九の巻
「発駕」4




by 戸田采女

 参勤行列の出立予定は寅ノ刻(午前四時)。
まだ暗いうちから、藩邸内は三百人を越える出立の人員でざわついていた。

 十一万石の大名で三百人程度の行列は、武家諸法度で定められた最低限の規模だ。信輝公の時は四百人近かったと記憶している。此度の人員削減については江戸家老の武村権六も承知で、やたら随員を増やして見栄を張る時代でもなかろうと、右近と意見を同じくした。

 西の空には未だ数多の星影が残り、天空は深い藍色であったが、東の空がいくらか明るみを増してきた。

 中奥で惣一郎の支度ができたと、小姓の竹弥が右近の役宅に知らせに来た。
留守居も総出で板橋宿まで行列を見送る。既に身支度を整えた右近は、中奥へ伺候した。

 竹弥に案内され御座之間へ入室すると、惣一郎が脇息に肘を預けて座っていた。
普通なら脇に控えているはずの側用人や小姓の姿がない。
右近が目顔で問うより先に、
「しばし水入らずでお過ごしください」
竹弥が耳打ちした。
右近は小さくうなずくと、部屋の中程に進み、着座して惣一郎に一礼した。

「面をあげよ」
「はっ」
右近が控えめに目を合わせると、
「ちこう」
惣一郎が白扇で手招きした。
右近が上段の間の際まで膝行すると、惣一郎も立ち上がって右近の前へ歩み寄った。
惣一郎は畳に片膝をつき、右手を伸ばして右近の頬に触れた。
愛しむように撫でる動作に、
「殿…」
右近の胸の奥が熱くなった。
主の手に己の手を重ね、右近は惣一郎をひたと見つめた。

(殿も、お目が赤うございますな)

 眠れなかったのはお互いらしい。
 
 右近が目を潤ませながら微笑もうとすると、惣一郎は右近の小袖の肘を掴み、
「参れ」
と、奥の居間へといざなった。 



 もういくらも時がなかった。
居間の丸窓の外、夜が白々と明け始めていた。 
入室し、跪いて襖を閉めた右近に、惣一郎がにじり寄った。
目が合った途端、膝立ちになった惣一郎が右近を抱き寄せた。
「予が悪かった…」
「殿っ」
「せっかく最後の夜を、そなたと過ごそうと思うていたに」
惣一郎は一度言葉を切ると、
「つまらぬ意地を張った」
胸底から鈍い吐息を漏らした。
「申されますな、殿」
右近は薄い笑みを浮かべ、小さく首を振った。

 一睡もできぬほど後悔したのだろう。
右近の身の内から惣一郎への慕わしさがこみ上げてきた。

 すがるように見つめ合い、どちらからともなく唇を重ねた。
お互い出立の支度を済ませた身。
着衣に乱れが出ぬよう、気遣いながら抱き合うのがもどかしい。
舌を絡めて深く口づけを交わしながら、惣一郎の手が袴の上から右近をまさぐった。
唇が離れた隙に、
「まことに一年も会えぬのか?」
惣一郎が掠れた声で問う。
「会えませぬっ」
答える右近の声も熱く震えていた。
惣一郎は右近の袴の脇から手を差し込み、下帯の下に潜り込むと直に触れてきた。
「殿…っ」
右近は息を詰めた。
撫でさするような動きから、強く握り込まれ、右近の身は一気に硬度を増した。(発駕4.5へ) 



 右近は放心したように襖にもたれ掛かっていた。
惣一郎が身を起こして右近の傍らに寄り添い、静かに肩を抱いた。 

 丸窓から薄く朝日が差し込んでいた。
右近は惣一郎の肩に頬を預けながら、微かに近づいてくる足音を聞いていた。

 襖の向こうから、
「殿、御出立の用意ができました」
仙之丞の控えめな声がした。

 夢から覚めたように、右近はゆっくりと目を開けた。
惣一郎は今一度、名残惜しげに右近の唇を吸うと、
「そなたは少し後から参れ」
「なれどっ」
留守居の騎馬は藩主の乗り物より前方だ。
遅れていくわけにはいかない。
「案ずるな。母上や綾と別れを惜しんで、時間を稼いでおく」
「殿っ?!」
惣一郎は人差し指を右近の顎にかけ、軽く持ち上げた。
「まだ眸が熱く潤んでおる」
「あっ…」
右近が小さく呻いた。
「口惜しいのう。このまま組み敷いてしまいたいがーー」
戯れ言とはわかっていても、その声に、消え残った熾き火を掻き立てられてしまう。
惣一郎が唇の端で薄く笑った。
「斯様な顔で人前には出られぬぞ。少し熱を冷ましてから来い」
何もかも見透かされ、右近は返す言葉もなかった。
「殿…」
惣一郎は右近にひたと視線を当て、
「では参る」
低い声で言うと、立ち上がって御座之間への襖を開けた。 



 しばしの間を置いて、右近は身支度を整えて御座之間を後にした。
人気のなくなった中奥を早足で抜け、右近は役宅に寄り、騎馬で行列に加わった。
藩邸内に数百人が集結するとあって、庭内は人馬でひしめき合っていた。
見送りに随行する留守居の中では最後の到着となったが、添役の小野田を始め皆、右近に一礼し、右近も目礼を返す。特に変わった反応はない。

 留守居は騎馬で行列に随行し、板橋宿で藩主を見送る。

 馬上で待つ事しばらく、轡を並べる小野田が後ろを振り返った。
「殿がお出ましになられました」
右近の方へ首を傾けて言った。
右近は無言でうなずき返し、一文字笠の紐をしめ直した。

 惣一郎が乗り物に乗ったことを確認し、御供頭が出立の号令をかけた。
右近の馬上から、先頭の黒らしゃに中結紫の毛槍が、静かに動き出したのが見えた。
粛々と行列は進み、藩邸正門を出ていく。
江戸家老や奉行はここで見送りだ。
右近らは重臣達に目礼し、門の外へ出た。 

 夜明けとともに小川町の藩邸を発駕、行列は江戸市中を進み、白山、巣鴨を経て中山道への分岐点、板橋宿へと入った。板橋宿は三つの宿場から成り、上方側から上宿、仲宿、下宿と呼ばれた。仲宿を過ぎ、石神井川に架かる太鼓橋、『板橋』を渡り上宿に入ると、江戸御府内の境界にあたる大木戸がもう間近に迫っていた。

(殿、いよいよお別れです…)

 鳶の鳴き声に空を見上げれば、蒼天に刷毛でひとなでしたように、筋雲が広がっていた。

 右近ら留守居は大木戸の手前で行列から離れて脇に寄り、藩主の乗り物を見送る。

 乗り物の周りは番方(武官)の藩士が取り囲み、留守居の右近ももはや乗り物に近寄ることはできない。留守居全員が下馬し、行列を見送ろうとしたが、
「止めよ」
乗り物の中から惣一郎が鋭く命じた。
陸尺が歩みを止め、行列は一旦停止した。
主の意を察し、すぐ後ろを歩いていた側用人の仙之丞が、乗り物に歩み寄って引き戸を開けた。

 惣一郎が乗り物の中から顔だけこちらに向けた。
一文字笠をつけた留守居全員が深く頭を垂れた。

「見送り、大義であった」

(殿!)

 本来ならここで面を上げてはならぬのだが、右近は気持ちを押さえ切れず禁を犯した。
笠の下、上目使いに声のした方を見た。
乗り物の中から惣一郎が右近をまっすぐに見つめていた。
目が合うと、惣一郎がわずかに口元を綻ばせて頷いた。

(息災で暮らせ)

(殿もどうぞお健やかにーー)

 名残は尽きないが、もはやこれが精一杯だった。
右近は頭を垂れ、引き戸の閉まる音を聞いた。

 再び行列がゆっくりと動きだし、乗り物の後ろを行く仙之丞や小姓達が、笠の下から右近に目礼した。

 惣一郎の道中無事を祈りながら、行列の最後尾が大木戸の向こうに消えるまで、静かに見送る右近であった。  



「発駕」3
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背景は「kigen」さんからお借りしています。


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