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大手橋のたもと、冬枯れの並木道に、三郎と弥一郎は言葉少なにたたずんでいた。
沈んだ陽の名残りが、二人の影を石垣に映している。
「今日はせっかくお越し下さったのに…ご不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」
「そなたのせいではない。気にするな」
三郎は小さくかぶりを振った。
弥一郎はそれでも済まなそうに面を伏せたままだった。
三郎は弥一郎のほうこそ気の毒でならなかった。
噂にたがわぬ『うつけ者』の叔父のせいで、せっかくの午後が台なしになったのだ。
お互いにかける言葉が見つからず、堀に視線を落したまま、二人はしばし時を過ごした。
土手で休んでいた番いの鴨が、軽い羽音をたてて飛び去った。
弥一郎は水面を見つめたまま、口元に寂しげな笑みを浮かべた。
「…ずっと前から一度、お話したいと思っていたのです」
「弥一郎…?」
「なれど、わが家と三郎ぎみの守役、誠之進殿の家とは、いわば敵対関係にあります」
「そ、そのような言い方をせずとも…」
真顔で訴える三郎に、弥一郎は慈しむような笑みで答えた。
「…残念ながら事実です。家中の者はみな知っていることです」
「弥一郎…」
「私が下手に話しかけては、誠之進殿がお怒りになるか、ご心配なさるか…どちらにせよ、控えたほうがよいと思っておりました」
「左様なことを気にしておったのか…」
三郎は深い吐息をついた。
「藩校で机を並べている間柄ぞ。遠慮は無用じゃ」
自分より少し背の高い弥一郎を見上げるようにして、三郎が微笑んだ。
「ありがたきお言葉にござります…」
「三郎ぎみ?!」
橋の向こうから聞こえてきたかん高い声に、二人は同時に振り向いた。
源蔵と誠之進が城門を出てこちらに向かってくるところだった。
「若!」
誠之進が羽織り袴姿で小走りに橋を渡ってくる。
おそらく源蔵が、
「三郎ぎみが内藤弥一郎に連れていかれた」
などと、泡を食って知らせたに違いない。
端正な顔にかすかな懸念の色が滲んでいた。
迎えに来てくれたのが嬉しく、三郎は思わず微笑みかけたが、
(……!)
距離がせばまり、誠之進の姿が間近に迫ってくると、先刻見せられた枕絵が脳裡に蘇った。風にあたって一度は冷めた熱が、再び呼び覚まされてしまった。高鳴る心臓に三郎はうろたえた。
(ばかな! 良く似てはいたが、あれは誠之進ではないのだぞ!)
激しく己を叱咤したが、みるみるうちに頬が熱くなり、まともに誠之進の顔を見ることができない。
とうとう源蔵と誠之進が橋を渡り切った。
三郎の様子を察したように、弥一郎がまず誠之進に深々と礼をした。
誠之進も礼を返す。
「弥一郎殿、本日は若をお招き下さったそうで…」
「はい。今年の授業も最後になりますゆえ、少しお時間を頂戴できれば、我が家の書庫などお見せしようと思いました。誠之進殿のお許しも得ずに勝手なことをいたしましたが、どうぞお許しいただきたく存じます」
「おお、左様なことは気にされずともよい」
「誠之進殿…」
「貴殿、城まで若を送って下さったのだな。かたじけない」
弥一郎の控えめな態度に、誠之進も警戒を解いたのだろう。爽やかな笑みを浮かべてうなずいた。
「さ、若。大分冷えて参りましたぞ。お風邪を召されるといけませぬ」
誠之進が三郎の背に軽く手を当てた。
「弥一郎殿、ではこれにて」
誠之進と弥一郎が目礼を交わした。
「では、三郎ぎみ、失礼いたしまする」
弥一郎は三郎に向かって深く頭を下げ、重臣屋敷のほうへと引き返していった。
三郎はしばし弥一郎の後ろ姿を無言で見送っていたが、
「弥一郎!」
突然大声で呼び止めた。
弥一郎が振り返る。
「…阿蘭陀菓子、美味であったぞ!」
弥一郎の白い頬に優しげな笑みが浮んだ。
「今度、お福のぼた餅を食べさせてやる。一度城へ遊びに参れ!」
声を弾ませて手を振る三郎に、弥一郎は再度、深々と一礼した。
*
夕餉の膳には鰤の焼き物と鱈のあら汁が供された。
しばらく堀の端で立ち話をしていたため、三郎の身体は芯まで冷えていた。暖かい汁はありがたく、若い胃袋はすぐに元気を取り戻した。
新鮮な冬の味覚に、三郎も誠之進も今宵は二杯目を所望するほど箸が進んだ。
給仕をしながら源蔵が、あらためて安堵したように息をついた。
「ほんとに今日はびっくりしましたよ。内藤弥一郎がいきなりあんなこと言い出すとは…。三郎ぎみ、何か意地悪されませんでしたか?」
「…源蔵。弥一郎はそのような人物ではないぞ」
「なれど、あいつら上士の子弟はいつだって─」
「源蔵」
先まで言わせず誠之進が静かに遮った。
「内藤家の書庫はいかがでしたか? 三郎ぎみ」
「うん、素晴らしい蔵書だったぞ。何代にも渡って収集したものだそうだ」
「左様にござりますか。噂には聞いておりましたが…。良いものをご覧になりましたな」
「和歌や漢詩の充実ぶりに驚いた」
「それはそれは…。内藤家もかつてはそういう家風であったのでしょうか……」
現当主・帯刀からは想像もつきませぬな、と、誠之進は瞳の奥で笑った。
(やはり、誠之進は内藤家のものが嫌いなのだな)
三郎は心の中で溜息をついた。
ゆっくり語りあったのは今日が初めてだったが、三郎は弥一郎に好感を持った。もしかすると、今日誘ってくれたのも、詩や学問について語りあいたかったからかもしれない。
言っては何だが、弥一郎の取り巻きは典型的な『上士の馬鹿息子』たちで、知的な弥一郎のまともな話し相手になれるとは思えなかった。弥一郎も家同士の付き合いから、仕方なく行動をともにしているだけかもしれない。
自分もだが、軽輩の子弟でも松之助のような秀才こそ、弥一郎の友としてふさわしいのに、と三郎は残念に思った。
三郎は誠之進が内藤一族を嫌っていても、せめて弥一郎のことだけは悪く思わないでほしいと願う。
「誠之進、弥一郎が詩集を一冊貸してくれたぞ。貴重なもののようだが、しばらく持っていても構わぬと言ってくれた」
「それはようござりましたな」
誠之進は目元を和ませると、鱈汁の残りを飲み干し、椀を膳に置いた。
*
あらかた食事を終えた三郎と誠之進は、お福や下女に膳を片付けさせた後も、向き合ってゆっくり茶を喫していた。給仕を終えた源蔵も自分の食事をするべく台所へ戻っていった。
夜が更けて冷え込みが厳しくなってきた。
三郎は綿入れを着て、陶製の手あぶりに掌をかざして暖を取った。部屋の中央には大形の火鉢が置かれている。赤々と燃える炭が、時折ぱちりと乾いた音ではぜた。
これは夜半雪になるかと、誠之進が濡れ縁から空を見上げている。
「降って参りましたね」
「雪か?」
「いえ、まだ小雨です…」
ひとりごとのように呟くと、誠之進は雨戸と障子戸を閉めて室内に戻った。大火鉢を挟んで三郎の正面に着座した。炭火の灯りの向こうから、優しげな鳶色の瞳が三郎を穏やかに見つめている。
(ああ、まただ…)
どきりと鳴った心臓に三郎は眉をしかめた。
*
いったい自分はどうなってしまったのだろう?
源蔵やお福が一緒なら平常心でいられたのが、二人きりになった途端、また胸が泡立ち始めた。あの枕絵のおかげで、これでは誠之進とまともに話もできぬではないか?
三郎は嶺次郎を恨んだ。
なれど…。
嶺次郎は不愉快な男だが、ひとつだけ的を射た発言があった。
『守役殿は閨のことについて、何も教えてくださらぬのですか?』
嶺次郎に指摘されたように、『この年』になって性のことに興味がないわけがない。
だが藩校の友人たちは、その手の話を三郎の前ではしなかった。生徒の間でこっそりと艶本や春画を回していても、三郎の手に渡ることは決してなかった。
去年の秋、ある朝起きたら下帯が汚れていた。
病気かもしれないと慌てたが、なぜか誠之進に相談するのが恥ずかしく、思わず小兵太に泣きついた。
その時も『何で誠之進に聞かねえんだ?』と訝られたのを覚えている。
小兵太は、実にあっけらかんと、男の生理について説明してくれた。
三郎は小兵太となら照れずに『この手』の話ができるとわかり、以来、時々、誠之進に隠れて『指南』をうけていた。
結局、誠之進とは『男同士』の話をしないまま、今に至っている。
嶺次郎のいうように、守役の怠慢なのか、それとも誠之進は自分のことをまだまだ子供だと思っているのか…。誠之進の心が奈辺にあるのか、皆目見当がつかない。
小兵太は己の武勇伝なら、聞かれぬ先からいくらでもしゃべったが、こと、他人のことに関しては驚くほど口がかたかった。三郎は一度、誠之進の過去について聞き出そうとしたが、『十五の時、はじめて一緒に桔梗屋に揚がった』くらいしか語らず、誠之進の『個人的な経験』については『知らない』の一点張りだった。
(きっと…小兵太は知っているけど語りたくないのだ…)
三郎は失望したが、同時に心のどこかで安堵していた。過去、現在、全て含めた誠之進の心が知りたい、だが知るのが恐い…。そんな二律背反に悩み始めてから、すでに随分と時が経っていた。
誠之進の心にかつて棲んでいたのはどんな人だろう?
そして─。今は?
誰か想う人はいるのだろうか?
それとも、身体の欲望を処理するためだけに、今でも隠れて遊廓に行っているのだろうか?
誠之進はやはり女人にしか興味がないのだろうか?
藩校時代、手拭いを換えたり念友を作ることもなかったという。
少年相手に『あの絵』のようなこと、したことも考えたこともないのだろうか?
*
「若、どうなされました? お顔が赤うございますよ」
頭の中に猥らな画像が浮んでいた。
突然鳴り響いた誠之進の声に、三郎は狼狽し、背中を冷たい汗が伝った。案ずるようにのぞき込む鳶色の瞳が、今にも邪な妄想を暴き出しそうな気がする。三郎はひたすら息を詰めた。
「暑すぎるようなら、綿入れをお脱ぎになったらいかがです?」
「な、なんでもない、大丈夫じゃ」
三郎はうつむいて、身を隠すかのように綿入れにくるまった。
頬だけでなく、身体中が熱く脈打ちはじめていた。
(『あの絵』のようにしながら、誠之進がこんな声で耳元で囁いたら…)
「若、お熱があるのではござりませぬか?」
誠之進は言い終わらぬうちに立ち上がり、三郎の傍らへやってきた。
片膝をつき、
「御免」
大きな掌が三郎の額に当てられた。三郎ははっと身をすくませた。
大好きな誠之進の手。
幼い頃、三郎を抱き上げ、肩車をしてくれた手。
ひとり土蔵に隠れて泣いた日、涙の跡のついた頬を包み込むように撫でてくれた手。
長年、父のように、兄のように自分を愛しんできた手。
それが今、一瞬にして、三郎の内部に狂うような熱を生んだ。
触れられた部分が燃えるように熱い。
高鳴る動悸で息が苦しい。
背筋に走った震えは、股間に見間違えようのない変化をもたらした。
誠之進は風邪でもひいたかと案じてくれているのに、自分はいったい何を考えているのだろう─!
「ふむ。お熱というほどではござりませぬが…。お疲れなのですか、三郎ぎみ?」
誠之進は額から手を外すと、三郎の両肩に手をおいた。
三郎は頬を染めたまま、わけもわからず、こくこくと頷いた。
「これから謡いの稽古をと思ったのですが、今宵は止めにいたしましょう」
「すまぬ…」
「わかりました。源蔵を呼んでお床の用意をさせすゆえ、しばしお待ちを」
誠之進が襖をたてて出ていくと、三郎はほうっと大きな息をついた。
*
(誠之進…)
誠之進が離れていった途端、身体の熱がうそのように退いた。
逆にすきま風のような寒気を覚えた三郎は、うずくまるようにして火鉢の前に座っていた。
三郎はもはや子供ではない。
自分の身体に起った変化とその意味を、はっきりと理解していた。
(あの絵の中の小姓のように…私は誠之進に─)
『愛されたいのか…?』
そう口にした途端、今までの漠とした慕わしい気持が、ひとつの形をなした。
『私は誠之進のことが…』
無論、幼い時の『好き』とは意味が違う。
三郎は画集の中で繰り広げられていた、痴態の数々を思いだし、身を揉むような羞恥に襲われた。
(あ、あのような猥らなこと…!)
三郎は激しくかぶりを振った。
(望んではおらぬ…)
まことか? ならば触れられて躯が熱くなるのはどういうわけだ?
(それは…!)
隠しようのない真実がそこにあった。誠之進のことを思うだけで、痛いほどに胸が鳴る。脳裡には抱き合う自分と誠之進の姿が浮ぶ。打ち消しても打ち消しても、鮮明な画像でそれは蘇ってきた。
目の前に突き付けられた己の浅ましさに、三郎は打ちのめされた。
だが、三郎の誠之進への恋は、その想いを認めた瞬間、三郎の自尊心を凌駕して奔流のごとく迸った。
誠之進が好きだ…。
誰にもとられたくない。
誠之進になら…あの絵のように…。
*
されど…。
誠之進は私のことをどう思っているのだろう?
衆道の嗜み云々より、幼い時から慈しんできた者に相手に、そのような気が起るものだろうか…。さすがに繦を取り替えてもらったわけではないが、九歳の頃から一緒にいるのだ。
我が子のように育てた私など…、恋の相手としては問題外だろうか。
三郎は一瞬くじけそうになった。
それでも…。
やはり気持を伝えたい。伝えねば、何も始らぬではないか…?!
ただ、藩校で契りを交わした者たちも、皆、年長の者から申し込んでいる。年下から打ち明けたなどといいう話は聞いたことがなかった。
慎みがない、と軽蔑されてしまうかもしれない…。
(今度ばかりは小兵太にも相談できぬな…)
「誠之進…」
声に出して名を呼んでみた。
今まで何千回、何万回と呼んできた親しい名前。
『恋』を自覚した今、舌の上に愛しい名をのせて呟けば、響きは蜜のように甘やかで─。胸苦しさに小さく喘ぎ、三郎は切ない吐息をついた。
細い糸垂れのような雨の気配が、戸を隔ててかすかに伝わってきた。
音もなく地面に吸い込まれていく雨は、やがて降り積もる雪に変わる─。
小夜時雨 了
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