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低く垂れ込めた鉛色の空から、今にも雪が落ちてきそうだった。
押し詰まった三十日の午後、目付の矢田源八郎が右近の役宅に顔を見せた。 (矢田って誰だっけと思った人、浄夜「邪眼」第三話をご覧くださいませ)
「今日も冷えるのう…」
襟巻きを何重にも巻いた矢田は、風呂敷包み片手に玄関に立っていた。
出迎えた右近は、
「何か御用かな」
唇の端を申し訳程度に綻ばせた。
「相変わらずそっけないお人じゃ」
矢田は包みを式台に置くと、右近をじっと見ながら、息を吹きかけて両手をこすり合わせた。
「貴殿らは御用納めかもしれぬが、我ら留守居は年始登城に備えて何かと忙しいのだ」
「我ら目付とて盆も正月もないわ」
矢田は鼻を鳴らすと、
「外出の予定がないなら、少し付き合わぬか?」
と、竹刀を構えて振る動作をした。
「ほれ、稽古着も持ってきた」
「忙しいと言うたであろう?」
「まあそう言うな、道場で待っておる」
矢田はにまっと笑い、右近の返事を待たずに、風呂敷包みを持って玄関を出ていった。
右近は目を見開き、
「相変わらず…人の話を聞かぬ男だな」
端座したまま小さく首を振った。
(まあよい。こちらも少し身体を虐めたい気分じゃ…)
右近は立ち上がり、
「仁平」
と、奥に向かって声をあげた。
「へいっ」
仁平は返事とともに、すり足で玄関へとやって来た。
「稽古着を出してくれぬか。一刻(二時間)ほど道場へ行ってくる」
「かしこまりました」
白髪頭をぺこりと下げ、仁平は足早に奥へ戻った。
*
梅雨時、右近が毒を盛られた事件は、矢田のその後の調べで、どうやら綾姫付きの侍女、松島の差し金ではないかと推測された。無論、証拠はないし実行犯は不明だ。あれ以来、矢田は仁平に根掘り葉掘り尋ね、若党の伊藤も随分しめあげたらしい。矢田は奥にも情報源を持っているらしく、惣一郎の寵愛を欲しいままにする右近の存在を、松島が苦々しく思っていることを突き止めていた。
『なに、殺す事はない。少々脅かすだけでよいのだ。しばらく殿のお伽ができぬ程度に弱ればよい』
下女のひとりが、松島と誰ぞの会話を聞いたらしい。
『少々脅かすだけ』とは言え、こちらは岩見銀山を盛られたのだ。右近としては警戒を怠っていないが、関与を疑われた仁平や伊藤が哀れでならない。両名はあれ以来、役宅への人の出入りには目を光らせ、特に台所へは、出入りの商人であっても勝手口の外で応対し、中に入れぬようにしていた。
今のところ右近に対する二度目の企てはなく、明和六年は無事に暮れようとしていた。
*
右近が稽古着に着替えて道場に行くと、矢田はすでに木刀で素振りを始めていた。
道場に人気はなく、冷えびえとした空気の中、木刀が風を切る音だけが響いた。
見事に腰の座った動きで、矢田は黙々と木刀を振っている。
筆頭家老・溝口主膳からの書状に心乱され、雑念を払いたかった右近は、自身も木刀を選んで手に取り、無言で矢田に加わった。右近の素振りが百回を超えた頃、ふたりは目を合わせてうなずき、まずは形稽古を始めた。
岩見銀山の一件以来、矢田との付き合いが始まってしまったが、ほどなく矢田が同じ一刀流と聞かされた。矢田の家は江戸定府で、少年の頃より江戸の道場で一刀流を学んだという。
同じ流派とわかり、僅かだが親近感が湧いた。剣術指南の滝川彦四郎が来邸しない日に、たまに二人で稽古をするようになった。
目付という役目柄、おそらくは実戦経験のある矢田にとって、道場での稽古など軽い身体慣らしだろう。それゆえ『何事も基本をおろそかにしてはならぬ』などと、矢田の方から形稽古を申し出たのには、正直驚かされた。一方、打ち込み稽古では、一見互角の対戦に見えるものの、右近は自分が適当にいなされているような気がした。
(一度本気を出させてみたい…)
強い相手との緊張感のある対戦は、しばし右近に悩みを忘れさせた。
半刻(一時間)ほど打ち合った後、
「そろそろ終うか」
と矢田が言った。
「よかろう」
右近も同意し、両名は蹲踞して納刀した。
(ちと仕かけてみるか)
立ち上がり礼を交わした後、矢田が背を向けた瞬間、右近は無言で踏み込み、後ろから脳天めがけて打ち掛かった。寸毫の差で矢田が左へかわすのは見たが、
(なに…)
気付いた時には右近の喉元に、下から斜めに伸びた矢田の木刀の先が、寸止めになっていた。右近は浅く息をつきながら、己に迫る木刀の先を凝視した。
(かわした後、反転して下から突きを入れたのか?)
だとすれば、まったく目がついていかなかった。
右近は木刀を打ち下ろした姿勢のまま、身じろぎもせずにいた。
切っ先を右近に向け、片膝ついた姿勢のまま、矢田が言った。
「おふざけは大概にせぬと・・怪我をしますぞ。御留守居役殿」
右近が目を合わせると、矢田は眼の奥に殺気だった光を残したまま、唇の端で薄く笑った。
*
木刀を片付け道場を出る頃には、矢田は尊大かと思えば恍けたような、いつもの口調に戻っていた。
「いやはや、お忙しいところを付き合わせて悪かった」
「こちらこそ」
「何せ、それがしと櫻田様は剣の稽古以外、何の接点もござらぬうえ、道場以外で一緒におるとこを見られると厄介でな」
意味ありげに鼻をうごめかせた矢田に、
「なるほど」
右近は興味なさげにうなずいた。
藩邸内を役宅の方へと歩きながら、矢田はさりげなく周りの様子をうかがった。今にも雪になりそうな天気の中、庭をうろついている者はいない。
矢田は、いきなり右近の耳元に四角い顔を寄せ、
「先週、奥の餅つきを手伝いに行ってな」
声を潜めて言った。
「貴殿が餅つきか? 何とも似合わんな」
稽古後の汗臭さに閉口しながら、右近はそ知らぬ顔で話に付き合った。
「これも仕事のうちよ。前島様(矢田の上司)に命じられてな。無論、情報収集のためじゃ」
「で?」
「色々と面白い話が聞けたぞ。奥は今、側室探しで上へ下への大騒ぎじゃ」
「その話なら、私も御側仕えの者から聞いておる」
「ご正室様付きの侍女たちは、相当ご機嫌ななめでな。誰かさんが寝所へ呼ばれなくなっても、一向にご正室の部屋に殿のお渡りもなく、誰もかれもが口を開けば、次はどのようなお方がくるのだろうと側室の話ばかり」
右近は苛立ちを声に出さぬよう、
「さようか。その件は側用人の平岡仙之丞と藤江が仕切っておる。私には関わりないことだ」
淡々と返した。
歩きながら、矢田は右近の横顔を見つめている。
頬に感じる視線がうっとおしい。
「そのようなすました顔で。全く妬きもしないのか。殿が聞いたらがっかりするな」
「話はそれだけか。ならば役宅へ帰るぞ。私はまだ仕事が残っておるのだ」
「そう怒るな」
「怒ってなどおらぬ。お手前も早う風呂にでもいかれてはどうか」
黙っていようと思ったが、つい本音が出てしまった。
矢田は右腕をあげ、己の脇の下をくんくんと嗅いだ。
「おお、これは失敬」
「では」
右近は歩を速めて、矢田から歩み去ろうとした。
その肘を捕まえ、
「まあ待て。本題はこれからじゃ」
矢田が声を落として言った。
右近は渋々元の歩調に戻り、矢田は眼光鋭く周囲を確認した。
「奥に、ねずみが一匹出入りしているようなのだ」
「ねずみ?」
「宝寿院様が床下に飼っておられる。過日も縁側でそやつに向かって話しかけておられた」
「それはまた…」
宝寿院の関わる過去の様々な出来事が、右近の脳裏をよぎった。
内藤帯刀との密会、田安慶久や岩田善次郎と仕組んだ、三郎の養子縁組・・・。
「廊下の曲がり角に潜んでおったゆえ、よう聞こえなんだ部分もあるが、国許の話のようだった」
右近は歩みを止めた。
「詳しく聞かせてくれ」
胸底に不快なざわつきを感じた。
再び歩きながら、矢田が声を落として囁いた。
「『あと少しで追放とは口惜しい、おのれ主膳め、国許の藩士たちも不甲斐ない』とか。何ともまあ憎々しげな口調であったな」
(例の儒者の一件か…)
「何か心あたりは?」
右近は一瞬、話すか話すまいか迷ったが、矢田がこうして情報をくれる以上、自分の方も知り得たことを明かすのが筋だろう。
「その『追放』云々の話、おそらく江戸から高山に下った儒者の話だろう。国許の溝口主膳様から知らせが来ておる。若手藩士を焚き付けて、騒乱を起こさんとしたそうな」
「さようか」
「しかし宝寿院様が絡んでいるとしたら厄介だな。後ろにはおそらく田安様が・・御家老もそれを案じておられた」
「なるほど」
矢田が短く返した。
詳しく追求してこないので、右近が意外そうに矢田を見ると、
「いや、心当たりはと聞いたのは、ねずみの方じゃ」
矢田が歩みを止め、右近もそれに倣った。
右近は顎に手をあてて、思案した。
あると言えばある。藩邸に入り込んだ不審者なら、信輝公の医師、日向道伯の弟子に近づいた『植木屋』がいた。宝寿院が『飼っている』ねずみなら、内藤帯刀との間で連絡(つなぎ)をつける者かもしれぬ。
信輝公の突然死に始まる一連の出来事は、一本の糸でつながるのか?
未だ判然とせぬ事は多く、どの事件ひとつ取っても核心には迫れていない。
ふと、右近は頬に冷たいものを感じた。
見上げれば、鈍色の空から綿毛のような雪が舞い落ちてきた。
「おお、降ってきましたな。せっかく稽古で暖まったものをーー」
矢田が着替えの風呂敷包みを抱き抱え、稽古着一枚の肩を震わせた。
「これは一杯やらねば収まりませぬな」
「風呂へ行かれればよかろう」
生返事を返しながら、右近は考えを巡らせていた。
矢田は相変わらず得体の知れぬ男だ。自分にとって敵か味方か、正直右近は見極めかねた。されど目付の配下なら、やはり探索はお手の物。誠之進が国許へ帰った後、留守居役として多忙を極める右近は正直打つ手もなく、『植木屋』の正体が掴めぬまま早一年が過ぎてしまった。
「餅は餅屋か…」
右近が口の中で呟いた。
普通、目付といえば品行方正、四角四面な男たちが多い中、矢田はその形にはまらず、大目付・前島の下で単独行動を許され、厄介な案件を任されている。おそらく探索の手腕を買われているのだろう。ある意味特別扱いされている矢田は、出自に関しても『御重役の隠し子ではないか』などと、突拍子もない噂があった。
謎の多い男ではあるが、この数ヶ月間、矢田源八郎を見る限り、宝寿院や田安の御前に組している、否、飼われるようには見えなかった。加えて、右近に脅しをかけた『松島』の件は、正室・綾姫に波及することを考え、あえて惣一郎はもちろん、上司の前島にも報告していない。岩見銀山の混入量を見ても単なる脅しであり、右近も命に別状はなかった。矢田は確たる証拠もなく、藩主夫妻の間に波風をたてることを避けたのだ。そのあたりの判断を右近は評価していた。
(ここはやはり、信じて任せるか?)
「矢田殿」
「おう」
「後で役宅へお越し願えぬか?」
右近は重々しい声で尋ねた。
「今からでもよいが?」
「風呂へ入って着替えてから来られよ」
矢田は面倒くさそうに、首の後ろを掻いた。
右近は容(かたち)を改め、
「お話したき儀がござる」
矢田を真正面から見つめた。
右近の真剣な面持ちに何か感じたのか、矢田の顔が瞬時に引き締まった。
「わかり申した。後ほど伺わせていただく」
「かたじけない」
右近は丁寧に頭を下げた。
「信輝公毒殺』の疑惑。
右近は自力での探索をあきらめ、矢田源八郎に打ち明ける決心をした。
つづく
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