七の巻
「薄氷」4




by 戸田采女

 大晦日の朝、江戸の町は明るく晴れ渡った。笹竹や石灯籠の上に薄く積もった雪も、昼前には溶けて消えた。

 右近は中食を済ませると、明日の元日・年始御礼登城の打ち合わせをすべく、中奥へ伺候した。

 大名の服装は家格や身分により違いがあり、儀式や行事の種類によっても異なる。登城日の確認も兼ねて、ご丁寧に毎回幕府側から使者が遣わされ、当日の服装についての知らせがあった。胸紐の材質や色まで細かい決まりごとがあり、なかなかに厄介である。

 右近が小姓の竹弥を通じて目通りを願うと、すぐに御座之間に通された。部屋の中程に端座して待つこと数分。ほどなく仙之丞を従えた惣一郎が現れ、上段の間に着座した。
「右近、明日の確認か?」
「はっ」
右近は手をついて一礼し、面を上げた。
「ご存知のことも多かろうと思いますが、念のためー」
惣一郎は皆まで言わせず、
「よい、始めよ」
脇息に肘を預けると、微笑を浮かべて促した。

 「御譜代大名衆御礼は装束にて卯半刻(午前七時)出仕。大手門よりお入りいただきます」
「うむ。そなたも城中に入るな」
「はい。控えの間にて、添役の小野田とともに待機いたします」
「小野田もか」
若干つまらなそうに、惣一郎が呟いた。
「ご案内は御坊主の木阿弥殿が」
またあいつかと、惣一郎が眉尻を下げた。
惣一郎が城中で恥をかかぬよう、家臣は日頃から坊主衆には気遣い、つまりは進物が欠かせない。今は右近がその役目を果たしている。
「従五位の皆様は大紋直垂、風折烏帽子着用。胸紐の色など、細かいことは後ほど仙之丞に申し伝えます」
「あいわかった」
「御起床は・・」
言いかけて右近が少し考え込むと、
「藩邸を出るのが卯ノ刻ならば、丑下刻(午前三時)あたりかと」
と、仙之丞が惣一郎と右近、交互に目を合わせてうなずいた。

 今更だが惣一郎の日常は、側用人の仙之丞によって仕切られている。

「よきにはからえ」
「はっ」

 藩主の座についてから早一年。
もはや『面倒くさい』の『眠い』だの、文句を言う気力も失せた惣一郎であった。

 右近は引き続き、当日の流れを説明した。
「まず中奥御座之間にて、世嗣の家基様、御三卿が、引き続き白書院にて御三家、加賀様ならびに四位の皆様が、公方様に年始のご挨拶をなされます。殿を含め、五位の方々はその後となります」
「うむ。なかなか番が回って来ぬな」
惣一郎が欠伸をかみ殺した。
「五位以下の御大名は大広間にて年始のお祝いを。御大名の皆様は横の二之間にお控えいただきます。公方様が大広間にお出ましになると、御老中が二之間との境の襖を開けられますゆえ、御一同様揃ってご挨拶を」

「それで終わりか」
「はい」
確かに、それだけのために、元旦、夜暗いうちから行列を整え、千代田のお城に上がるのだ。

「二之間でのお席も大体決まっておりますが、当日、小野田が先詰めでお城に入り、木阿弥殿に改めて確認いたしまする」
「あいわかった」
惣一郎はうんざりした顔をするでもなく、大人しく右近の説明を聞いていた。

 可哀想だがこれも致し方ない。
「右近、大義であった」
「はっ」
右近は微笑を溜めて一礼した。

 本日は他に急ぎの用もなし。
いましばらく話をしたそうな惣一郎に応え、
「年始御礼の後も、挨拶回りに忙しゅうござりますな」
右近は下座から会話を続けた。
「去年は父上の喪中ゆえ失礼したが、今年はそうもいかぬ」
「まずは御老中、御奏者番、詰めの間御同席の諸侯のお屋敷へも、伺わねばなりませぬ」
「わかっておる。そなたの言う通りにするゆえ、どこへなりと連れてゆけ」
溜息混じりで応えながらも、惣一郎の声は弾んでいた。

 江戸で惣一郎は藩主の務めを立派に果たしている。多少派手好きな部分は残っているが、文武に取り立てて熱心でないという理由で、国許で惣一郎が藩主の器量を疑われるのは理不尽に思えた。世の殿様は似たり寄ったり。絵画を始め、風雅の道に没頭している殿様など、珍しくもない。三郎という比較の対象がいなければ、責められることもなかったのやもしれぬ。

(では三郎が藩主になったとして、田舎育ちの三郎が、幕閣や諸侯との付き合いなどこなせるものか)

 右近はその姿を思い描いてみた。
悔しいかな、誠之進の薫育の賜物で、あれでなかなか教養・作法は身につけている。装束姿とて…似合わぬこともない。意外に上手く切り抜けるやもしれぬ。だとしてもーー。

(三郎のために、茶坊主に頭を下げるなどご免だ)

 つい、意地の悪い考えが頭をもたげてしまった。

「のう、右近」
惣一郎の呼ぶ声に、右近は我に返った。
「田安の伯父上のところにも、行かずばなるまいな…」
気の進まぬ様子が見て取れた。
三郎と本田家の養子縁組が破談になって以来、田安慶久は久しく高山藩邸を訪っていない。
腹黒い罠を仕掛けをしたのは向こうだが、結果的に惣一郎は板挟みになった格好だ。
「やはりお顔は出すべきかと」
右近が控えめに言うと、惣一郎は口元を引き締めて頷いた。
「私もご一緒に参ります」
「さようか」
惣一郎の顔に喜色が浮かんだ。

 惣一郎は脇に控える仙之丞に、目顔で下がるよう告げた。

 仙之丞が御座之間を退出し、右近は惣一郎とふたりきりになった。
足音が完璧に遠ざかるまで、どちらとも言葉を発しなかった。
やがて惣一郎がひたと右近を見つめ、上段の間から問いかけた。
「年始の行事が一段落したら、一度外でゆっくり会えぬか?」
右近は目を見開いた。
わずかに睫毛を伏せて思案顔でいると、
「春に国許へ発てば、そなたとはしばしの別れじゃ」
押さえた声音で惣一郎が呟いた。
「…さようにござりますな」
確かにそうだった。
火急の案件で、留守居役の右近が国許へ赴くことがない限り、藩主・惣一郎が江戸に戻れるのは一年先であった。

「予のために、半日空けてくれ」

「…お望みとあらば」
右近は膝上に両手を置いたまま、頭を垂れた。
そのまま目を上げずにいると、上段の間からこちらへ、惣一郎の足音が近づいてきた。
たきしめた香が仄かに漂い、膝が触れそうな位置に惣一郎が座った。
右近の左手を、惣一郎が軽く上から握った。
「父上の…月命日(七日)の墓参の折はいかがじゃ」
「正月は行事が多く難しゅうござりましょう」
「では二月」
否とは言わせぬ口調であった。
右近は無言で首肯した。
「霊巌寺へは朝のうち、仙之丞ら側近と警護の者のみ従えて行く。その後、夕方まで中屋敷で過ごす」
「はい」
「そなたは寺へ随行せずともよい。昼時、ひとりで中屋敷へ参れ」

 人目につかぬようにと、惣一郎が気遣いを見せた。
勝手知ったる中屋敷。
惣一郎が藩主となる前、若殿の頃、右近はそこで用人として暮らした。
門番に見とがめられずに、通用門から入るのは雑作もないこと。
その心を嬉しく思いながらも、多少の小細工をしても、もはや詮無き事と、胸の裡で諦めも漂う。

『殿と私のことは、国許でも既に噂になっておりまする』とは言えぬ右近であった。

「かしこまりました。では仰せのように」

 右近は礼をすべく後ろに下がろうとしたが、惣一郎が膝上の手を握ったままだ。
目を合わせた瞬間、惣一郎にもう片方の手で肩を掴まれた。
端正な顔がわずかに傾き、かすめるように唇を奪われた。
「殿っ」
人払いしたとはいえ、中奥・御座之間だ。
これ以上はならぬ。
右近は目に力を込めて、小さく頭を振った。
「わかっておる」
惣一郎も鋭く小声で返すが、今度は膝を付き合わせたまま、両手を右近の肩に置いた。
切ないほどの想いを込め、右近の瞳の奥を見つめてくる。

(殿…)

 右近もそれをしかと受け止めた。
惣一郎は今一度、柔らかく右近の唇を吸うと、静かに身を離した。

 右近は今度こそ後ろに下がると、畳に両手をついて一礼した。
「では明朝、お目にかかります」
「うむ」
「長い一日になりまする。今宵は早めにお寝み下さりますよう」
「そなたもな」
平伏した右近の耳に、廊下をやってくる足音が聞こえた。



 明けて明和七年元旦。
白々と夜が明け、芝高輪の海浜や神田の寺社は、初日の出を拝む人たちで賑わっていた。

 高山藩藩主・結城山城守信元と留守居役・櫻田右近は年始御礼のため、卯ノ下刻、大手門より千代田城内に入った。

 本丸玄関で御坊主の木阿弥に惣一郎を託す。
年始御礼、恙無く務められますように、と惣一郎の背を見送る右近だった。



 一方、大手門・下馬所では、大名登城の見物人に混じり、ふたりの男が高山藩の行列を見つめていた。

 ひとりは富山の薬売りか。
元日早々、行商の荷を背負った男が、大手門の手前を指差した。
「ほれ、今、藩主が乗り物から降りたぞ。付き従う留守居役の顔は見えたか?」
「遠くて顔などよく見えぬわ、兄者。稀有の美貌というが、どれほどのものか」
もうひとり、羽織袴に総髪の男は、小馬鹿にしたように笑った。
「殿様は骨抜きだそうだな」
「ふふ。この俺ですら、ふと妙な気持ちになる時がある。瑠璃色の蝶のようじゃ。押さえつけて羽をむしりたくなるような」
「兄者も変わらぬな」
「まあよい。おまえも、そのうち近くで顔を拝めるだろう」
薬売りが目を細めて薄く笑う。
「じっくりとな」
酷薄そうな三白眼の奥が光った。
「それは楽しみなことだ」
塗り笠の下、総髪の男は薬売りによく似た瞳でうなずいた。




薄氷3行く春1
浄夜・目次 | 書庫目次


イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


Copyright © 2013 戸田采女
All rights reserved.