八の巻
「行く春」1




by 戸田采女

 鼓の拍子に乗り、朗々とした謡が流れていた。
解放され、喜びに満ちた声から、舞手の高揚感が伝わってくる。
緩急を自在に駆使し、絶妙の間でつけてくる鼓も見事なものだ。
舞手に寄り添い、引き立てながら、巧みに調緒(しらべお)を操り多彩な音色を聞かせる。 

 やがて曲は終わりを迎え、鼓が最後の一打を響かせた。

 舞終えた惣一郎が右近の前に座り、満足げに息をついた。
「合わせるのは久々なれど、腕は落ちておらぬな」
「恐れ入ります」
右近は口元を柔らかく綻ばせ、膝上に鼓を下ろした。
「殿のほうこそ、鮮やかな舞にござりました」
「そなたに褒められるとは、珍しいな」
惣一郎が嬉しげに目を細めた。



 床の間に生けた白梅が、凛とした薫りを放っていた。

 高山藩・藩主、結城山城守信元は、父である前藩主・信輝公の月命日の墓参で深川・霊巌寺を訪れた後、側近のみを従えて、池之端の中屋敷に立ち寄った。若殿時代のように主従打ち揃って中食を楽しんでいるところへ、留守居役・櫻田右近が合流した。

 食後、二人きりで母屋の居間に残り、惣一郎は右近相手に舞の稽古をした。
藩の留守居役として多忙な右近とは、毎日顔は合わせていても、二人で過ごす時間は滅多に持てない。
お国入りを前に、惣一郎たっての願いで実現したひと時であった。

 惣一郎は背後に回ると、右近の膝から鼓を取りあげ、そっと畳に置いた。
そのまま後ろから抱きすくめ、右近の項に唇を寄せた。
「今日は御褥辞退などと、野暮なことを言うてくれるな」
深い声音で耳元に囁く。
右近は半ば睫毛を伏せ、抱きしめてくる惣一郎の前腕に軽く触れた。
「本日は…忘れまする」
声に羞じらいを滲ませて、右近が答えた。

 惣一郎は右近の耳朶を甘噛みしたと思えば、首筋にゆっくりと唇を這わせた。
唇で肌の上を彷徨いながら、片手を差し入れて、右近の肩衣を外しにかかった。(肩衣:裃の上の部分)
さざ波のような快感に身を委ねつつ、右近は黙って惣一郎のなすがままに任せた。
後ろから肩衣を外し終えた惣一郎は、右近の両肩に手を置き、自分の方を向かせた。
右近が目を合わせると、既に熱を帯びた瞳で、
「今日は、言わぬのか?」
と尋ねつつ、右近の小袖の胸元を開きにかかった。
右近はくすりと笑みを漏らし、
『まだ陽がたこうございます?』
いつのことだったか。
芝居茶屋で中食後、昼間から事に及ぼうとした惣一郎に、さような台詞をはいた。
今となっては、二人で気侭に外出できた日々が懐かしい。(番外編「幕間狂言」)

 右近とて、今日のこの時を大切に思っている。

 惣一郎が右手にぐっと力を込め、襦袢ごと右近の小袖の襟を開いた。
露になった左肩にしっとりと唇を押し当てられ、右近の身体の奥で微かな火が灯った。
仰のいて小さく喉を鳴らせば、惣一郎が右近の肩口や胸を狂おしく唇で探った。
薫きしめた香の薫りに鼻孔をくすぐられながら、右近は主の肩にそっと手を添えた。
「殿」
惣一郎が一旦動きを止め、熱を帯びた瞳で見上げた。
右近の方から唇を寄せると、思いがけない強さで引き寄せられた。
角度を変え、何度も口づけを交わしながら、惣一郎の手が右近の袴の紐にかかった。
乱れ始めた息の合間に、
「殿、あちらへ」
右近が惣一郎の耳元に囁いた。
 
 明障子越し、柔らかく光り差し込む居間に鼓と肩衣を残し、惣一郎と右近は奥の間へと消えた。



 側用人の平岡仙之丞と小姓数名は、中食後、東の離れで待機していた。
夕刻まで御用はなし。勝手次第と言われている。

 梅の香が仄かに漂う時節なれど、まだまだ火鉢の側が恋しい。
小姓たちは暖を取りながら、書を読んだり、碁盤を囲んだり、家族に文をしたためている者もいる。

「鼓の音が…止みましたな」
小姓頭の竹弥がふと書から目を上げた。
碁を打つ者たちも一瞬碁盤から顔を上げた。

「これ」
仙之丞が薄く微笑みながらも、目で竹弥をたしなめた。

 竹弥は上司の意を悟り、
「これは余計なことを」
小さく頭を下げた。
和馬ら振袖小姓たちも、気恥ずかしげに眼差しを交わしたが、後はそれぞれに時間を潰した。

 仙之丞も胸底に様々な想いを抱えながら、ゆるりと流れる時を過ごした。



 一ヶ月後。

 かつて藩主・結城山城守(惣一郎)の守役を務め、一昨年まで留守居役を務めた重鎮、堀田又左衛門が藩邸を訪なった。惣一郎の初の国入り前に、是非ともお会いしたいという堀田本人の希望もあったが、留守居役・櫻田右近が惣一郎に堀田の拝謁を強く望んだ。もちろん惣一郎に否やがあるはずもなく、丁度桜が見頃を迎えた頃、惣一郎が巣鴨の隠宅に送った迎えの乗物で、堀田又左衛門はおよそ一年ぶりに高山藩邸の門をくぐった。

 右近は式台で丁重に出迎えた。
「堀田様、ようこそお越し下さりました」
「本日はお招きに預かり、まことに恐悦至極にござる」
「さ、まずは御座之間へ案内いたします。殿が首をなごうしてお待ちですぞ」
「おことの計らいじゃな。礼を言うぞ」
「いえいえ、ご出立前に、殿も是非お会いしたいとの仰せにござりました」
堀田は満足げにうなずき、莞爾として笑った。

 藩邸内の廊下を、堀田は杖を片手に進んだが、御座之間近くで杖を振袖小姓の和馬に預けた。
一瞬怪訝そうに見上げる和馬に、
「お預かりしておけ」
右近が目顔でうなずいた。

(堀田様は殿に杖をつく姿を見せたくないのだ)

 案内に立つ竹弥の後ろ、右近は堀田の足下を気遣いつつ、微妙な距離で付き従った。

 堀田が中奥・御座之間に顔を見せると、
「爺!」
惣一郎が待ちかねたように上段の間から降りて来た。

 巣鴨の隠宅を時々訪れた右近と違い、惣一郎が堀田に会うのはほぼ一年ぶりだった。

「爺、よう来た」
惣一郎が堀田に歩み寄ると、
「殿っ」
堀田は噛みしめるように言葉を発し、惣一郎をひたと見た。
「本日は共に桜を愛でようとのお言葉に甘え、隠居の身が図々しくまかり越しました」
「遠いところ、よう参った」
「殿におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
「そなたも息災で何よりじゃ」
「だいぶ老いぼれましたがな」
堀田は微笑を浮かべつつ、小さく頭を振った。
「久々に聞く爺の声は、懐かしいのう」
惣一郎は堀田の背に軽く手をあてて、
「ささ、こちらへ来て座れ」
と、部屋の上手にいざなった。

 上段の間に戻った惣一郎は、一間ほどの距離を置いて堀田と相対し、巣鴨での暮らしぶりを色々尋ねている。堀田は張りのある声で応えていたが、

(やはり膝がお辛そうじゃ…)

 入り口近くに仙之丞と共に控えていた右近は、堀田の状態を観察しつつ、いかがしたものかと考えを巡らせた。幸い今日は暖かく天気も上々。

(中食は…庭に床几を用意させ、外でいただこう)

「仙之丞」

 右近は仙之丞に耳打ちした。
「庭のしだれ桜のあたりに床几を用意してくれ。料理は塗りの箱に弁当風に盛りつけるよう、台所に急ぎ申し付けよ」
仙之丞は目を輝かせ、
「それがよろしゅうございます。では早速」
右近に一礼すると立ち上がり、すり足で廊下を去っていった。



 まもなく時分となり、用意も整ったと報告を受け、
「殿、そろそろ中食にいたしましょうか」
右近は下座から声をかけた。
「そうじゃな」
「本日は誠に良い天気にて、庭にお席を設けました。花見弁当をしつらえております」
惣一郎は脇息から身を起こし、
「おお、それはよい!」
上機嫌で膝を打った。
物見遊山が大好きな惣一郎が、否というはずはない。
「では爺、参ろうぞ」
「はっ」
堀田は畳に手をついて一礼し、ゆっくりと立ち上がった。
よろめくことはなかったが、右近は何かあればいつでも駆け寄れるよう、気配りしていた。
先に出てきた惣一郎には仙之丞が従い、右近は堀田を待っていた。
「庭に床几を用意させました。どうぞ足をお楽に」
「すまぬな」
ふたりは短く言葉を交わし、右近は堀田と並びゆっくりと歩を進めた。



 中奥の庭では、様々な桜が時期をずらして咲き誇っていた。今は早咲きの彼岸桜は盛りを過ぎ、しだれ桜や染井吉野が満開だ。下草も春の芽吹きを迎え、萌黄色の若葉があちこちで顔をのぞかせていた。

 急ごしらえであったが、仙之丞はよく対応してくれ、床几には緋毛氈もかけられていた。
床几は向かい合わせにふたつ用意されており、片方に惣一郎と堀田、小姓の竹弥が、もう片方に右近、仙之丞、和馬で座った。

 時折そよぐ春風に薄紅色の花弁が舞い、朱塗りの杯にはらりと落ちるのも趣があった。

 一人前ずつ塗り箱に盛りつけられた料理は、薄造りの鯛の昆布〆、卵焼、筍飯、穴子白焼きに菜の花と貝の酢みそ和え。本来なら小姓ふたりは給仕の役目だが、本日は惣一郎の特別のはからいで、竹弥と和馬も相伴に預かった。
 年少とはいえ、和馬も小姓として出仕するからには、行儀作法に非の打ち所はない。
されど料理が美味なのはもちろん、庭での弁当が楽しいのか、子供らしく目を輝かせながら、料理を口に運んでいた。

 惣一郎と並んで床几に腰掛けた堀田が、その様子を目を細めて眺めていた。
「おこと、名は何と言う?」
和馬は丁度卵焼きを頬張ったところだったので、
「和馬と申します」
仙之丞が代わって答えた。
「いくつの時から殿にお仕えしておる?」
「十二歳からにござります」
今度は慌てて卵焼きを飲み下した、和馬本人が答えた。
「お勤めは楽しいか?」
「はい!」
笑顔で迷いなく答える和馬に、思わず皆が相好を崩した。
惣一郎は杯を口に運びながら、堀田に向かって言った。
「仙之丞がよく面倒を見ておるようじゃ」
「ほう、それはそれは。月日の経つのは早いものにござりますな」
「今や立派な側用人だが…仙之丞も振袖小姓の頃は、あんな感じじゃったのう」
「私が、でござりますか?」
どんぐり眼で己を指さす仙之丞を見て、
(和馬ほど子供っぽくはなかった、と言いたいのだな)
右近は微笑を禁じ得なかった。
あれは確か勘定吟味役を拝命する以前、主従で王子の紅葉狩りに出かけた頃の仙之丞を、しばし懐かしく思い出した。

 惣一郎が杯を干すと、竹弥が酒を継ぎ足そうとしたが、右近は目顔で制し、
「私が」
と、床几から立ち上がり、酒器を片手に向かいの主の側へ行った。
惣一郎は上機嫌で杯を差し出したが、
「あまりお過ごしめされるな。後で堀田様とお話もありますゆえ」
と、小声で釘を刺した。
右近は少なめに酒を注ぐと、口元では薄く微笑みながら、惣一郎を軽くにらんだ。

「和馬殿には良い手本がたくさんあるでな。先輩方を見習い、ご奉公に励めよ」
再び堀田に声をかけられ、
「はい、精進いたします」
和馬は背筋を伸ばして、元気よく答えた。
「殿のお身の周りのお世話はもちろんだが、おことら若い者たちは、勉学や武芸も怠りなきよう」
「はっ」
和馬は少々ばつが悪そうに頭を下げた。
堀田は少し身体の向きを変えて、隣の惣一郎と目を合わせた。
「それには、まず殿が手本を示さねばな」
老いたりとはいえ、なかなかの目力に、
「であるな」
惣一郎は僅かに睫毛を伏せて、小さくうなずいた。 

つづく


薄氷4行く春2
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イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


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