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発駕を明日に控え、荷造りが全て終わった中奥では、平穏な一日が暮れようとしていた。逆に近習たちはここへ来て自身の旅支度に忙しい。江戸から一歩も出たことのない者たち同士で、あれは持っていた方がいいか、いや、欲張っても荷物が重うなるだけじゃと、喧々諤々、頭を悩ませているようだ。
「ところで殿は?」
ようやく気付いたかのように、仙之丞が誰にともなく尋ねた。
「竹弥様とともに、奥へ行かれました」
振袖小姓の一人が答え、
「そうか」
仙之丞もさして気にならぬ様子で、己の作業を続けた。
*
暮色が迫り、心地よい夕風が藩邸内を吹き抜けた。
明日を控え、右近は早めに執務を切り上げて役宅に戻った。
部屋着に着替えた頃、惣一郎の遣いで竹弥がやって来た。
式台に出て迎えると、
「殿が夕餉の後、中奥まで参れとの仰せです」
土間に立ったまま、竹弥が微笑を溜めて一礼した。
「わかった。後ほど伺うと申し上げてくれ」
「かしこまりました」
竹弥は無駄話をするでもなく、すぐに役宅を辞した。
右近は竹弥の背を見送りながら、改めて、惣一郎の不在を思った。
つい昨日までは寂しさより、国許での惣一郎を案じる気持ちが勝っていた。堀田亡きあと、惣一郎に諫言するのは自分しかおらぬと、気負っていた部分もある。
発駕を明日に控え、右近の中でも、別れを惜しむ気持ちが静かに高まっていた。
(今宵が最後か…。まことに一年間、お目にかかれぬのだな)
『藩邸内では、もはやなりませぬ』と自分の方から言い出した以上、素振りにも出すわけにはいかないが、もしやという思いが、右近の心の奥底で揺らめいた。
式台に座ったまま、ぼんやりと考えていたところへ、老僕の仁平がやってきた。
「右近様、湯の支度もできておりますが、お食事を先になされますか?」
湯の支度と聞き、内心を見透かされたように思え、
「妙な気を回すでない!」
つい過敏に反応してしまった。
「へ?」
仁平が目を見開き、小首を傾げた。
落ち着いて考えれば、実直な仁平が意味ありげな台詞を吐くわけがないのだ。
右近は小さく咳払いすると、
「少々腹が空いておる。先に夕餉をいただこう」
努めて穏やかな声で言った。
仁平もいつも通りの笑みで、
「かしこまりました」
と白髪頭を下げた。
*
御座之間奥の居間で、惣一郎は右近を待っていた。
銀鼠の絹の着流しで、くつろいだ様子である。
右近が入室すると、二人の当番小姓は一礼して退出した。
公的な謁見の場でもある御座之間に対し、寝所脇の小座敷は藩主のプライベートな空間だ。惣一郎は軽めの夕餉の後、酒肴を用意させ右近としばし語り合った。
御座之間のように上段と下段の間に別れてではなく、二人は近しい距離で膳部を前にしていた。この部屋には側仕え以外、江戸家老でさえも入ったことはない。この一事からだけでも、右近が惣一郎にとっていかに特別な存在かが知れる。
惣一郎が小鰭の酢の物を箸で口に運んだ。
その姿を目に納めつつ、
「江戸前の魚ともしばしお別れですな」
右近が杯を手にほっと息をついた。
「あちらではこれは食さぬのか?」
「はい。江戸とは海が違いますゆえ」
「ほう」
興味をひかれたように惣一郎が右近を見た。
「江戸前の穏やかな湾と、日本海の荒波とではまるで別世界」
杯を口に運びながら、惣一郎が目顔で先を促した。
「おのずとそこに住む魚の種類も違います。江戸前の魚も好きですが、鯛やカレイなど、国許の魚は冷たい荒波に揉まれ、身が締まって美味ですぞ」
「それは楽しみじゃな」
惣一郎が右近と目を合わせて微笑んだ。
「時に右近」
「はい」
「そなたの母御は息災か?」
意外な問いかけに、右近は目を見張った。
「はい、おかげさまを持ちまして、最近は調子がよろしいようで」
「病がちと聞いていたからの。それは祝着じゃ」
「母にまでお気遣いいただき、ありがたき幸せにござります」
「…一度会うてみたいのだが」
「殿?」
「気分がすぐれぬなら、城へ呼びつけても気の毒かと思うていた」
「さようなことをお考えだったのですか」
惣一郎がうなずいた。
正直、母にとっては負担かもしれぬが、惣一郎の心は嬉しく思えた。
「母も具合のいい時なら、供の者とお城へ上がれるかと存じます」
右近は母や孫作の顔を思い浮かべ、目元を和ませた。
「ただ体調に波がありますので、よろしければ誠之進にお尋ね下さい。殿からお話があれば、様子を見に行ってくれるでしょう」
小首をかしげた惣一郎に、
「私が江戸詰めとなってから、国許の母や屋敷のことは、誠之進が面倒見てくれております」
「誠之進が?」
「はい。前髪の頃からの長い付き合いにござりますゆえ、母も誠之進のことはよく存じております」
「前髪の頃から…な」
惣一郎が右近の言葉をそのまま引き取って、呟いた。
「父が早くに亡くなりましたので、御家老も何かと我が家を気にかけて下さり、溝口家には随分お世話になってきました」
「そうか」
右近は口元を柔らかく綻ばせて、惣一郎を見た。
ふと、惣一郎の杯が空になっているのに気付いた。
明日も朝早いが、もう少しくらいいいだろうと、右近は酒器を持ってすすめた。
惣一郎は無言で杯を差し出し、右近の酌を受けた。
母の話をきっかけに、右近は国許の懐かしい人々の顔を思い出していた。
主膳や誠之進はもちろん、小兵太に志保、元部下の筧真之介や勘定方の面々。
皆に会いたいと思う一方で、主膳から聞かされた『噂』が右近の心に影を落とした。
(御家老の耳にまで入っているのだ。おそらく城下で知らぬものはおらぬだろう)
右近は密かに唇を噛み締めたが、
(なれど御家老の話では、あの噂はどちらかと言えば私への誹謗。殿に向けられるものでないことを祈ろう)
気を取り直して、再び惣一郎と目を合わせた。
右近は努めて明るい声で、
「殿、道中他領も通りますが、景色がきれいだからと、あまり行列を止めてはなりませぬぞ」
冗談めかして言った。
「なぜじゃ」
「予定の距離を進めず、宿に着けねば一大事にござります」
「少しくらいよいではないか」
「少人数の旅ならそれもまた一興ですが、殿の行列は三百人を越える大所帯。予定通りに動かねば、宿が確保できませぬ」
右近は目顔でたしなめた後、莞爾と笑って見せたが、
「窮屈なことじゃの」
惣一郎は憮然と杯を干した。
気が付けば、先ほどまでと惣一郎のまとう空気が微妙に違った。
(はて、先程は母上のことまでお尋ねになり、ご機嫌麗しかったが?)
右近は微かな違和感を覚えつつも、惣一郎の出立前にできるだけのことを伝えたく、話を続けた。
「江戸と違い、国許には確かにあまり娯楽はありませぬ。なれど今町の海、妙高の山々など雄大な自然の風景には事欠きませぬ。そう遠くへ行かずとも、城下にも絵になる景色は沢山ございます」
「それはよい」
静かに頷く惣一郎に、
「ぜひ写生に出かけて下さいませ。大殿も矢立てと画帳を持って、側用人の青木様や少数のお供を連れ、お出かけになられていたようです」
信輝公の思い出を語った。
先ほどから右近ばかりが話し、惣一郎は時折うなずき、右近を見つめるだけだったが、
「そなた、国許の話となると声が弾んでおるな」
「さようにござりますか?」
そんなつもりもなかったが、
「やはり生まれ育った所は懐かしいか?」
「それはもちろん、思い出深い土地にござります」
右近に否定する理由もなかった。
「私はただ、殿に御領地の様子をお伝えしたいだけでーー」
「…わかっておる」
そう言いつつも、惣一郎は声に苛立ちを滲ませていた。
(やはり知らない土地は不安なのだろうか…)
「殿、御領地とはいえ、初めての場所に戸惑われることもあるかと存知ますが」
右近は一旦言葉を切り、
「ご心配にはおよびませぬ。日々の暮らしや政(まつりごと)に関しては、万事、御家老と誠之進にお任せくだされ」
と、請け合った。
惣一郎が杯をことりと膳部に置いた。
「もうよい」
一瞬、右近は酒のことかと思ったが、
「もう下がれ」
惣一郎が伏し目がちに低く呟いた。
「殿…?」
(いかがされたのだ?)
右近は問うような眼差しを向けたが、惣一郎は目を合わさない。
(今宵は説教めいたことは、あまり言っておらぬはずだが…)
戸惑い始めた右近の耳に、微かな呟きが漏れ聞こえた。
『せっかく別れを惜しもうと思うたに、ふたこと目には御家老、誠之進とうるさいのじゃ』
自分の聞き違いかと思い、右近は思わず膝を浮かせたが、
「右近、大義であった」
惣一郎は哀しげな声でそう告げた。
*
悄然と役宅に戻った右近を仁平が出迎えた。
一瞬、意外そうに右近を見たが、仁平は無駄口をきかずに、いつも通りに主の世話をした。
右近が腰から脇差しを外すと、仁平はそれを押し頂くように受け取り、刀掛けに置いた。
右近の脱いだ羽織を衣桁にかけ、右近が袴の裾をさばいて座れば、『お茶をお持ちしましょうか』と声をかける。
特別茶を飲みたい気分でもなかったが、断るのも面倒で右近は頷いた。
台所へ行った仁平を待つ間、端座した右近は行灯の火影を眺めつつ、先ほどの惣一郎との会話を反芻した。
何が気に障ったかはわかった。
『ふたこと目には御家老、誠之進とうるさいのじゃ』
(そう言われても、国許の話をすれば、公私ともに長い付き合いの、二人の名前が出るのは致し方ないではないか)
正確に言うと、主膳というよりは誠之進である。
殿の御為ばかりを思い日々過ごしておるに、未だに斯様なことで臍を曲げられるのか、と右近はため息をついた。
中奥へ伺候する前に湯は使った。
もはや、やる事がなくなった右近は、今更書を読む気にもなれず、
「仁平、明日は七ッ発ちじゃ、もう寝むゆえ床の用意をしてくれ」
「かしこまりました」
仁平は白髪頭をぺこりと下げた後、奥の間に布団を敷きにいった。
*
時刻はまだ戌ノ下刻(午後九時)を過ぎた頃か。
少し風が出てきたのか、雨戸が時折軽い音をたてて揺れた。
早く床についたとて眠れるわけもなく、右近は夜具の中で悶々と時を過ごした。
『下がれ、大儀であった』と言われては、下がるしかない。
(誠之進はもはや貴方の恋敵ではないと、問われれば何度でも答えよう。なれど、あのように一方的に拗ねられては、打つ手がないではないか)
右近は寝返りを打った。
(これが中屋敷なら今からでも殿の寝所に忍んで行くものをーー)
右近は柄にもなく大胆なことを思い、頬を熱くした。だがここは藩邸だ。
斯様な時刻、火急の用件でもない限り、呼ばれもしないのに中奥に行くことはできない。
されどこのまま別れるのは、あまりに心残りでーー。
(一年も…離ればなれなのですぞ。殿っ)
右近は夜具の中、まんじりともせず夜を明かした。
つづく
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