘かに歯がみした。

 三郎は『留守居役』の残像を振り切り、話を続けた。
「しかし、江戸は諸式高騰激しく、軽輩の暮らしは楽ではない」
「なるほど。江戸においても要職にある者は粉骨細心、お役目に励み、軽輩の者は困窮しつつも忠義の心を忘れず、主家に尽くしておるのですな」
「いかにも」
しみじみうなずく三郎に、
「では御上はいかがお過ごしでしょう?」
聞き慣れない呼び方に、三郎は小首をかしげたが、

(藩主である、兄上のことか?)

「ご健勝でいらっしゃる。御母上に孝養を尽くされ、絵の制作にも励んでおいでだ」
「ほう…絵をなさるので」
「玄人はだしの腕前じゃ。風景画なぞ刷り物になって世に出てもおかしゅうはない」
三郎は誇らしげに語った。
兄の父ゆずりの画才に心酔しているのだ。
早坂は口元に笑みを浮かべて、
「他には日々どのようなことをなされておいでです?」
「そうじゃなあ…謡の稽古や碁を打ったり一」

 言いかけて、三郎ははたと気づいた。

(いかん、遊びの話ばかりになっている)

「学問、武芸にご興味は?」
案の定の突っ込みに、三郎は慌てて話を取り繕った。
「なにぶん、千代田のお城への登城が頻繁にあり、なかなかお忙しそうじゃ」
早坂は鷹揚にうなずき、
「江戸在府のおりには、それが藩主の大事な務めにござります」
一同の顔をずいと見回した。

 早坂と居並ぶ藩士たちの間で、何やら暗黙の了解がなったような一一。
三郎はただならぬ空気を感じ取った。

 不用意な発言をすまいと、三郎は口をつぐんだ。

「なれど、今の御上には色々と好ましからざる点が見受けられませぬか?」

(…まずい)

「お若い頃から吉原でのお遊び、成人したあかつきには、もはや学問、武芸に興味を示されず、絹物を身にまとい日々優雅にお暮らしか?」

 言葉に混ざり始めた棘に、三郎は内心息をのんだ。
早坂の惣一郎の描写はある意味的確で、否定する材料がない。
惣一郎の弁護をしたいものの、この論客を黙らせる効果的な言葉がみつかならい。

 思わず松本を目で探したが、中座したのか堂内に姿はない。
なれど、ここへ来たのは己の判断。ならば自力で切り抜ける他はない。

 三郎は腋に汗が滲むのを感じつつ、考えを巡らせた。

 早坂は口元に笑みを浮かべながらも、獲物を捉えるような眼差しで三郎を見た。

「我が尊敬する山鹿素行先生の問答集に、斯様なものがありました」

 藩士たちの目が異様な熱を帯びていた。

 早坂の朗々たる声が堂内に響き渡った。

「君の行状このましからざるとき、臣としてそれを易するは是か非か」
(易する:改易の易。代えること)

 堂内の空気がぴんと張りつめた。

「三郎ぎみ、如何に」

 針を落とすのもためらわれるような緊張感が走る。

「私にそれを問うか?」

「ぜひに」

「ならば答えよう」

 全員が食い入るように三郎を見つめている。

「君の行状好ましからざるとき…」

 三郎は丹田に力を込め、
「万一、好ましからざることあらば、一命を賭して諫言するのが、臣の道と心得る」
静かに言い渡した。

 失望とも感嘆ともつかぬ呻き声が、藩士の間から漏れた。

「私は亡き父上、兄上のご寛容にて分家を許された。生まれ育った故郷を離れとうはない、私の我がままを聞き届けてくださったのだ。私は生涯兄上の臣として、お力になりたいと思うておる。それ以外の道はない」

一座は水を打ったように静まり返った。

***


「そこまでにしていただこう」

突然、入り口の柱の陰から、深い声が響いた。
声の主が堂内に足を踏み入れ、行灯の灯りが姿を映し出した。

「溝口様っ…」

(誠之進…)

 誠之進は悠然と一同の列に歩み寄る。
皆が色を無くし、平伏する中、早坂だけは口元を引き結び端然と座していた。

 誠之進は一同の下手で仁王立ちになり、
「三郎ぎみをこのような会にお誘いすること、今後一切やめていただく。皆も殖産振興の話なら、私や父・主膳が聞くゆえ、遠慮はいらぬ、溝口の屋敷まで訪ねてまいれ」

 藩士たちは誠之進に向かい、声もなく平伏した。
だが脇坂ら、数名の藩士に苦々しげな横顔を、三郎は見逃さなかった。

 誠之進は早坂を正面から見据え、
「早坂殿。佐伯先生のご紹介ゆえ、これまで静観して来たが、貴殿の言動にはいささか不穏なものがある。失礼ながら、当藩が貴殿を正式に顧問として招聘したわけではない。佐伯塾の客分という身分で、藩政に対しこれ以上の発言はお控えくだされ。此度(こたび)に限り不問にいたすが、若手藩士を煽動するがごとき振る舞い、これ以上続けば藩庁として看過できぬ」
一歩も引かぬ構えで、申し渡した。

早坂は石のごとく微動だにせず、膝上の拳を握りしめた。

 誠之進は今一度、早坂を睨みつけた後、
「若、城へ戻りますぞ」
三郎に向かい、胸の奥から暖かい声音で言った。
磁石が引き合うように、ふたりの視線が絡んだ。
「あいわかった…」
黒目がちの瞳が誠之進をひたと見つめ、静かに首肯した。


つづく


「緑風会」3「緑風会」5
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背景は「kigen」さんからお借りしています。


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