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江戸留守居役として、藩主不在の暮らしは、右近にとっても初めての経験だった。
発駕を三日後に控えた日、少し遅めの中食に、右近と小野田は藩邸にほど近い、町家との境目あたりに出ている二八蕎麦の屋台に来ていた。池之端の中屋敷近くに出ていた屋台もうまい蕎麦を出したが、こちらの親爺もなかなかいい腕だ。
二人は椅子代わりの酒樽に腰掛け、右近はあられを、小野田はたぬきを注文した。
親爺が手際よく蕎麦をゆでる間、右近は早速話を切り出した。
「で、どうなのじゃ。殿がおられぬ間、留守居の仕事はいかがあいなる?」
「はい、登城や儀式がございませぬので、留守居部屋の仕事は昨年と比べれば大分暇かと。ただ、右近様とそれがしは幕閣・諸藩との付き合いがございますゆえ、相変わらずの日々となりましょう」
「ふむ。寄合は頻繁にあるということだな」
「さようです。むしろーー」
小野田は一度言葉を切ると声を潜めて言った
「殿様不在の折、羽目を外して遊びたい留守居もおりまして」
「なるほど」
「大きな声では言えませぬが、柳沢家の留守居が吉原がお好きで」
「そうなのか?」
「昼店へのお誘いがあるやもしれませぬ」
確かあちらの留守居はまもなく還暦のいい年だったはず。
「困ったものだな」
右近は微苦笑を浮かべ、
「藩を上げて質素倹約を掲げつつ、留守居が吉原では示しがつかぬのに」
ため息まじりに言った。
「まことに。ただ、どこの家中も似たようなもので」
小野田の言いたいことはわかる。
江戸詰めが長くなると、特に留守居役は金銭感覚がおかしくなるのだ。
だからと言って『我が家中は質素倹約を旨とし』などと四角四面に振る舞い、組合の宴席に全く参加しなければ角が立つ。
留守居同士の付き合いは、その辺りの匙加減が難しい。
改めて今は亡き前任者、堀田又左衛門の、良い意味での世渡りのうまさに敬服する右近であった。
「ところで、芳太郎殿はいかがされておる?」
実は右近が聞きたいのはその話であった。
留守居部屋では話題にしにくく、小野田と二人になる機会を待っていた。
亡き堀田の嫡男、芳太郎と小野田は面識があるらしい。
「はい、確か先週、大坂に発たれたよしにござります」
「堀田様の葬儀から、二週間ほどしか江戸にいなかったのか?」
「そういうことになりますか」
「四十九日の法要までおられなんだのか…」
(色々と後片付けがあったのでは?)
右近はわずかに首をかしげたが、
「堀田様が・・ご自身亡き後の差配を見事に済ませておられたので」
右近の胸の内を読んだかのように小野田が答えた。
「巣鴨の隠宅はどうなされたのだ?」
「嫡男・芳太郎殿が大坂詰めということもあり、何かあった時は処分を頼むと、心易い口入業者に話をしていたそうです」
「なるほどな…」
遠方に住む息子の手を煩わせず、己の身の始末は己でーー。
堀田らしいと言えばそうであった。
巣鴨の御薬園に近く、時折綿羊ののどかな鳴き声が聞こえる隠宅は、右近にとっても心やすらぐ場所であった。それも失われることを知り、右近は改めて鈍い胸の痛みを覚えた。
「へいお待ち」
うまそうな湯気をたて、蕎麦が運ばれた。
ふたりは丼を受け取ると、しばし黙々と蕎麦をたぐった。
小野田はなぜか芳太郎の話となると口が重く、此度も話はここで途切れた。
右近としては堀田と芳太郎の親子関係につき、もう少し知りたいところなのだがーー。
とはいえ無理に聞き出すほどの話でもなく、右近は今日もここで諦めた。
小野田は旺盛な食欲であっという間に蕎麦を平らげた。
右近の頼んだ『あられ』も小柱のだしが効いて旨く、右近は汁を最後まで飲み干した。
「親爺、うまかったぞ」
右近が一声かけて微笑むと、
「へい、毎度ありい」
屋台の親爺が相好を崩した。
右近と小野田はそれぞれに蕎麦代を置き、屋台を後にした。
*
留守居部屋に戻り午後の執務が始まった。
明和七年四月、高山藩は藩主・惣一郎の初のお国入りと、新天皇・後桃園帝の即位式が重なり、実のところ留守居部屋は御用繁多であった。
天皇の即位にあたっては、三代家光公の時代から、五万石以上あるいは四位以上の大名が、京へ使者を派遣して進物を送るのが慣例となっていた。高山藩十一万石はその範疇に入る。
本来なら留守居役の右近が正使として出向く所だが、藩主国入りと重なるため、添役が代わりに京へ発つことになった。小野田でも問題はなかったが、念のため、宮中の礼儀作法に通じた古株の者が選ばれた。
右近らが進物の最終確認をしていたところ、側用人の平岡仙之丞が難しい顔つきでやってきた。
入口に仙之丞の姿を認め、右近は筆を持つ手を止めた。
進物の山や役人の間を縫って、仙之丞は上座の右近の側まで来て座った。
「お仕事中申し訳ござりませぬが」
「いかがした、仙之丞?」
右近は筆を硯に置いた。
仙之丞は声を潜めて切り出した。
「中奥までお越し下さりませぬか?」
「何事じゃ?」
「宝寿院様が…殿のお乗り物の件で酷くお怒りで」
仙之丞が眉間に皺を刻んで言った。
右近は渋面を作った。
「地味すぎると言うのだな」
仙之丞は小さく頷き、
「我らの手には負えませぬ」
右近に助けを求めた。
(私の手に負えるとも思えぬが)
それでも乗り物を選んだのは自分だ。行かずばなるまいなと、右近は重い腰を上げた。
「小野田、後を頼む」
「承知つかまつりました」
小野田は微苦笑を浮かべつつ、仙之丞を見て小さく首を振った。
*
『初のお国入りにもかかわらず、行列やお乗り物が随分地味らしい』
そんな下女のおしゃべりを宝寿院の部屋子が聞きつけ、女主人に注進したようだ。
怒った宝寿院が中奥まで直談判に出てきた。『乗り物を見せよ』と、もの凄い剣幕で、側仕えの者たちが渋々納戸に案内したという。
右近が御座之間に入室して一礼するやいなや、
「右近、あの乗り物は何じゃ?!」
宝寿院の鋭い叱責が飛んだ。
「まあまあ母上」
上段の間から惣一郎が宥めようとするが、宝寿院は聞く耳持たず、
「どこぞの貧乏家中ではあるまいし、飾りもろくに施さぬ乗り物なぞ…あれでは道中いい笑い者じゃ!」
怒りに任せて片手で畳を叩いた。
(我が藩とて掛りは減らず、さらなる借金は断られ、手元不如意にござりますが?)
右近は伏し目がちに聞いていたが、
「あのお乗り物は黒塗、惣網代、棒黒塗りで、決められた格式に則ったもの。先の大殿が使われたものですが、此度の殿の発駕にあたり黒漆で塗り直し、源氏車の御紋も、棒と駕篭の左右にきちんと金で入れてありまする」
落ち着いた声音で説明した。
一見地味に見える乗り物だが、中はそれなりに豪華で、黒漆の屋根の日よけは内側に意匠が凝らしてある。乗り物の下半分に多少の緩みがあったので、釘や楔を打ち込んで補強した。引き戸や取手の紐も全て取り替えた。
乗り物で旅する惣一郎の快適さを損なわず、華美な装飾を抑え、迎える国許の反応にも留意した。
右近は己の判断に絶対の自信があった。
「そなた、亡き殿のお古と言うたか?」
「さようにござります」
平然と答える右近を、宝寿院は険しい眼差しで見た。
「初のお国入りというに、何ゆえ新しい乗り物を用意せぬ?」
目を上げた右近と宝寿院の視線が、真っ向からぶつかった。
「初のお国入りだからこそです」
「何をわけのわからぬことを言うておるっ」
宝寿院はいよいよ激昂し、立ち上がって打ち掛けの裾を翻すと、右近の側まで歩み寄った。
きつい伽羅の薫りに、右近は反射的に息を詰めた。
右近は見下ろす宝珠院の視線を感じつつ、正面の惣一郎にも聞かせるつもりで口を開いた。
「昨年は幾分持ち直したとはいえ、未だ藩財政逼迫の折、質素倹約に勤める国許の者たちに、殿も同じお心であると示さねばなりませぬ。行列が領内に入った時、藩士領民が初めて目にするは、殿のお乗り物。お乗り物はお国入りに際しての、殿の心構えを示す象徴にござります」
右近は一息に言い切ると、惣一郎に対し深く頭を下げた。
(殿、これは堀田様の御遺言でもありましたな)
右近は惣一郎が即座に同意することを望んだが、
「右近」
先に口を開いたのは宝寿院だった。
「そなた、殿に対し、藩士領民に媚びよと申すのか?」
「そのようなことは申しておりませぬ」
「いいや、わらわにはそう聞こえる。下々と同じ心とは笑止な」
宝寿院は小馬鹿にしたように笑った。
右近は内心舌打ちしていた。
堀田の最後の諌言は惣一郎の心を動かしたはず。
それをここへ来て、宝寿院の埒もない繰り言で台無しにされてはかなわない。
(元はと言えば貴女様の贅沢三昧で、殿が国許での信望を失ったようなものじゃ)
右近も腹の中は煮えたぎっていたが、この一言は決して口にすまいと堪えた。
(殿、何とか言ってくださりませ!)
祈るような気持ちで右近は端座していた。
惣一郎は脇息に肘を預けたまま思案顔だ。
小姓たちも不安げに目を泳がせている。
「右近」
ようやう惣一郎が口を開いた。
「どうしてもあの乗り物でのうてはいかぬのか?」
(殿…っ)
右近は奥歯を噛み締めた。
惣一郎は右近の表情を伺っているが、どうにも旗色が悪い。
「ほれ黒塗の、もうひとつの方では不都合か?」
納戸に眠っていた、全面に蒔絵装飾の施された乗り物のことだ。保存状態は悪くなかったが、信輝公はあまり好んで使われなかった。
(地味な乗り物での国入りを勧める理由など、堀田様とふたりがかりで何度も言うたではないか)
『その時は真剣に聞いておるのじゃが、どこまで身に染みておるのか』
(堀田様の言われた通りじゃ。やはり殿は私の意図など、まったくおわかりではない)
右近は激しく苛立ちを覚えながらも、
「古いものゆえ、補修が十分ではありませぬ。それにやはり煌びやか過ぎて、今の国許の空気を考えればふさわしくありませぬ」
今一度、説得を試みた。
(絢爛豪華な乗り物で、信越国境を越えてみなされ。『ほれみたことか、やはり派手好みのお殿様よ』と、一気に城下まで噂が伝わりまするぞっ)
右近の心の声も知らず、
「ふむ…」
惣一郎は顎に手をあてて考え込んだ。
おそらく惣一郎自身には乗り物に大したこだわりはなく、できれば母の機嫌を損ねたくない、それだけの話なのだろう。
宝寿院にはこれ以上口を挟んで欲しくなかったが、
「右近、そなた殿の御威光と国許の空気とやら、いずれが大事なのじゃ?」
挑むような口調で右近に問うた。
これには右近も眦を決した。
(その御威光のために、私や御家老、誠之進がどれほど心を砕いているかわからぬのかっ)
加えて宝寿院は、国許を追放された儒者と裏でつながっているやもしれぬのだ。(浄夜・『緑風会』)大方、若手藩士をたき付け、ちょっとした騒動を起こして三郎を排除しようとしたのだろうが、火の手がまわり過ぎて、惣一郎自身を脅かしていることなど知る由もないのか。
右近は宝寿院と真正面から目を合わせることは避け、
「無論、殿の御為を思えばこその判断です。たかが乗り物、されど乗り物。半知御借上が終わったばかりの国許に、無用に派手な乗り物で国入りするは、愚の骨頂と考えましたが」
と、静かに言い切った。
「右近…そなたっ。殿のご寵愛を笠に着て、ようもそのように無礼な…」
宝寿院が声を震わせた。
(無神経かと思えば、ご自分への攻撃には敏感なのですね)
度し難いお方よと、右近は頭を垂れたまま、唇の端で微かに笑った。
その表情が見えたのか、惣一郎は脇息から身を起こして厳しい声で言った。
「右近、少々口が過ぎるぞ」
「はっ。申し訳ござりませぬ」
惣一郎は平伏する右近を前に、しばし沈黙していたが、
「なれど、そなたの忠告は聞き入れよう」
「殿っ!」
宝寿院が甲高い声で叫んだ。
「母上。道中は長い。雨に降られることもあれば、川を渡らねばならぬ場面もあるそうな。水浸しになっては、せっかくの飾りがもったいのうござります」
惣一郎は穏やかにとりなした。
「殿、なれどっ!」
それでもまだ口惜しそうに、宝寿院は己の両手を握りしめた。
「亡き父上のお使いになった乗り物で国入りするは、幸せにござります。どうかご心配なきよう」
(さすが、宝寿院様の扱いは、殿は私より一枚上手じゃな)
右近に全面的に同意するというよりも、さりげなく大殿を引き合いに出すあたりが心憎い。
その場を納めた惣一郎の一言に、仙之丞も小姓たちも一斉に肩で息をついた。
*
「いや〜右近様。まこと、冷汗をかきました」
留守居部屋へ戻る右近を送りながら、仙之丞は本当に手ぬぐいで首の汗を拭いていた。
「なれど、さすがにございますな、右近様!」
仙之丞は早口でまくしたてた。
「やはり殿は右近様の言うことなら聞くと思うたのです。最後には宝寿院様も、ぐうの音も出ませんでしたな!」
「仙之丞」
右近は歩みを止め、仙之丞に向き合った。
「何を他人事のように言うておるっ」
「はっ?」
「国許ではおことが殿をお諌めせねばならぬのだぞ。わかっておるのか!」
正直、先ほどの苛立ちを引きずっていた右近は、つい大きな声を出した。
「それには、まずおこと自身、藩財政や国許の意識につき、甘い認識を正さねばならぬ!」
「は、はいっ」
思わぬ叱責をくらい、仙之丞は粗相をした犬のごとく首をすくめた。
(すまぬ…八つ当たりだ)
右近は胸底から深く息を吐くと、
「おことだけが悪いのではない。私もまだ全てを伝えきっておらなんだ」
一転して自分の非も認めた。
三郎と『緑風会』の話を伏せたまま、国許の緊迫感を理解せよと言うても無理な話だった。加えて、自分と惣一郎の関係が色々と取り沙汰されていることもーー。
「仙之丞、今宵は当番か?」
「いえ、夕刻までで交代です」
「後で役宅へ参れ。話しておきたいことがある」
詳しいことはわからぬくせに、仙之丞は目を輝かせた。
この憎めない後輩は自分を慕い、国入りまでの残り少ない時間を、共に過ごせることを喜んでいる。
自分が国許に同行できない以上、仙之丞に後を託すしかないのだ。
「愉快な話ではないがな。せめて夕餉を共にいかがじゃ。おことの好きなものを仁平に作らせよう」
「はっ、ありがたき幸せにござります!」
喜色満面の仙之丞に、
「さ、はよう殿の元へ戻れ」
「では後ほどっ」
仙之丞は反転すると、小躍りせんばかりの足取りで、板張りの廊下を中奥へと戻って行った。
つづく
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