|
堀田の乗り物に騎馬で付き従い、右近は堀田を巣鴨の隠宅まで送った。
話しておきたいことがあると堀田に引き止められ、乗り物や供の者を先に帰した。
右近は庭に面した座敷に通され、堀田は奥へ着替えに行った。
やがて家令が現れ茶と菓子鉢を供すると、丁寧に一礼し、座敷を辞していった。
右近はしばし茶をすすり、外を眺めながら堀田を待っていた。
陽は西に傾いていたが、未だ庭先には明るい光が届き、矮鶏(ちゃぼ)が一羽、のんびりと餌をついばんでいた。
やがて裃を脱ぎ、着流しと袖無し羽織に着替えた堀田が、座敷に戻ってきた。
「お待たせしてすまぬ」
「いえ」
右近は目元を和ませ、軽く一礼した。
先ほどの家令が再び現れ、堀田にも茶を供していった。
堀田はひと口すすると、ほっと息をついた。
「儂が若の守役となったは、若が五歳の時じゃ。男子が奥から中奥へ移る年齢じゃな」
「さようにござりますか」
何やら昔話が始まる気配だが、右近はごく自然に受け止めた。
惣一郎が五歳と言えば、かれこれ二十数年前のことか。
堀田がかつて、惣一郎の守役を勤めたことは聞いているが、当時の詳しい話は知らない。
右近は興味を覚えた。
「殿が儂を留守居部屋から引き抜いた。で、再び留守居に戻ったのが若が十一歳の時じゃ」
「なるほど」
基本的な人格形成の時期に、堀田が良い影響を与えたのだと、右近は納得した。
しかし、
「なれど、今となっては悔やまれてならぬのだ」
「悔やむとは?」
「いかがおもう、右近殿」
堀田は一旦言葉を切った。
「学問や武芸は若い時に鍛錬せねば身に付かぬ。大事な十代の時期、若のお側には厳しく躾ける人間がおらなんだ」
右近が黙って耳を傾けていると、
「若は他人への労りの心はお持ちじゃが、少々我慢が足らぬ。はっきり言って、上に立つ者として十分な教育を受けておらぬのだ」
思いがけぬ言葉が続いた。
「それを今になって説教しても、如何程の効き目があるものか…」
(今日、藩邸であれほど諄々と説きながら、胸裡ではさようなことをお考えだったのですか?)
意外な本心を打ち明けられ、右近は少なからず当惑した。
「堀田様、何を申されます。殿は堀田様のお言葉を真剣に受け止められましたぞ?」
「御事はまだ気付かぬか?若は大体いつもああなのだ。儂に面と向かって逆いはせぬ。その時は真剣に聞いておるのじゃが、どこまで身に染みておるのか」
堀田は小さく首を振った。
「堀田様…」
さすがの右近も答えに窮した。
正直、惣一郎の性格を言い当てている部分があったからだ。
堀田は右近と目を合わせ、深いため息をついた。
「右近殿、おことにだけに申すがな。三郎ぎみを見て儂はおおいに悔やんだのじゃ」
なぜここで三郎なのか、と右近は訝しく思った。
堀田は右近の表情を読んだかのように続けた。
「九歳から十八歳の今まで、誠之進殿が片時も離れず養育に尽くした結果はどうじゃ。文武両道に優れ、民を思い、正義の何たるかを知り、なおかつ謙虚に己の分も心得ておる」
堀田の三郎への手放しの讃辞は、右近の癇に障った。
「それはちと大げさな。堀田様は三郎ぎみを買いかぶっておいでです!」
思わず声が大きくなった。
(三郎など、誠之進の真似をして大きくなっただけじゃ)
端座したまま奥歯を噛み締めた右近に、堀田がふっと笑いかけた。
「相変わらずおことは三郎ぎみには手厳しいのう」
「そういうわけでは」
右近は熱くなりかけた己を省みた。
「儂は若が元服するまで、ずっとお側におるべきじゃった…」
なるほど堀田の真意はそこにあったかと、右近は気付いた。
惣一郎が学問、武芸を怠り、遊蕩に走り始めた十代半ば、身体を張って諌言する機会を逸したことが、悔やまれるのだ。
「されど堀田様、留守居役復帰は先の大殿のご意志。いたし方なかったのでは?」
うなだれる堀田に、
「ご自分をお責めになっても詮無きことにござります。ただ、堀田様の殿へのお気持ちはようわかりました」
右近は親身な口調で理解を示した。
堀田は力なく微笑んで続けた。
「だがな、仮に三郎ぎみがその器だとしても、若も藩主となった以上、後戻りはできぬのだ。国許の主膳殿もこの体制を変えるつもりは毛頭ない。三郎ぎみご本人も誠之進殿も、若の臣として御家を盛りたてたいと考えておる」
右近は無言で首肯した。
(ふたりで共に国許にいられれば、三郎も誠之進もそれ以上を望みはしないだろう…)
「前にも言うたが…今の若はおことの言うことだけは聞くじゃろう」
右近は滅相もないと首を横に振った。
「私にそのような力はござりませぬ」
「いや、単純なことよ。若はおことに惚れておるからの」
「堀田様。さような話はーー」
「これは戯れ言ではないぞ。若に『道』や『理』を説いても馬の耳に念仏。好きな相手の言葉しか響かぬのじゃ。儂には爺、爺と懐いて下さったゆえ、やってこれたのじゃ。この先はおことが若を導かねば、どうにもならぬ」
「それはあまりな申されようでは」
「残念ながら事実じゃ。説教よりも、若を上手に操りなされ」
「操る?」
「さよう。若が難しいのは…藩主として直仕置きをする器ではない、されど、全て家老任せにするには我が強すぎるのじゃ」
堀田の言葉は正鵠を射ていた。
「主膳殿がおるうちはまだいいがーー」
と、言いかけて堀田は口をつぐんだ。
「ともかくじゃ。おことも留守居の仕事だけでも大義じゃが、国許の殿への目配りは欠かさぬよう」
「はい、必ず」
「誠之進殿や平岡仙之丞と密に連絡をとってな」
「しかと、承りました」
右近は堀田と真正面から目を合わせ、静かに頷いた。
「時に右近殿・・国許のお母上は息災か?」
「はい、おかげさまにて」
「此度は帰国できなんだが、いずれまた、会える日が来よう」
堀田の眼がわずかに潤みを帯びた。
例の噂につき、堀田も主膳から聞いているのだろうか。
遠回しに気を使われているように思えた。
「さようにござりますな。母の方は二度と会えぬ覚悟で私を送りだしたようですがーー」
思わず瞠目した堀田に、
「私はまた会えると信じております」
右近は胸の裡を語った。
「此度は留守居として江戸に留まりますが、二度と国許に戻れぬわけではありませぬ」
「うむ、もちろんじゃ」
「殿がお国入りを果たし、治世が安定したあかつきには、いつの日か必ず母や孫作に会いに行きまする」
「…お寂しいこととは思うがな」
右近は小さく首を振り、
「江戸で存分にご奉公に励めと、いつも文に書いておりまする」
柔かく微笑んだ。
「気丈なお母上じゃ…」
堀田はそう呟いて、しばし瞑目した。
お互い、しばしそれぞれの思いに沈むように、茶を喫しながら時を過ごした。
やがて、言うべきことを全て話し終えた様子で、堀田はほっと肩の力を抜いた。
「さすがに今日はしゃべり疲れたわい」
確かに目元に疲労の色が漂っていた。
「少し横になられますか?」
「ああ」
右近は家令を呼び、奥の間に布団を敷かせた。
「おことには無理を言ってすまぬ」
右近は布団の脇に座し、堀田にかい巻をかけてやりながら、
「私の方こそ…堀田様のお力添えなくば、今日の私はございませぬ」
胸の奥から言葉を紡いだ。
口には出さねど、
(早くに亡くした父の代わりと思い、こうしてお訪ねし、親孝行の真似事をさせていただいておるのです)
堀田が信輝公の死後、完全に藩政から退いて以来、右近はそのような気持ちで接してきた。
横になり、堀田の瞼が重くなってきた。
「若のことが案じられ、なかなかあの世へは行けぬわ」
「そう簡単に行かれては困ります」
右近が屈み込んで、苦笑まじりに囁くと、
「若を…見捨てんでくれ」
堀田が目を閉じたまま、か細く呟いた。
「ご心配には及びませぬ」
右近は堀田の枕元で深く頭を垂れた。
堀田が眠りに落ちたのを見届け、右近は家令に後を任せて隠宅を辞した。
つづく
|