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高山藩前藩主・信輝公の一周忌も終わった師走のある日。
深々と冷えた夜が明けると、庭のつくばいに氷が張っていた。
江戸留守居役・櫻田右近は添役の小野田半十郎とともに、朝から老中首座の家に歳暮を届けにうかがった。先月、孫が生まれたと聞き及び、破魔弓や玩具を送るといたく喜ばれ、右近は面目を施した。午後は田沼邸や親しい旗本の屋敷をまわり、夕暮れ近く役宅に戻ると、側用人・平岡仙之丞が茶を喫しながら、ある知らせを持って右近を待っていた。
「なに…とうとうその気になられたか?」
「はい。百姓でも町人でも出自は問わぬ。愛嬌があれば美形でなくとも結構。からっとした気性の健康な娘を連れて参れ、と」
「百姓でも町人でものう…」
「はい、そのほうが丈夫な御子が生まれるとお考えのようで」
「なるほど」
「『何人も作らされるのはかなわん。丈夫な母親から丈夫な子を授かり、無事に育てば、余がお役御免になる日も近い』ですと」
「たしかに一一」
現実的なお方じゃ、と右近はある意味感心した。
右近は羽織を脱いで衣桁にかけると、袴の裾をさばいて火鉢の側に座った。
火鉢に手をかざしながら
「で、その役目、そなたが引き受けるのか?」
仙之丞は肩で軽く息をついた。
「仕方ありませぬ。早速、天満屋と、近江屋にも相談してみます」
「励めよ」
右近は柔らかく微笑みながら、かわいい後輩の苦労を思った。
*
夏の始めに右近が御褥辞退を乞うてから数ヶ月が経った。あの日を境にすぐというわけにはいかなかったが、日々激務をこなす右近に惣一郎も思うところがあったのか、昼間、ふらりと右近の役宅を訪れることはあっても、中奥の寝所に右近を召し出すのは控えているらしい。
この機会を逃すまじと、宝寿院付きのお年寄・藤江は出入りの両替商・天満屋に命じ、側室探しに乗り出した。八月に入ってから江戸では「稲葉風」がはやり、猛威をふるった。昼間も往来に人気が絶えるほどで、側室探しも一時中断となったが、秋が深まり流行も下火になった頃、天満屋の世話で商家の娘が数名、屋敷奉公と称して奥に入った。天満屋選りすぐりとあって、瓜実顔に柳腰、錦絵の絵姿になりそうな今小町たちだ。宝寿院は茶会だなんだと惣一郎を奥へ誘い娘たちを目通りさせたが、惣一郎は今ひとつ関心を示さず『名を尋ねられる』までには至らなかった。(稲葉風:当時流行ったインフルエンザ)
仙之丞はその経緯を逐一右近に報告していた。
「右近様に似た娘を探してきたつもりでしょうが、所詮はまがいもの。殿も『その手にはのらぬ』とご不快だったようで」
そう言われても微苦笑を浮かべる以外、右近は返しようがなかった。
惣一郎の気性を考えれば当然の反応だろう。老獪な天満屋も存外殿の男心はわからぬもの、と右近は溜息をついたものだ。
(で、こたびは『からっとした気性の健康な娘』か・・・)
お世継ぎ誕生を願う者として、喜ばしい話だとおもう。
来春には初のお国入り。それまでに御側室懐妊となれば、これほどの朗報はない。
胸底に薄い澱のような寂しさを抱えながらも、右近は惣一郎が藩主として立派に勤めを果たし、家中の尊敬を集めることを切に望んでいた。
若殿の気ままな暮らしから一転、藩主はしきたりや勤めに縛られ、思い通りにならない生活だ。されど、それも結城家の嫡男に生まれついた運命。気の毒に思いつつも自分が代わってやるわけにもいかない。惣一郎も果てしなく繰り返される、単調な藩主の日常に慣れていくしかないのだと、右近は胸のうちで呟いた。
*
明和六年が終わろうとしていた。
二十八日午前、高山藩邸前にも一対の門松が飾られた。御用納めで役方(事務方)は午後から暇になるものの、側仕えや留守居役はそうもいかない。年始御礼登城の用意があり、まだまだ気が抜けないのだ。右近も役宅に添役の小野田を呼び、市中の絵図を片手に打ち合わせをしていた。譜代大名の結城家は元日の登城だ。右近は行列の体裁、道筋、どの城門から入るのか、登城時刻など、万が一にも手違いが出ないよう、確認に余念がなかった。
打ち合わせが一段落すると、老僕の仁平が熱いほうじ茶と饅頭を持ってきた。
小野田は無骨な手で茶碗を抱えるように持ち、ふうと冷ましてから一口すすった。
「櫻田様が御留守居役となられてから、はや一年。それがしが申し上げるのもなんですが、今やすっかり板につきましたな。それがしなぞ何年も前から使われておる、おっと失敬、お仕えしておる気分です」
「なんの。こちらこそ、貴公には色々助けられた。まだまだ至らぬが、これからもよしなにお頼みもうす」
右近は部下と目を合わせ、唇の端を柔かく綻ばせた。
「さ、遠慮せずに饅頭もいかがじゃ。うまいぞ」
「うさぎ饅頭ですな」
形の愛らしさと黄身あんの上品な甘みで、数年前から江戸で人気の菓子であった。
「頂戴いたします」
小野田はうさぎ饅頭を押し頂くと、二口で食し、
「美味でござるな」
と、満面の笑みを浮かべた。
屈強な見かけに似合わず、小野田は無類の甘いもの好きだ。
右近は最初この男が苦手だった。
身の丈は六尺足らず。がっしりとした体躯に浅黒く眉の濃い顔は、留守居部屋の文官よりも馬廻りが似合う風貌だ。ところが、これが以外に気働きのできる男で、儀礼や式典の細かい決まり事も熟知し、留守居役としては新米の右近を陰でおおいに支えた。
梅雨時、右近が毒を盛られた事件の後、腕っ節も強いこの男が、身辺警護を兼ねてくれたおかげで、右近は今まで通り自由に行動できた。口には出さねど感謝し、今ではこの大柄な部下を信頼している。
右近も饅頭を食しながら、
「堀田様がお好きでな。よう土産にお持ちした」
歓談を続けた。
小野田はおお、と膝を打ち、
「堀田様はお変わりありませぬか? それがし、随分無沙汰をしております」
堀田又左衛門は右近の前任者で、長年、高山藩留守居役を勤めた大先輩だ。小野田も堀田の推挙で添役となった。
「八月に月見団子お届けして以来でござる。櫻田様は?」
「秋に一度お目にかかった。幸い稲葉風には罹らず、菊の世話などしておられたが・・・」
(随分足腰が弱られたな・・・)
小野田には告げなんだが、巣鴨の隠宅を訪ねた時、右近は堀田が一段と老いたことを感じていた。
*
庭の柿の木は葉を落とし、寒空に細枝をさらしていた。
縁側の日だまりにふたりで腰掛け、熟した柿を食べにくる鳥を眺めつつ、右近は堀田に藩邸の様子を話して聞かせた。
あの日、ようやく側室選びが始まったことを聞き、堀田は大層喜んだ。
堀田はかつて、惣一郎の守役を務めた。
惣一郎が成人し藩主となった今も、『若』の行く末が気になって仕方ないのだ。
「それはようござった。若にも今いちど、お会いしておきたいのう・・・」
「来春、お国入りまでにぜひ一度、藩邸にお運びください。初のお国入りに際し、殿に色々とご助言下さいませ」
「何を言う、それは貴殿の役目であろう?」
「いえ、それがしと堀田様とでは言葉の重みが違います」
堀田は薄くなった白髪頭を左右に振り、
「今や江戸で若のご勘気を恐れず諌言できるのは、貴殿くらいのものじゃ。これからは儂に代わって若を導いてくれ。頼んだぞ、右近殿」
右近の手を取り、目には涙を浮かべんばかりだった。
*
右近は膝上で茶碗を手にしたまま、堀田とのやり取りを思い出していた。
右近は留守居役になる前から、堀田には随分と世話になってきた。藩の重鎮として尊敬するだけでなく、もっと親しい、身内のような気持ちさえ抱いていた。
物思いに耽る右近に、
「櫻田様」
再び小野田が声をかけた。
右近が目を合わせると、
「年始の挨拶に行かれるのでしたら、それがしも是非お連れ下さい」
小野田がいつになく真面目な顔で言った。
「そうじゃな・・・具足開きが終わった頃にでも、一緒にお訪ねしよう」
右近はしみじみと頷き、ゆっくりと茶をすすった。
「右近様」
障子戸の向こうから仁平の声がした。
「何じゃ」
「国許からの飛脚便が届きました。封書が二通来ております」
「入れ」
許しを得て、仁平が障子戸を開けて入室した。
右近の前に進み出ると、畳に膝をつき、封書を押し頂くように差し出した。
差し出し人を確認すると、筆頭家老・溝口主膳と誠之進からそれぞれ一通ずつ届いていた。
小野田は気を利かせたのか、
「では櫻田様、それがしはこれにて」
居住まいを正して一礼した。
「すまぬな、ではまた明日」
右近も小野田の気遣いを素直に受け入れた。
小野田を見送った後、仁平が両手をこすり合わせながら部屋に戻ってきた。
「右近様、お寒くはありませぬか? 炭を取り替えましょうか?」
「いや、まだよかろう。それより仁平、今日の夕餉はなんじゃ?」
「はい、ご在宅とのことでしたので、鴨を購うております。鍋なぞいかがでしょう」
「それはよい」
右近は思わず目を細めた。
高山城下では冬場は鴨が飛来し、櫻田家でも、煮物が時々夕餉の膳にのぼった。
鴨は右近の好物だった。
「今宵は冷えそうじゃ。そなたや伊藤も一緒に食すがよい」
仁平はいつもながら、戸惑った表情を見せた。
「伊藤様はともかく、わたくしもなど・・・」
「かたいことを言うな。ひとり鍋はつまらぬ。たまには良いではないか」
右近の言葉に納得したのか、
「…ではお言葉に甘えまして」
恐縮しながらも、仁平は二つ返事で承諾した。
「〆は蕎麦でな」
右近が片頬で笑うと、
「かしこまりました」
仁平も合点とばかりにうなずいた。
つづく
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