九の巻
「発駕」1




by 戸田采女

 「仙之丞様、こちらのお召し物は、まことに持って行かれずともよろしいのですか?」
小姓頭の竹弥が不安そうな目の色で尋ねた。
仙之丞自身、何故そこまで、と疑問が残っていたが、
「右近様がそうせよとおっしゃるのだ」
と、小さなため息をついた。
 
 明和七年四月半ば。
元・留守居役、堀田又左衛門の突然の死から一ヶ月。堀田ゆかりの者たちは、未だ胸の奥に深い悲しみを住まわせていたが、藩主・惣一郎信元のお国入りが間近に迫っていた。堀田の死という心痛む事態に見舞われても、幕府に承認を得た日程を変えるわけにはいかない。側用人の平岡仙之丞を始め小姓たちも、惣一郎の着物や絵の道具など、荷造りでおおわらわだった。

 竹弥が思案顔で手に取っているのは、普段着の絹の小袖だった。
国許へ運ぶ惣一郎の着物の選別にあたり、仙之丞は右近から、
『行事や式典の際のお召しものは別として、普段着に絹物はまかりならぬ』
と、厳しく言われていた。

 『半知御借上(俸給の五割削減)』が終わったばかりの、国許の質素倹約の空気に配慮してのことだ。

「なれど、こちらは柄も大人しく、決して華美とは思いませぬが」
竹弥はなおも納得がいかない様子だ。
確かに金糸が入ってはいるが、遠目には無地にも見える、挽き茶色の上品な着物だった。
仙之丞は結局己で判断できず、
「右近様がならぬとおっしゃるなら、ならぬのじゃ」
右近に責任を押し付けた。
竹弥は肩で息をつき、
「承知いたしました」
憮然とした面持ちで、荷造りを続けた。

 惣一郎も小姓たちも皆、江戸生まれの江戸育ち。
右近から国許はああだこうだと言われても、実感が湧かないのだろう。

 此度、惣一郎に随行する近習は側用人の平岡仙之丞、小姓頭の竹弥、振袖小姓の和馬を含めた計五名である。右近は「行列道中は強行軍ゆえ、少しは体力をつけておかねばならぬ」と、右近の旧友で藩・剣術指南の滝川彦四郎に、小姓たちの指導を願い出た。ところが素振り二十回ほどで音を上げる彼らに、彦四郎は早々に匙を投げてしまった。『他の藩士の邪魔になる』と言うのだ。生来温厚な性格の彦四郎だが、こと剣術に関しては、やる気のない者は許せないらしい。

(これでは先が思いやられるのう…)

 太平の世、小姓は江戸藩邸の接待要員とはいえ、元来、非常時には藩主を守る役目があったはず。

(まあよい。道中、足に血豆ができようが、歩き通さねばならぬのだ。彼らもこれで鍛えられるだろう)

 留守居役の右近は多忙な身である。小姓の心配はもはやこれまで、と思い切った。

 参勤行列の責任者、御供頭も惣一郎の元に日参し、旅程の確認やその他諸々の打ち合わせを行った。高山までの道程は通常通り、江戸・板橋宿を出て中山道に入り、信濃・善光寺経由で北国街道に入る。ただ、一日に何里進めるかで宿泊先や所用日数も変わり、途中、橋のかかっていない信濃の犀川、千曲川などでは、雨が降れば足止めされ、旅程が大幅に狂うこともある。平均的な所用日数は七日程度と言われるが、場合によっては十日を超えることもあった。旅程が狂えば、費用もかさむ。御供頭は気苦労の多い仕事であった。

 藩主の惣一郎は各担当者の報告を聞き、承認を与えるだけなのだが、行列準備で周りがざわざわとせわしなく、日々の暮らしが落ち着かない。絵の道具も荷造りされてしまい、いよいよ中奥でやることがなくなった惣一郎は、半ば仕方なく奥へ顔を出すようになった。

 母・宝寿院は大喜びである。
綾姫も相変わらずのこけし顔だが、やはり嬉しげに惣一郎を迎えた。
惣一郎は母の部屋で茶を点てて振る舞い、正室・綾姫の部屋で姫の弾じる琴を聞く。
発駕まであと一週間ほどだ。
この先一年は会えぬのだからと、惣一郎は持てる忍耐を全て駆使して、ふたりのために時間を過ごした。



「ふう…さすがに疲れたのう」
振袖小姓の和馬を従え奥の廊下を行きながら、つい本音が漏れてしまった。
時刻は申ノ刻(午後四時)を過ぎたばかり、夕餉には早いし、中奥に戻ってもどうせ仙之丞に邪魔にされるだけだ。
「殿、お庭にでも出られますか?」
「そうじゃな」
まだまだ外は明るく、池の周りでは丁度杜若が見頃を迎えていた。
「誰ぞ、履物を持て」
和馬が声を上げると、近くにいた太めの下女が聞きつけ、
「はい、ただいまっ」
と、草履を取りに行った。
その者と入れ替わりに、金魚鉢を抱えた腰元が廊下の向こうからやってきた。
小柄な身体にも拘らず、胸に大きな鉢をしかと抱え込み、水をこぼさぬよう慎重に歩を進めている。

(おお、過日の狆か)

 『狆』というのは惣一郎が勝手に付けた名前だ。
まだまだ桜の蕾は固い頃だったか。新入りの腰元が、湯殿で湯上がりの惣一郎の身体を布でごしごし拭いて、お年寄の藤枝に叱責される事件があった。
(『狆』が奉公に上がった経緯は滑稽本書庫『仙之丞の問わず語り・リクルート大作戦』で)

 狆というのはその時の腰元である。

「そこな腰元」
惣一郎が呼びかけたが返事がない。
見れば、寄り目になるほど手元の金魚鉢に集中していた。
「これ、そこの金魚鉢を運んでおるそなたじゃ!」
和馬が甲高い声で叫んだ。
ようやく腰元は立ち止まり、鉢から顔を上げた。

 腰元は黒目がちの目を見開き、惣一郎と和馬の姿を目に止めると、
「あ、これは殿様!」
慌てて鉢を廊下に置き、その横に平伏した。
「ちこう」
惣一郎が手招きすると、腰元は側まで歩み寄り、廊下に膝まずいた。
「せ、先日は大変なご無礼を…」
惣一郎はからりと笑い、
「あれはもうよい。ところでそなた、近江屋の紹介と聞いたが?」
と尋ねた。
「はい、さようにございます」
腰元は一礼して面を上げた。
普通なら『面を上げよ』と言われぬ限り、下を向いているものだ。
和馬が注意しようと口を動かしかけたが、
「よい」
惣一郎は片手で制した。
黒目がちの大きな目と少し低い鼻。
改めて見ても、なるほど狆に似ている。
「名は何と言う?」
仙之丞から聞いて既に知っていたが、惣一郎はそしらぬ顔で尋ねた。
「染と申します」
「絵をかく娘とはそなたか?」
「はい」
染の顔が喜色に満ちた。
惣一郎も思わず釣り込まれて微笑んだ。
「さようか」
惣一郎は満足げにうなずくと、
「少々退屈しておったのじゃ。丁度よい。そなたの絵、見せてみよ」
「と仰せになりましても…絵双紙しかこちらへは持ってきておりませぬが」
「絵双紙とな?」
「はい、私が挿絵を描き、近江屋さんから出版されました」
「ほう、それは面白い。そなた絵双紙を生業としていたのか?」
興味を示されて嬉しいのか、染は目を輝かせたが、
「生業などと大層なものでは。それに絵双紙と言っても…『ぶんぶく茶釜』とか子供向けの赤本にございます」
恥ずかしげに続けた。
「よいではないか。ここで待っておるゆえ、早う持って参れ」
「あ、でも綾姫様の金魚鉢がーー」
「和馬。代わりに綾の部屋まで運んでおけ」
「私がですか?」
どんぐり眼で和馬が己を指差した。
「早う行け」
殿に命じられれば致し方なし。
和馬は一瞬顔をしかめたものの、金魚鉢を重そうに抱え上げた。
鉢の水が大きく揺れ、赤い出目金が鉢の中をせわしなく泳ぎ回った。
「なるべく揺らさぬよう、静かに運んでやって下さいませ」
染が和馬に頼むと、和馬はいよいよ不機嫌な顔で、
「何ゆえ私がこのようなことを…」
染にだけ聞こえる声で言い捨てた。
鉢を抱えた和馬は頼りない足取りで、廊下を綾姫の部屋へと向かった。

 和馬の後ろ姿を見送っていると、先ほどの下女が庭伝いに惣一郎の履物を持って現れた。
下女は沓脱ぎ石の上へ、履物を揃えて置いた。
「大義じゃ」
惣一郎は下女に一声かけてやり、草履に足を滑り込ませた。
「これ、染とやら。あそこの東屋で待っておるゆえ、絵双紙を取って参れ」
惣一郎が池の向こうを指差して言った。
「かしこまりました」
染は弾んだ声で一礼すると、いささか大きな音をたてて、急ぎ廊下を自室へと戻って行った。



(なるほど…近江屋の眼力も侮れぬな。これは瓢箪から駒やもしれませぬぞ)

 庭へ降りていく惣一郎を、柱の影に隠れるようにして、宝寿院付きのお年寄り・藤江がしたり顔で眺めていた。


つづく


「行く春」5「発駕」2
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背景は「kigen」さんからお借りしています。


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