七の巻
「薄氷」3




by 戸田采女

 低く垂れ込めた鉛色の空から、今にも雪が落ちてきそうだった。

 押し詰まった三十日の午後、目付の矢田源八郎が右近の役宅に顔を見せた。
(矢田って誰だっけと思った人、浄夜「邪眼」第三話をご覧くださいませ)
「今日も冷えるのう…」
襟巻きを何重にも巻いた矢田は、風呂敷包み片手に玄関に立っていた。
出迎えた右近は、
「何か御用かな」
唇の端を申し訳程度に綻ばせた。
「相変わらずそっけないお人じゃ」
矢田は包みを式台に置くと、右近をじっと見ながら、息を吹きかけて両手をこすり合わせた。
「貴殿らは御用納めかもしれぬが、我ら留守居は年始登城に備えて何かと忙しいのだ」
「我ら目付とて盆も正月もないわ」
矢田は鼻を鳴らすと、
「外出の予定がないなら、少し付き合わぬか?」
と、竹刀を構えて振る動作をした。
「ほれ、稽古着も持ってきた」
「忙しいと言うたであろう?」
「まあそう言うな、道場で待っておる」
矢田はにまっと笑い、右近の返事を待たずに、風呂敷包みを持って玄関を出ていった。
右近は目を見開き、
「相変わらず…人の話を聞かぬ男だな」
端座したまま小さく首を振った。

(まあよい。こちらも少し身体を虐めたい気分じゃ…)

 右近は立ち上がり、
「仁平」
と、奥に向かって声をあげた。
「へいっ」
仁平は返事とともに、すり足で玄関へとやって来た。
「稽古着を出してくれぬか。一刻(二時間)ほど道場へ行ってくる」
「かしこまりました」
白髪頭をぺこりと下げ、仁平は足早に奥へ戻った。



 梅雨時、右近が毒を盛られた事件は、矢田のその後の調べで、どうやら綾姫付きの侍女、松島の差し金ではないかと推測された。無論、証拠はないし実行犯は不明だ。あれ以来、矢田は仁平に根掘り葉掘り尋ね、若党の伊藤も随分しめあげたらしい。矢田は奥にも情報源を持っているらしく、惣一郎の寵愛を欲しいままにする右近の存在を、松島が苦々しく思っていることを突き止めていた。

『なに、殺す事はない。少々脅かすだけでよいのだ。しばらく殿のお伽ができぬ程度に弱ればよい』

 下女のひとりが、松島と誰ぞの会話を聞いたらしい。

 『少々脅かすだけ』とは言え、こちらは岩見銀山を盛られたのだ。右近としては警戒を怠っていないが、関与を疑われた仁平や伊藤が哀れでならない。両名はあれ以来、役宅への人の出入りには目を光らせ、特に台所へは、出入りの商人であっても勝手口の外で応対し、中に入れぬようにしていた。

 今のところ右近に対する二度目の企てはなく、明和六年は無事に暮れようとしていた。



 右近が稽古着に着替えて道場に行くと、矢田はすでに木刀で素振りを始めていた。
道場に人気はなく、冷えびえとした空気の中、木刀が風を切る音だけが響いた。

 見事に腰の座った動きで、矢田は黙々と木刀を振っている。

 筆頭家老・溝口主膳からの書状に心乱され、雑念を払いたかった右近は、自身も木刀を選んで手に取り、無言で矢田に加わった。右近の素振りが百回を超えた頃、ふたりは目を合わせてうなずき、まずは形稽古を始めた。

 岩見銀山の一件以来、矢田との付き合いが始まってしまったが、ほどなく矢田が同じ一刀流と聞かされた。矢田の家は江戸定府で、少年の頃より江戸の道場で一刀流を学んだという。

 同じ流派とわかり、僅かだが親近感が湧いた。剣術指南の滝川彦四郎が来邸しない日に、たまに二人で稽古をするようになった。

 目付という役目柄、おそらくは実戦経験のある矢田にとって、道場での稽古など軽い身体慣らしだろう。それゆえ『何事も基本をおろそかにしてはならぬ』などと、矢田の方から形稽古を申し出たのには、正直驚かされた。一方、打ち込み稽古では、一見互角の対戦に見えるものの、右近は自分が適当にいなされているような気がした。

(一度本気を出させてみたい…)
 
 強い相手との緊張感のある対戦は、しばし右近に悩みを忘れさせた。

 半刻(一時間)ほど打ち合った後、
「そろそろ終うか」
と矢田が言った。
「よかろう」
右近も同意し、両名は蹲踞して納刀した。

(ちと仕かけてみるか)

 立ち上がり礼を交わした後、矢田が背を向けた瞬間、右近は無言で踏み込み、後ろから脳天めがけて打ち掛かった。寸毫の差で矢田が左へかわすのは見たが、

(なに…)

 気付いた時には右近の喉元に、下から斜めに伸びた矢田の木刀の先が、寸止めになっていた。右近は浅く息をつきながら、己に迫る木刀の先を凝視した。

(かわした後、反転して下から突きを入れたのか?)

 だとすれば、まったく目がついていかなかった。
右近は木刀を打ち下ろした姿勢のまま、身じろぎもせずにいた。

 切っ先を右近に向け、片膝ついた姿勢のまま、矢田が言った。

「おふざけは大概にせぬと・・怪我をしますぞ。御留守居役殿」

 右近が目を合わせると、矢田は眼の奥に殺気だった光を残したまま、唇の端で薄く笑った。



 木刀を片付け道場を出る頃には、矢田は尊大かと思えば恍けたような、いつもの口調に戻っていた。 

「いやはや、お忙しいところを付き合わせて悪かった」
「こちらこそ」
「何せ、それがしと櫻田様は剣の稽古以外、何の接点もござらぬうえ、道場以外で一緒におるとこを見られると厄介でな」
意味ありげに鼻をうごめかせた矢田に、
「なるほど」
右近は興味なさげにうなずいた。

 藩邸内を役宅の方へと歩きながら、矢田はさりげなく周りの様子をうかがった。今にも雪になりそうな天気の中、庭をうろついている者はいない。

 矢田は、いきなり右近の耳元に四角い顔を寄せ、
「先週、奥の餅つきを手伝いに行ってな」
声を潜めて言った。
「貴殿が餅つきか? 何とも似合わんな」
稽古後の汗臭さに閉口しながら、右近はそ知らぬ顔で話に付き合った。
「これも仕事のうちよ。前島様(矢田の上司)に命じられてな。無論、情報収集のためじゃ」
「で?」
「色々と面白い話が聞けたぞ。奥は今、側室探しで上へ下への大騒ぎじゃ」
「その話なら、私も御側仕えの者から聞いておる」
「ご正室様付きの侍女たちは、相当ご機嫌ななめでな。誰かさんが寝所へ呼ばれなくなっても、一向にご正室の部屋に殿のお渡りもなく、誰もかれもが口を開けば、次はどのようなお方がくるのだろうと側室の話ばかり」
右近は苛立ちを声に出さぬよう、
「さようか。その件は側用人の平岡仙之丞と藤江が仕切っておる。私には関わりないことだ」
淡々と返した。
歩きながら、矢田は右近の横顔を見つめている。
頬に感じる視線がうっとおしい。
「そのようなすました顔で。全く妬きもしないのか。殿が聞いたらがっかりするな」
「話はそれだけか。ならば役宅へ帰るぞ。私はまだ仕事が残っておるのだ」
「そう怒るな」
「怒ってなどおらぬ。お手前も早う風呂にでもいかれてはどうか」
黙っていようと思ったが、つい本音が出てしまった。
矢田は右腕をあげ、己の脇の下をくんくんと嗅いだ。
「おお、これは失敬」
「では」
右近は歩を速めて、矢田から歩み去ろうとした。

 その肘を捕まえ、
「まあ待て。本題はこれからじゃ」
矢田が声を落として言った。
右近は渋々元の歩調に戻り、矢田は眼光鋭く周囲を確認した。
「奥に、ねずみが一匹出入りしているようなのだ」
「ねずみ?」
「宝寿院様が床下に飼っておられる。過日も縁側でそやつに向かって話しかけておられた」
「それはまた…」
宝寿院の関わる過去の様々な出来事が、右近の脳裏をよぎった。
内藤帯刀との密会、田安慶久や岩田善次郎と仕組んだ、三郎の養子縁組・・・。
「廊下の曲がり角に潜んでおったゆえ、よう聞こえなんだ部分もあるが、国許の話のようだった」
右近は歩みを止めた。
「詳しく聞かせてくれ」
胸底に不快なざわつきを感じた。

 再び歩きながら、矢田が声を落として囁いた。
「『あと少しで追放とは口惜しい、おのれ主膳め、国許の藩士たちも不甲斐ない』とか。何ともまあ憎々しげな口調であったな」

(例の儒者の一件か…)

「何か心あたりは?」

 右近は一瞬、話すか話すまいか迷ったが、矢田がこうして情報をくれる以上、自分の方も知り得たことを明かすのが筋だろう。

「その『追放』云々の話、おそらく江戸から高山に下った儒者の話だろう。国許の溝口主膳様から知らせが来ておる。若手藩士を焚き付けて、騒乱を起こさんとしたそうな」
「さようか」
「しかし宝寿院様が絡んでいるとしたら厄介だな。後ろにはおそらく田安様が・・御家老もそれを案じておられた」
「なるほど」
矢田が短く返した。
詳しく追求してこないので、右近が意外そうに矢田を見ると、
「いや、心当たりはと聞いたのは、ねずみの方じゃ」
矢田が歩みを止め、右近もそれに倣った。

 右近は顎に手をあてて、思案した。

 あると言えばある。藩邸に入り込んだ不審者なら、信輝公の医師、日向道伯の弟子に近づいた『植木屋』がいた。宝寿院が『飼っている』ねずみなら、内藤帯刀との間で連絡(つなぎ)をつける者かもしれぬ。

 信輝公の突然死に始まる一連の出来事は、一本の糸でつながるのか?

 未だ判然とせぬ事は多く、どの事件ひとつ取っても核心には迫れていない。

 ふと、右近は頬に冷たいものを感じた。
見上げれば、鈍色の空から綿毛のような雪が舞い落ちてきた。

「おお、降ってきましたな。せっかく稽古で暖まったものをーー」
矢田が着替えの風呂敷包みを抱き抱え、稽古着一枚の肩を震わせた。
「これは一杯やらねば収まりませぬな」
「風呂へ行かれればよかろう」
生返事を返しながら、右近は考えを巡らせていた。

 矢田は相変わらず得体の知れぬ男だ。自分にとって敵か味方か、正直右近は見極めかねた。されど目付の配下なら、やはり探索はお手の物。誠之進が国許へ帰った後、留守居役として多忙を極める右近は正直打つ手もなく、『植木屋』の正体が掴めぬまま早一年が過ぎてしまった。

「餅は餅屋か…」
右近が口の中で呟いた。

 普通、目付といえば品行方正、四角四面な男たちが多い中、矢田はその形にはまらず、大目付・前島の下で単独行動を許され、厄介な案件を任されている。おそらく探索の手腕を買われているのだろう。ある意味特別扱いされている矢田は、出自に関しても『御重役の隠し子ではないか』などと、突拍子もない噂があった。

 謎の多い男ではあるが、この数ヶ月間、矢田源八郎を見る限り、宝寿院や田安の御前に組している、否、飼われるようには見えなかった。加えて、右近に脅しをかけた『松島』の件は、正室・綾姫に波及することを考え、あえて惣一郎はもちろん、上司の前島にも報告していない。岩見銀山の混入量を見ても単なる脅しであり、右近も命に別状はなかった。矢田は確たる証拠もなく、藩主夫妻の間に波風をたてることを避けたのだ。そのあたりの判断を右近は評価していた。

(ここはやはり、信じて任せるか?)

「矢田殿」
「おう」
「後で役宅へお越し願えぬか?」
右近は重々しい声で尋ねた。
「今からでもよいが?」
「風呂へ入って着替えてから来られよ」
矢田は面倒くさそうに、首の後ろを掻いた。
右近は容(かたち)を改め、
「お話したき儀がござる」
矢田を真正面から見つめた。
右近の真剣な面持ちに何か感じたのか、矢田の顔が瞬時に引き締まった。
「わかり申した。後ほど伺わせていただく」
「かたじけない」
右近は丁寧に頭を下げた。

「信輝公毒殺』の疑惑。
右近は自力での探索をあきらめ、矢田源八郎に打ち明ける決心をした。


つづく


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イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


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