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藩邸を訪った一週間後、高山藩・前留守居役、堀田又左衛門は明け方、厠へ行こうとして倒れ、あっけなく世を去った。
卒中であった。
家令の知らせを受け、近くに住む医師で碁敵の玄斎が駆けつけた時には、堀田の意識はなく、そのまま不帰の人となった。
その日は丁度月並登城日で、下城後、藩邸に戻った惣一郎と右近は訃報に接した。
*
中奥・御座之間で江戸家老の武村権六が二人を待ち受けていた。
「武村、予をたばかるかっ?!」
堀田の死を告げた武村に向かい、惣一郎は腰を浮かせ、上段の間から白扇を投げつけた。
白扇は肉厚な肩に当たって畳に落ちたが、武村は眉ひとつ動かさず端座している。
「過日の花見の折にはぴんぴんしておったのだ。爺が身罷るはずがない!」
「殿、お静まりを」
こみ上げる涙を堪えながら、下座から右近が言った。
武村が再び口を開き、
「巣鴨の隠宅にて、今朝方早く。卒中でお倒れになったよしにござります」
状況を説明した。
「黙れ武村!」
惣一郎が弾かれたように立ち上がり、乱暴な足音とともにやってきた。
「何かの間違いじゃ!そうに決まっておる!」
叫びながら、武村の襟を掴んで揺すぶった。
「殿っ」
右近はふたりの側ににじり寄ると、膝立ちになって惣一郎の前腕を掴み、
「お静まりをっ!」
腹の底から一喝した。
惣一郎が肩で息をしながら、とりあえずは武村から手を離した。
宙を睨みながら、立ち尽くしていたかと思えば、そのまま脱力したように、畳に座り込んでしまった。
ひと呼吸置いて、武村は襟を直すと、
「堀田様のご息女は旗本の板倉様に嫁いでおられます。幸い近くにお住まいで、すぐに駆けつけられましたが、嫡男・芳太郎殿は大坂藩邸。先ほど早飛脚を出しましたが、江戸に戻られるには少々時がかかります」
右近自身混乱しながらも、これが葬儀の段取りについてであることは察せられた。
「武村様、いましばらく、半刻(一時間)ほどいただけませぬか?」
「櫻田殿…」
武村は放心状態で脇に座る惣一郎を見やった。
「わかり申した。後ほど伺うゆえ、今一度、殿にきちんとお話してくれ」
「承知つかまつりました」
右近は武村に一礼すると、後ろに控える仙之丞に目配せした。
仙之丞や小姓たちは、目を潤ませながら惣一郎に歩み寄り、両側から抱きかかえるようにして立たせ、奥の間へといざなった。
ひとりになった右近は、しばし御座之間で端座していた。
(桜とともに逝ってしまわれたか…)
過日、藩邸を訪った堀田は、病の様子はなかったが、これが最後と言わんばかりに、右近に思いがけない胸の裡を吐露していた。
(堀田様も…予感があったのやもしれぬ)
訃報に接した直後は、鈍器で殴られたような感覚だった。武村に半刻ほど猶予を願ったのは、正直自分のためでもある。
昨年、信輝公が亡くなった後、堀田が急激に老いたことは右近も感じていた。
(なれど斯様に早く、それも殿のお国入り前に逝ってしまわれるとはーー)
この期に及んで、心のどこかで誤報であってくれと願う。
惣一郎の所へ行く前に、まずは右近自身が堀田の死を受け止め、平静を保たねばなるまい。
堀田が残した言葉をひとつひとつ噛みしめながら、右近は己の悲しみを胸の奥へとしまい込んだ。
*
半刻後、約束通り江戸家老の武村が戻ってきた。
蒼白な顔で上段の間に現れた惣一郎に、武村が深く一礼した。
面を上げると、下手で控える右近に声をかけた。
「又左殿とは長い付き合いにござった。儂は江戸家老、又左殿は留守居として、長年二人三脚でやってきたのじゃ」
「まこと、お二人は江戸藩邸の屋台骨にござりました」
武村は右近に向かって小さくうなずくと、
「殿」
上段の間の惣一郎に視線を当てた。
「又左殿は隠居したとは言え、藩の重鎮。留守居部屋からはもちろん、それがしも弔問に参りたいと存じます」
「うむ、そうせい」
惣一郎は低く呟いた後、
「予も参るぞ」
断固たる口調で言った。
右近は思わず武村と顔を見合わせた。
「この目で爺の死に顔を見るまでは信じられぬ」
「殿、それはーー」
武村が太い首を横に振った。
「巣鴨へのお成りはいかがなものかと。殿が現れたのでは、親族も落ち着きませぬぞ」
右近自身も同じ答えを用意していたが、惣一郎の目が潤みを増し、
「どうあっても通夜に行くぞ」
と、声を震わせた。
「なりませぬ」
武村は頑として拒んだ。
「何故じゃ!」
激昂した惣一郎が、白扇が折れんばかりに畳を叩いた。
「そなたの許しなぞ必要ない。行くといったら行くのじゃ!」
藩主の夜間外出は御法度である。
武村が難色を示すのも無理はない。
否というのが正しい判断だ。
されどーー。
(殿も…堀田様のお顔を見て、きちんとお別れをすべきだ)
本人の言うように、死に顔を見なければ納得できないのだろう。
つい先日、堀田にも言われた。
『若に道や理を説いても馬の耳に念仏』
右近もまた瞳を涙で曇らせながら、心を決めた。
「武村様」
右近が武村の前に居住まいを正した。
「それがしが…少数の警護の者とともに、お忍びでお連れします」
「櫻田殿!」
何を言い出すかと、武村が困惑の態で右近を見た。
「堀田様は殿が父とも祖父とも頼むお方。どうか此度だけは格別と思し召し、お許しいただけませぬか?」
「なれどーー」
そのような横紙破り、誰が責任を取るのだと、武村の目が語っていた。
「万一不都合が起これば、それがしが腹を切りまする」
「右近…」
上段の間から、惣一郎が喉声で呼びかけた。
武村は憮然としながらも、
「櫻田殿がそこまで言われるのなら、好きになされよ。儂は知らぬぞ」
「はっ」
「ならばそれがしは、一足お先に弔問に行って参りまする」
武村は惣一郎に告げると、一礼して立ち上がった。
去り際、右近に向かって小声で、
「儂は馬で行くゆえ、後で儂の駕篭を使うがよい」
と言い残した。
確かに重臣用の駕篭は藩主の乗物より地味で、人目につきにくい。
思いがけない配慮に右近は感じ入った。
「…かたじけのうござります」
退出する武村の恰幅の良い後ろ姿に向かい、右近は深々と頭を下げた。
*
日暮れて間もない頃、右近は惣一郎を連れて巣鴨に到着した。
留守居添役の小野田はもちろん、少数精鋭の警護ということで、丁度藩邸に来ていた剣術指南の滝川彦四郎と、目付の矢田源八郎を伴った。元々堀田に仕えていた老僕の仁平も、『ぜひお連れ下さい』と涙ながらに迫ったので、右近は一行の後ろから密かについてくることを許した。
先に弔問に訪れた武村から聞いていたのか、隠宅の使用人は恐縮しつつも、取り乱すことなく惣一郎を迎えた。
「こちらにございます」
家令に案内され、右近も良く知る奥の間に通された。
ほの明るい行灯のもと、堀田は既に死に装束を身につけ、布団の上に安置されていた。
枕元で線香の煙が立ち上っている。
布団の脇には堀田の息女と子供たち。反対側に、堀田の友であり医師の玄斎が付き添っていた。
惣一郎が入室すると、皆が一斉に居住まいを正して平伏したが、
「くるしゅうない」
惣一郎が一声かけ、皆、一礼するともとの姿勢に戻った。
玄斎が堀田の顔にかけられた白布を取り、惣一郎に場所を譲ると後ろへ下がった。
先日、奇しくもこの部屋で、右近は疲れて帰った堀田を布団に寝かせ、かい巻をかけてやった。
堀田との最後のやり取りが、右近の脳裡に鮮やかに蘇った。
「若のことが案じられ、なかなかあの世へは行けぬわ」
「そう簡単に行かれては困ります」
「若を…見捨てんでくれ」
卒中で倒れたとあって、堀田の顔には苦しみの跡もなく、あの日から時が止まったまま、同じ表情で眠っているかのように見えた。
右近は惣一郎から少し離れた下手に、小野田も時折大きな肩を震わせながら末席に控えた。矢田源八郎と滝川彦四郎は堀田と面識がないこともあり、母屋にはあがらず玄関で警護にあたっていた。仁平はおそらく勝手口に回ったことだろう。
「爺…」
惣一郎が堀田の上に屈み込んだ。
「起きよ、爺」
死に装束の肩に手をかけ、軽くゆすった。
骸の冷たさを、手のひらで感じたのだろう。
一瞬戸惑ったように手を離したが、
「爺、いってはならぬ、戻って参れ!」
今度は掛け布団ごと掴んで揺すった。
「殿様」
医師の玄斉が後ろから優しくたしなめた。
「安らかなお顔です。又左殿らしい、大往生でございました」
「大往生だと? 爺はまだ七十じゃ」
惣一郎が首を激しく振った。
「お元気そうにみえましたが、やはりお年でした。時々、お加減の悪い時がありましてな」
床についている姿を見たことはないが、右近も薄々感じてはいたことだった。
「ご自身亡き後につき、色々と差配しておいででした」
玄斎いわく、堀田は万一の場合に際し、家令に全ての指示を出していたという。
惣一郎は堀田の布団に取りすがり、声を上げて泣いた。
父君・信輝公の死に際し、年若い弟、三郎の手前見栄を張ったのかもしれぬが、世嗣としての威厳を持ち、頬を涙で濡らしながらも、静かに枕頭に座していた。
それが今はーー。
童子の昔に戻ってしまったかのように、人前であることも忘れて号泣した。
(数十年の時を経ても、守役と若君の絆とはかくも深いものかーー)
無論、信輝公と惣一郎の間にも暖かな親子の情愛はあった。しかし、幼い日、片時も離れず慈しみ、共に遊び、時には厳しく叱りつつ養育するのは守役なのだ。
惣一郎が本能的に親と慕うは、堀田であったのやもしれぬ。
だが深い感慨を覚えながらも、右近はあえて傍らに寄り慰めることはしなかった。
お国入りを間近に控え、惣一郎はいよいよ藩主として人物を試される。江戸に残る右近は、国許の惣一郎を側で支えることはできない。
確かに統治の実務は家老座が担う。藩主は御神輿で良いといえばそうだ。ただし、国は家老が立派に治めたとしても、藩主の短慮や不始末があれば、御家は一瞬で潰れる。あの赤穂藩浅野家のようにーー。
親にも等しい堀田の死は一大事とはいえ、悲しみや怒りを自身で鎮められずして、いかにして藩主の責務が果たせようか。
(堀田様なら必ずそうおっしゃいますな?)
未だ彷徨っているやもしれぬ堀田の魂に向かい、右近は心の中で語りかけた。
*
夜が更け、惣一郎の涙も枯れ果てた頃、右近は別室で堀田の娘と相対した。
「突然のことで…ご心中お察し申し上げます」
娘は丁寧に一礼し、
「このまま菊を作って、ゆるりと老いていくかと思いましたが、人の生き死にはわからぬものです」
淡い哀しみを滲ませて応えた。
右近は改めて、
「留守居部屋を代表し、心よりお悔やみ申し上げます」
深々と頭を垂れた。
「ところで、御夫君板倉様はーー」
「後ほど戻って参ります」
堀田の娘は曖昧な笑みを浮かべた。
右近が目を合わすと、
「殿様が父の通夜にいらしたこと、夫は知らぬほうが良いと申しまして」
自分としたことが、その辺りの配慮に欠けていた。
惣一郎の法度破りの外出を、旗本の板倉氏は見て見ぬ振りをしてくれる、というわけか。
「皆様にご迷惑をおかけし、まことに申し訳ありませぬ」
やはり此度のことは相当な無理を通したのだ。
「私どもにお気遣いは無用です。父も殿様がお別れに来て下さり、内心喜んでいるでしょう」
「かたじけない」
右近は心から謝意を示した。
何やら堀田がまだ近くにいて、苦笑しているような気がした。
ややあって、右近は本題に入った。
「ところで、ご葬儀はいかがなされます? 嫡男・芳太郎殿は大坂藩邸とのこと。残念ながら、お戻りを待つわけぬはいきませぬな」
娘はうなずき、
「とりあえずは私どもで密葬、兄の帰りを待ち、堀田家の菩提寺で本葬となりましょうか」
「堀田様は留守居役時代の人脈が広く、懇意にされた方も沢山おいででは?」
右近は娘の反応を見ながら、慎重に言葉を選んでいた。
「堀田様ほどのお人です。参列者も多いでしょう。葬儀はやはり藩葬が適当かと・・・」
娘は小さく首を振り、
「せっかくのお言葉なれど、父はもはやお役を退いた隠居の身。此度もお知らせするのはごく内輪の者に限りました」
「なるほど、左様にござりましたか」
右近は無難に返しながら、いかがなものかと思案した。
隠居の身といっても、昨年まで堀田は現役だったのだ。
(静かに見送りたいご息女の気持ちもわかるが、留守居組合や幕閣の知己に知らせぬわけにはいかぬだろう)
(さて、どう話を持って行くかーー)
右近が小さく息をつくと、突然襖が開いた。
「何を言う、爺は予の守役ぞ。予にとって親にも等しい。葬儀は藩葬じゃ!」
惣一郎が仁王立ちになって叫んだ。
「殿」
右近が目で制したが聞く耳持たず、
「本葬は嫡男・芳太郎の到着を待って、父上と同じ、霊巌寺で行う」
平伏する堀田の娘にそう言い渡した。
鶴の一声だった。
右近個人としては、もう少し穏やかに説得したかったが、これでは堀田の家族は否も応もない。
「右近、そなたが取り仕切れ」
「はっ」
親族に申し訳なく思いつつも、右近は惣一郎の命に従った。
つづく
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