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仁平が台所へ戻った後、右近は火鉢の傍らで二通の封書を手に取っていた。
どちらから読もうか迷った末、主膳の手紙を丁寧に畳上に置き、誠之進の手紙を先に開いた。
(おそらく小兵太の祝言の話だろう…)
誠之進からは櫻田家の屋敷換えと前後し、夏にも一度手紙をもらっていた。春に別れた時の約束通り、誠之進は国許の右近の母・結衣に何くれとなく気をつかい、暮らしぶりを見守ってくれている。
大名飛脚の定期便で来た文ゆえ、悪い知らせではなかろうと、右近は心穏やかに封書を開いた。
燭台の灯りの下、懐かしい友の筆跡が目の前にあった。
『夏に文を送って以来、はや数ヶ月。あっという間に秋も終わってしもうた。御用繁多とはいえ、無沙汰をいたし申し訳ない。貴公も江戸にて息災であろうか? 去る十月末日、小兵太と志保は無事祝言を挙げ夫婦になった。貴公も出席したかったろうが、やはり御留守居役が私事で江戸を離れるわけにはいくまい。両人からも礼状が行ったとは思うが、貴公から祝いの品を送られ、いたく喜んでいたぞ』
(安心せい、礼状は先日志保殿からいただいた…)
右近は満足げな笑みを浮かべながら、読み進んだ。
『御母上、孫作、新しい屋敷にて恙無くお過ごしだ。裏の堀家の奥方、妙殿が色々と気にかけてくれておる。屋敷が広うなったゆえ、もう少し使用人を増やしても良さそうだが、孫作は新たに人を雇うのも気疲れするらしい。冬場は溝口家から孫作の顔見知りを何人か手伝いに送るゆえ、心配無用』
(色々とすまぬな、誠之進)
孫作は今のところ元気だが、あと数年で喜寿だ。右近もそろそろ後任の用人につき、心づもりをしておかねばと考えていた。
『さて、先の文でも伝えた『西中江用水』加え水の件だが、正直、幕府天領代官との交渉は行き詰まっておる。上流の村は高山領内の普請ゆえ問題はないが、天領内から取水する下流の村はそうもいかぬ。予想はしておったが、普請の費用は我が藩で持つと言うても、代官はなかなか首をたてに振らぬ。天領ではここ数十年、年貢取り立てが厳しくなり、一揆も頻発しておる。関川は流量が豊富とはいえ、旱魃の記憶も新しい今、領民は他領に水を分けてやる気にはなれず、代官もいかにも迷惑顔だ…』
右近はここまで読んで、眉を曇らせた。
(我が藩の年貢の料率は四公六民だが、天領は百姓の取り分が七割弱だったはず。我が藩よりも条件が良いにも拘らず、ここ二十年ほどで締め付けが厳しゅうなったと、領民は不満だらけだ。おまけに明和四年の旱魃では、高山ではお救い米が配られたが、隣は何ら救済策を講ぜず、餓死者も出たという。元々統治がうまくいっておらぬのだ)
「一昔前、一揆の鎮圧に、隣接する我が藩の力を借りたくせに」
右近は声に出して呟いた。
天領との付き合いはなかなかに難しい。
『斯様なことを貴公に頼むのも気が引けるが、一度この件につき、田沼様に相談してはもらえまいか? 無論、御老中に頼み事をする以上、相応の見返りを用意せねばとは思っているが』
(気持ちはわかるが誠之進…。今、それはいかがなものだろう)
右近は手を止め、書状を一旦膝上に置いた。
右近としては、誠之進の頼みなら一も二もなく聞いてやりたい。だが、右近は今年の初め、摂津国・天ヶ崎藩に降りかかった災難を思い出していた。丁度その頃、誠之進もまだ江戸に滞在中だった。二人にとっては心乱れる事多い時期で、同じ詰めの間であるにも拘らず、当時は詳細を知らずに過ごしていた事件だった。他藩の留守居役から詳しく経緯を聞いたのは、春になってからのことだった。
明和六年の二月、天ヶ崎藩松平家の江戸留守居役は、幕府から呼び出され、天ヶ崎藩領の上知(あげち)を命じられた。今津村から兵庫津まで(現在の兵庫県西宮から神戸あたり)の豊かな西摂海岸部の領地、二十一ヵ村を召し上げられ、代わりに天ヶ崎城下から遠く離れた播磨国の七十一ヵ村を与えられたのだ。
明和から遡ること数十年前、寛保年間には、西国からの菜種、綿実など油の原料が兵庫津に陸揚げされ、西摂で生産した油は大坂を通さず、直接江戸へ送られていた。だが幕府は、江戸への物資輸送は大坂経由と定め、江戸への直送を許さず、大坂で売買するよう命じていた。大坂に運上金、冥加金を課す代わりに保護しようとしたのだ。よって兵庫津と江戸との直取引は、大坂の商いの妨げになるとされ、様々な圧力がかかっていた。
(西摂の村々は菜種、綿実などの絞油の生産性を上げ、目覚ましい発展を遂げたものの、目立ちすぎたのが仇になったな)
この地域の農村、商業の発展が勘定奉行石谷清昌の目にとまり、田沼意次に西摂の上知を進言したという話だ。
(金のなる木の兵庫津、西摂を幕府に奪われ、天ヶ崎藩も気の毒なことよ…)
右近は同情を禁じ得ず、嘆息した。
しかもこの『上知』は代替わりの時期に、幕府が計画的に動いたふしがある。
天ヶ崎藩松平家は明和三年暮れに前藩主が亡くなり、四年に現藩主・忠継が二十六歳で家督したが、西摂の上知は代替わりからたった二年後のことだった。
(しかし松平家の留守居役も、上知に至る前に何か打つ手はなかったものか。後で家中からも責められたであろう。身につまされるな…。私個人が田沼様に懇意にしていただいているとは言え、やはり幕府と大名家の利害が対立すれば、斯様な結果に終わるのだ。我が藩も心してかからねばなるまい)
右近は再び書状に眼を落とした。
(今、天領と揉めるは得策ではないぞ。今回の西摂上知の裏には、近いうちに将軍・家治様の日光東照宮参詣を実現させたい、そのための費用を捻出する手だてが欲しい、との田沼様の切羽詰まった思いがあったようだ。今、田沼様はこの事で頭が一杯らしい)
頼み事をするにも時期がある、と右近は言いたいのであった。
誠之進が事を急ぐ理由は推察できる。おそらく下流の村々が水不足に悩まされているのだろう。その苦労を目にし、早く何とかしてやらねばと、気が急いているに違いない。
(いずれにせよ我々の関川の治水、用水の普請は十年、二十年がかりの大事業となろう。まずは高山領内で手のつけられる場所から始め、幕府天領の関川からの取水は、時節を得た時にしかるべき筋に願い出てみてはいかがであろう。焦るな、誠之進…)
無論、すぐにも返書をしたためるつもりだったが、叶うなら今の自分の考えを、誠之進に会って直接伝えたかった。江戸と国許との距離がもどかしい。
誠之進は手紙の最後に、藩主・惣一郎のお国入りについて触れていた。
『来年四月にはいよいよ殿のお国入りだ。我々家臣一同、準備万端整え殿をお迎えいたす所存だ。三郎ぎみも御兄上との再会を心待ちにしておられる』
『ただ、今年の作柄は良好とはいえ、国許では『半知御借上』が終わったばかり。藩士たちは引き続き質素倹約に努めておる。言いにくいことだが、未だ家中には、殿の若殿時代の派手な暮らしぶりをとやかく言うものが多い。道中、藩としての体裁もあろうが、くれぐれも行列やお召し物は華美にならぬよう気をつけてくれ。失礼ながら、殿が藩士領民の心を掴めるか否かは、この最初の対面にかかっている。貴公からもよう申し上げてくれ』
誠之進の懸念は右近にもよくわかった。昨今、大方の大名家は財政逼迫に苦しんでいる。質素倹約を掲げる場合、やはり藩主が手本とならねば示しがつかぬ。高山藩だけではなく、諸藩にとっても頭の痛い問題だが、何かと経費のかかる江戸藩邸は、そのあたりが緩いと言わざるを得ない。しかし代替わりから一年。お国入りを機に、惣一郎の意識も変えてもらわねばならない。
(案ずるな、私からも重々申し上げておく)
誠之進の手紙は、御用繁多な右近の健康を案じる言葉で、締めくくられていた。
手紙の日付は十一月二十五日となっていた。江戸につくまでひと月もかかっている。越後・江戸間の冬場の飛脚便は時間がかかるとはいえ、信濃から越後にかけて、既に相当雪深いのだろうか。今年は特に遅い気がした。
(母上や御家老にお送りした歳暮も、この分では年内に届かぬな…)
右近は誠之進の手紙を巻き戻して畳に置くと、次に誠之進の父、溝口主膳の書状を手にとった。誠之進からの私信と異なり、こちらは筆頭家老から江戸留守居役への公式書簡である。
事務的かつ厳しい言葉で綴られた内容に、右近は貌(かたち)を改めた。
『春先から領内に滞在せし江戸の儒者、早坂甚斉なる者が、若手の藩政研究会『緑風会』によからぬ考えを吹き込み、騒乱を起こさんとした。殿や宝寿院様の奢侈を批判する一方で、文武両道、質素倹約を励行する三郎信尭様の徳を讃え、いずれが藩主の器たると問う等、平地に乱を起こすがごとき言動藩庁として看過するにあたわず、十一月一日高山領内より追放とした』
(なるほど。誠之進の手紙はこの件に触れていなかったな。やはり三郎がらみの話は私には伝えてこぬか)
今回は事なきを得たのだろうが、現状に不満を持つ者の『三郎担ぎ出し』は、右近の中で予測できた筋書きだ。
(養子に行かず中途半端に領内に残るから、斯様なことが起きるのだ。今更驚きはせぬ…)
他のことならいざ知らず、この件については、右近に誠之進を助ける気はなかった。
『ところで田安様はいかがお過ごしか。本田家と当家の養子縁組が破談となった件、仲介の労を取られた田安様におかれてはさぞやご不快であり、相当の遺恨を残したやもしれぬ。よもやとは思うが、田安様に不審な動きあらば、知らせてほしい』
(御家老は早坂なる男と田安様の関わりを疑っておられるのか?)
田安慶久は前藩主の正室・宝寿院の兄だ。普通なら妹の嫁ぎ先で騒動を起こそうなど、あり得ぬ話だ。また右近の知る限り、三郎に明確な悪意を抱いているのは、田安の御前というより宝寿院の方である。(青嵐『暮春』)
(家中を引っ掻き回しておいて、騒動が起きれば幕府が介入する。くだらぬ意趣返しだが、あのお方ならやりそうだな…)
右近は田安の御前の悔しげな顔を思い浮かべ、鼻先で軽く笑った。
だが、その先へと書状を読み進んだ瞬間、右近は息を詰めた。
『なお早坂の追放と前後し、領内の宿場や城下で、殿と貴殿につき悪意ある噂が流れ出した。お世継ぎができぬのは、殿の貴殿へのご寵愛がすぎるため、はたまた要職にある者が未だに閨の務め云々と、まことに下世話な、呆れ返るような話である。格別のお引き立てを賜る貴殿を妬む輩の仕業か。されど殿のお国入り前に、斯様な噂が人々の口の端に上るのはいかにもまずい。江戸留守居役たる貴殿は行列に随行せぬであろうが、こたびは特に遠慮するよう申し添えておく。江戸に留まり、留守居役の職責を全うされたし』
右近は書状を手にしたまま、指先が冷えていくのを感じた。
つづく
古文指導 A 様 m(__)m
注:幕府直轄領を表す『天領』という名称は、明治以降に使われたもので、当時の言葉では公儀御料、御料地などと呼んでいたそうです。台詞や手紙の中では当時の呼び方に直そうかなと思ったんですが、混乱しますわね。拙作ではとりあえず天領で通しておきます。いまさらながら時代考証は難しいです。このあたりで勘弁してください(;^^)
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