六の巻
「朔風」4




by 戸田采女

 櫻田右近が江戸留守居役に就いて数ヶ月、丁度、吉田小兵太が大坂へ旅立つのと前後し、櫻田家は中老・堀隼人丞邸近くの屋敷を賜った。最初は筆頭家老・溝口主膳から、拝領地に新しい屋敷を建ててはどうかとの話も出ていたが、櫻田家は辞退した。当主は江戸詰めで不在、屋敷には右近の母・結衣と使用人のみ。新築などもったいのうござりますと、結衣が固辞した。勘定方の朋輩の家々への配慮もあったのだろう。役目替えに伴う住み替えは当たり前のことだが、倹約が叫ばれるご時世に加増、さらには屋敷まで賜るとなれば、周囲の目は好意的なものばかりではなかった。

 春の帰国以来、誠之進は右近の母を定期的に訪ね、引っ越しの前後は溝口家総出で手伝いにいったが、用水『加え水』の取水地候補である天領との交渉や、緑風会の一件で多忙を極め、しばらく足が遠のいていた。例の噂の余波も気になり、誠之進は近いうちに一度ご機嫌伺いをと考えていた。 

 珍しく昼前に仕事が片付いた日、誠之進は西の丸で簡単に中食を済ますと、櫻田家を訪うべく城下へ手土産を求めに行った。まずは薬種問屋・笹屋で結衣のため人参を、用人の孫作にも何かと思い、横春日町の飴屋にも立ち寄った。享保年間創業の飴屋で、糯米から作った透明な『翁飴』が有名だ。結城家はもちろん、加賀の前田家が参勤交代のおり土産として諸侯に贈り、江戸でもその名を知られている。

 店主の孫左衛門に見送られ飴屋を出ると、入れ替わりに稽古ごとの帰りらしき町娘の一団がやってきた。すれ違いざま、誠之進をちらりと見て一礼する。誠之進も軽く会釈を返して歩み去ると、背後で娘たちが黄色い声をあげて盛り上がっていた。
 微苦笑を浮かべ歩いていると、往来を城の方角から、武家の老人と若い供の二人連れがやってきた。
お互いの姿を認めると、
「おや誠之進様!」
「なんじゃ、孫作ではないか!?」
双方で嬉しげな声をあげた。

「孫作、息災であったか?」
「はい、おかげさまを持ちまして、この通りぴんぴんしております」
櫻田家用人・池田孫作は丁寧に頭を下げた。
誠之進も軽く礼を返し、
「無沙汰をいたし、誠に申し訳ない」
「何をおっしゃいますか。誠之進様も今や御家老様の右腕として、西へ東へ大忙しと聞き及んでおりまする」
誠之進は小さく頭を振り、
「私なぞ、まだまだただの使い走りよ」
ふっとため息をついた。

(江戸留守居役の重責を担う右近の苦労を思えば・・・)

 最近右近から便りは、と聞きたいところだったが、誠之進は例の噂が気になり、自分からは切り出せなかった。孫作のこの様子では、まだ耳に入っていないようだが。
 誠之進は話題を変え、
「時に孫作、そなたも飴を?」
と、肩越しに背後を振り返った。
「最近、奥方様の食が少々細くなりましてな。お好きな飴でも購うて参ろうと思った次第で」
「結衣様はまたお加減が悪いのか?」
「いえいえ、床についてはおられませぬゆえ、ご心配なく。天気の良い日は庭でゆるりと過ごされることも・・・」
「ならばよいが」
誠之進はほっと息をついた。
「今日は、これから結衣殿をお訪ねしようと思うていたところじゃ。ほれ、こうして土産も」
誠之進は両手の飴屋と薬屋の包みを孫作に見せた。
「おや、これは」
孫作は皺の増えた目元を和ませ、
「いつもながら、お気遣い・・・かたじけのうござります。では屋敷までご一緒に」
「うむ。そういたそう」
「これ、一足先に奥方様に知らせて参れ」
孫作は供の者に申し付けると、誠之進と連れ立って、往来を城の方角へと歩みだした



 櫻田家の新居は中老・堀隼人丞邸の裏手にあたる。溝口邸ほどの広さはないものの、白壁に長屋門の堂々たる作りだ。しばらく空家だったため庭に手を入れる必要があったが、今年の剪定作業も大方終わり、松はそろそろ冬支度というところだろうか。

 「誠之進様、ようお越し下さいました」
友によく似た凛とした声音で、右近の母・結衣は式台で誠之進を迎えた。
右近が贈ったのだろうか。鉄納戸の渋い色ではあったが、極細縞の小紋が結衣の年相応の美しさを引き立てていた。
「結衣様、ご無沙汰いたしております。もう少し早う伺うつもりがーー」
「何の、こちらも何かと多忙にて、あっという間に時が過ぎてしまいました」
結衣の透き通るような微笑につり込まれ、誠之進の頬も思わず緩んだ。
「ささ、どうぞ奥へ」
「では」
誠之進は『和泉守国貞』を腰から外すと、結衣の促され屋敷の奥へと歩を進めた。

 一昨年の丁度今頃、右近が江戸へ発って以来、さぞお力落としのことと案じていたが、結衣は病に負けることなく気丈に振舞っていた。誠之進の母・咲を始め、下男の文吉や溝口家の者たちも、誠之進が頼まずとも折にふれて櫻田家を訪ない、一人息子を送り出した結衣に寂しい思いをさせぬよう、心を砕いてきた。

 櫻田家用人の池田孫作はもう喜寿に近く、その年で用人を務めるのは辛かろうと思いきや、結衣や右近の信頼篤く、本人もまだまだ己がこの屋敷を守るのだという気概に満ちていた。
 
 三人は火鉢でほっこりと暖まった奥の座敷で、茶飲み話に花を咲かせていた。
「しかしな、孫作。そなたの手足となって働く、心きいた若党や下働きがもう少しおってもよかろう?」
誠之進の問いかけにうなずきながらも、
「なれど、なかなか眼鏡に適うものがおりませぬで・・・」
孫作はやんわりと言を濁した。

 櫻田家には十分すぎる俸禄が出ているはずだが、屋敷の規模の割に使用人の数が少なめだ。江戸留守居役の体面は保たねばならないが、中老や奉行の屋敷が並ぶこの界隈では新参者。派手な暮らしぶりと思われぬように謹んでいるらしい。それにしても、これから冬を迎え、雪かきに必要な男手が足らないように見えた。
誠之進はおせっかいを承知で申し出た。
「ならば碁敵の文吉と若い下男を時々遣わそうか?」
孫作と文吉は身分は違えど、『若様命の爺や同士』囲碁の会所で息投合し、以来心易く付き合っていた。
これには孫作も目を輝かせ、
「引っ越し以来日々の御用で忙しく、碁会所にもしばらく顔を出しておりませなんだ。文吉殿もお元気で?」
弾んだ声で尋ねた。
「ああ。今は志保の祝言に向けて張り切っておる」
今まで静かに微笑んで話を聞いていた結衣が、わずかに膝を乗り出した。
「いよいよお妹様と吉田小兵太殿が夫婦になられるのですね」
「はい、とうとう」
「このたびは誠におめでとうございます」
「ありがとうございます。小兵太が義弟というのも、何やら妙な心地はいたしますが」
誠之進は耳の後ろを掻きながら、苦笑混じりに答えた。
間をおかずに孫作が肩で息をつき、
「まったく・・・御家老がよう許されましたなあ。あの小兵太の悪たれが御家老の婿とは、未だに信じられませぬ」
薄くなった白髪頭をぺちりと叩いた。

(そういえば昔、孫作が飼っていた鶏を、小兵太の奴、鍋にするのだと絞めてしまったことがあったな)

 病がちな結衣のため、卵を採るために飼っていた鶏だった。残念ながら藩校時代の小兵太は、そういう逸話が山ほどある。行儀の良い右近と暮らす孫作にとって、小兵太のやることなすこと呆れ返るばかりだった。

 数年前、右近が国許で勘定吟味役を勤めた頃、主膳は右近を志保の婿にと考えていた。右近がどこまで詳しく家族に話していたかはわからぬが、孫作の方も何となく気配を察し、期待するものがあったのかもしれない。孫作の自慢の『白菊丸様』を袖にして、小兵太を選んだ志保の気が知れぬということだ。

 「はてさて、蓼食う虫も好き好きとはよう言うたものです」
「これ孫作、失礼ですよ」
孫作を嗜めながらも、結衣は鈴の音のような声で楽しげに笑った。

 秋の日はつるべ落とし。歓談する間に時を忘れ、弱く西日の射していた座敷にも暮色が漂い始めた。時の鐘が申の下刻を告げた。三郎はもうとっくに藩校から戻っているだろう。誠之進は名残惜しそうなふたりに暇(いとま)を告げ、櫻田邸を後にした。



 誠之進が辞した後、あっという間に夕闇迫り、台所からは夕餉の炊煙が上がり始めた。
孫作が下男を呼び雨戸を閉めさせた後も、結衣と孫作はほの暗い奥座敷に残り、膝を付き合わせていた。
「奥方様」
孫作は結衣と目を合わせ、遠慮がちに切り出した。
「誠之進様は・・・あまり白菊丸様のお話をされませなんだな」
「あちらは今お祝い事もあり、お忙しいのです。そのような時にも私たちのことを忘れず、暮らしぶりを気にかけてくれるのですよ。ありがたいことです」
「さようではございますが!」
「離れていても、立場が変わろうと、右近と誠之進様は生涯の友。そのことを幸せと思いましょう」
一瞬遠い目をした結衣だった。

 目にうっすらと涙を浮かべ、孫作はうなずいたものの、
「なれどあのような無体な話、誠之進様はいかがお思いなのでしょうーー」
悔しさからか、孫作の語尾が引き絞るようにかすれた。
「孫作。そなた斯様な噂を信じるのか?」
「いえ、信じとうはございませぬが!」
無理もない。
右近の少年時代から、右近に言い寄り、無茶を働くものを嫌というほど見てきたのだ。
孫作自ら木刀を握り、退けたこともあった。
結衣は暖かい瞳で忠義な用人をしかと見つめた。
「格別のお引き立てを賜った者に、風当たりが強いのは世の常。右近は留守居役として江戸で日々戦っておるのです。私たちもくだらぬ噂に動揺してはなりませぬ」
「おっしゃる通りにはござりますが・・・」
孫作は目をしばたたかせながら、小さく首を横に振る。
結衣は端然と座し、孫作の落ち着くのを待っているかのようだった。
ややあって、
「孫作、溝口様からのお手伝いの話、ありがたくお受けしましょう」
孫作も一度大きく洟をすすると、
「さようにござりますな。身元の確かな者が安心です。滅多な者を新しく雇うわけにはいきませぬ」
結衣と目を見交わしてうなずいた。



 櫻田邸から西の丸まではさほど遠い距離ではなかったが、すぐに暗くなるからと、孫作に提灯を持たされた。

 裏手の堀隼人丞邸にも立ち寄るつもりが、つい櫻田邸に長居してしまった。堀とは城中で時々顔を合わせているものの、最近お互い御用繁多でゆっくり話す時間がなかった。堀邸の壁を横目に歩きながら、近いうちに一席設けねばと誠之進は思った。目付に報告する前に、『緑風会』の一件を堀の耳に入れておかねばならない。

 誠之進は掘割沿いの道に出ると左へ曲がった。葉を落としかけた楓が寒々と風に揺れ、鴨が土手のあちらこちらで羽を休めていた。

 大手橋へと歩みながら、誠之進は再び結衣や孫作のことを思っていた。

(やはりご存知なのだろうか・・・だとしても、孫作はともかく、結衣様は決して私に問いただしたりはすまい)

 誠之進は相対するふたりの様子から、伺い知ることはできなかった。
『緑風会』が溝口邸を訪れた夜、父の前では何食わぬ顔で流したが、誠之進はその後小兵太を激しく問い詰めた。右近がどのような言葉で貶められたか、詳細を聞き出した誠之進は、怒りで血の気が引いた。小兵太の言う通り、自分がその場に居合わせたら、刀を抜いていたかもしれない。

 誠之進の怒りは藩主・惣一郎にも向けられた。

 何故、藩邸中に知れるような態度をとる。
殿のお召しとあらば右近は断れぬ。
通い夫のごとく役宅を訪うこともあるとは何ごとぞ。

 噂がたてば右近が朋輩に侮られ、お勤めがしにくくなるのがわからぬか。
若殿の時とは違うのだ。あまりにも思慮が足りぬというか、軽々しい。

 そのようなことだから、藩主としての御器量を疑われるのじゃ‥。
過日は若手藩士の手前、殿の顔をたてておいたが、私とて、心の底では思うことがある。
三郎ぎみは…まだお若いが、まさしく名君の器。
万一、殿に男子ができぬ場合は、お控えとして申し分のないお方じゃ。

 叶うなら、一度は三郎ぎみを藩主の座につけたいと思う。

 国許の藩士・領民もそれを望んでいるのなら一一。


 誠之進にとって、恐ろしい誘惑であった。
三郎の安寧を思えば、決して口にしてはならぬ一言だった。

 ここはやはり殿に是が非でもお世継ぎを作ってもらわねば。お世継ぎさえできれば、右近との噂など早晩立ち消え、三郎ぎみを担ぎだそうとする輩も、その大義名分を失う。

 お国入りが良い機会じゃ。家老座に進言して、国許でも側室を一一。


 誠之進は歩みを止め、胸底から深く息をついた。
堀の薄闇に浮かぶ、枯れた蓮を眺めつつ、
「何とも都合のよいことを考えておるな、まったく」
誰にともなく呟いた。

 目を閉じれば、船宿『水月』での右近との一幕が、誠之進の脳裏に浮かんだーー。

(おまえの気持に応えてやれなかった代わりに…おまえの名誉は何としても守ってやる…)

 突然、飛び立った鴨の羽音に、誠之進は我に返った。
ほろ苦い追想も、一陣の風とともに闇に溶けて消えた。
誠之進は右手で羽織の襟を掻き合わせ、足早に大手橋を目指した。  

つづく


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