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年が改まり、明和四年となった。
元旦、朝五ツ(午前八時)より、藩主不在の高山城・大書院で年始御礼の式典が執り行われた。
幸い、大晦日の昨日から、鉛色の冬空にも晴れ間がのぞき、元旦の出仕行列のための除雪もはかどったようだ。武家地から城への道筋では、大鋸で雪を切り、取り除いた雪は脇へ積んで道を空けていた。
元日は従士並以上の藩士が全て出仕する。
国許で勤める八百余名の藩士が、定められた供回りをしたてて登城する。朋輩や上司と挨拶を交わしつつ、各門を通過して屋形に入る。定刻の五ッには座席についていなくてはならない。
式典の座席は席次によって決められていた。大書院一之間には家老から側御用役まで、以下席次の順に大書院二・三之間、松之間、柳之間…と続いた。
通常、藩主が江戸在府の年は、御奏者番が藩主になり替わって家臣の挨拶をうける。中奥目付が席次の順に姓名を呼び上げると、藩士たちは控えの間から儀式の行われる座敷へと移動する。九名ずつ三列に並び座敷に入り、着座した中での筆頭者が祝儀の口上を述べた。
「東武(江戸)におきまして、上様ますます御機嫌よく御年越し遊ばされまして、恐悦至極に存じ奉ります」と口上の口火を切ると、御奏者番が『御同意』と答える。
家臣が「何れも年頭御祝儀を申上奉ります」という言葉で締めくくると、御奏者番は「何れも出仕の段、東武へ言上に及びます」と答えて口上は終り、家臣たちは座敷から退出するのであった。
今年は藩主・信輝公の命により、三郎が御奏者番とともに名代で藩士たちの挨拶を受けることになった。三郎は直々に言葉をかける必要はない。しかし、洪水の折り、決壊した堤防の普請に自ら加わり、その後も何くれとなく軽輩の者たちへの気づかいを見せたことを、藩士たちは忘れていなかった。
尊敬と親しさが混ざった眼差しで、藩士たちは三郎に目礼する。三郎も一人一人と目を合わせ礼を返す。式典は作法にのっとり粛々と進んだが、座敷には暖かな空気が流れていた。
誠之進も後見として三郎の傍らに控え、儀式の一部始終を見守っていた。
三郎は年が明けて十五歳となった。
誠之進が守役として、初めて三郎に対面したのは三郎が九歳のとき。あっという間の六年間、まさに光陰矢のごとしであった。
決して奢らず、謙虚でありながら、人の上に立つ品格を身につけた三郎に、誠之進は守役として心から喜びと誇りを感じた。装束をまとい、威厳を持って儀式に臨む三郎を、誠之進は目を細めて見守った。三郎とのこれまでと、これからの日々を思いながら─。
*
守役を命じられた時、若い自分に若君の養育など無理だと腰がひけた。
だが、信輝公に是非にと頼まれ、父・主膳の思惑もあり、誠之進はこの役目を引き受け、今日の日まで誠心誠意勤めてきた。
町家育ちの三郎と過ごす日々は驚きの連続で、最初は戸惑った誠之進だったが、いつしかそれが楽しく、三郎の傍らにある幸せを感じるようになった。
三郎もすぐに誠之進に懐いた。
九つまで町家で育ち、突然武家の世界に放り込まれた三郎にとって、頼むものは誠之進だけだった。片時も側を離れず、ただひたすら慕い、甘えてくる姿に、誠之進は猛烈な庇護欲を掻き立てられた。
そんな三郎が藩校に入学したのを境に、自分の足で立とうとし始めた。一抹の寂しさは感じたものの、心身ともに成長していく姿を誠之進は静かに見守った。
気がつけば、三郎の背丈は誠之進の肩に届き、藩校の秋の試験では次席をとった。剣を交えても、もはや本気を出さねば、簡単に打負かすことができないほど強くなった。
昨年あたりから、顔つきも日に日に大人びてきた。黒目がちの瞳は愛らしい面影を残しつつ、頬のあたりの丸みが取れ、美しく覇気のある少年の顔に変貌した。
三郎を可愛い、愛しいと思う気持は昔のままに─。
だが、それだけではない危うい感情が、いつしか誠之進の中に芽生えていた。
三郎の元服は守役の役目の終りを意味していた。役目の終り、すなわち別れである。早ければさ来年、遅くとも三年後にその日はやってくる。
未だかつて将来のことを、三郎と膝を突き合わせて話したことはない。
父・主膳が書いた筋書き通り、三郎は元服すれば養子にいくものと、他の道は敢えて考えぬようにしてきた。今でも、それが藩にとっては一番穏便な方法だと、頭ではわかっている。
だが、三郎はそれで幸せなのだろうか?
例え養子先が万石の大名であろうと、見知らぬ土地へ送られ、顔もみたこともない姫と夫婦になり、生涯をその地で過ごす…。
三郎ならば、たとえそうなっても、与えられた環境で自らの運を切り開くのだろうか?
(たとえ私と離れても…?)
三郎なら大丈夫かもしれない…。
結局、離れて生きられないのは己のほうではないか、と誠之進は苦笑する。
何も三郎を藩主にしようなどと、大それた望みがあるわけではない。ただ、愛する故郷で親しいものたちと暮らす、ささやかで幸せな未来を用意してやりたかった。
その未来図の中に、自分の居場所が欲しかった。
誰よりも側近く仕え、三郎を慈しみ、支える場所を永遠に確保したかった。
三郎は大人になった今も、果たして自分を必要としてくれるだろうか?
誠之進と同じ夢を見てくれるのだろうか…?
一度は、立派に成長した三郎を笑って見送らねばならぬ、と自分にいいきかせた。
だが、そんなものは欺瞞だ。
誰の手にも渡したくない。
三郎を抱きしめ、支えていく腕は、自分以外のものであってはならなかった─。
*
大書院一之間での家老三家と中老五家の年始御礼が終り、御奏者番と三郎が退出した後、溝口主膳を始めとする重臣たちはしばらくその場に残って歓談していた。
茶坊主が点てた茶を味わいながら、中老の榊原がほっと溜息を洩らした。
「いやはや、三郎ぎみも御立派になられましたなあ…」
「いかにも。普段は飾らないお人柄ゆえ、木綿の着物などお召しですが、何、きちんと装束をつけて出る所へ出れば、まごうことなき殿の御子…」
来年で還暦。間もなく家督を息子に譲る山崎が、目尻に皺を作って微笑んだ。
「横顔なぞ、惣一郎様の元服前の頃と少し似ておられる気がいたします…」
一同の中で最年少、三十代の堀がしみじみと呟いた。
「おお、左様か。堀殿は江戸詰めも経験しておられるゆえ、惣一郎様のお小さい頃も存じておるのだな」
「いかにも…」
山崎、榊原、堀ら、穏健派の中老が三郎の成長ぶりを感心する一方、三郎を陰で『旅籠の倅』と見下してきた奥野、酒井の二名は無表情に端座していた。
日和見主義を絵に描いたような男、次席家老の小栗蔵之助は、とりあえず主膳や内藤帯刀の出方を伺っている。
重臣一同を見渡し、帯刀が愉快そうに破顔した。
「主膳殿、まさしくお手前の御子息、誠之進殿の薫陶のたまものですな。誠に祝着至極…」
「恐れおおいことを。倅はただお側で見守ってきただけにござる。三郎ぎみの御成長は、殿のご寵愛と三郎ぎみ御自身の器量に他ならぬ」
主膳は静かに茶碗を傾けた。
「ご謙遜を…」
帯刀は厚めの唇の端を吊り上げ、片頬で笑った。
「ところで…」
帯刀が続けた。
「そろそろ三郎ぎみの御養子先など、我々も心掛けていかねばなりませぬな」
主膳、如何思う? とばかりに、帯刀が横目で見遣った。
「妾腹とはいえ、見目麗しく聡明な若君でござる。必ずや良縁が見つかりましょうぞ」
人の良い山崎翁がこくこくと頷いた。
主膳は無駄口はきかぬとばかりに、石のように静かに端座していた。
揺さぶりにのって来ない主膳に、
(狸め…)
帯刀は軽く鼻を鳴らした。
「されど、手塩にかけて育てた若君が他国へ縁づいては…、誠之進殿もお寂しいことですな」
「何、それが守役の運命、武門の習いでござる。倅も左様なことは先刻承知しておる」
「それはそれは…さすがは御家老の御子息」
帯刀は大袈裟にうなずいてみせた。
「貴殿の御心配には及ばぬ」
主膳は眉ひとつ動かさず、口元に薄い微笑を浮かべた。
*
最後の間、柳の間で下級藩士の挨拶を受け、本日の年始御礼の儀式は全て終了した。すでに八ッ(午後二時)を過ぎており、朝早くから城に詰めていた誠之進も空腹を覚えた。
熨斗目長袴姿で廊下をゆく三郎の斜後ろを、麻裃をまとった誠之進が従う。
「三郎ぎみ、お疲れになりましたか…新年早々御苦労さまでした。さあ、屋敷へ戻って、お福の雑煮でもいただきましょう」
誠之進は優しくねぎらいの言葉をかけた。
三郎が肩ごしに誠之進を振り返った。
「そうだな…確かに腹が空いた」
儀式の緊張から解放されたのか、にっこりとあどけない笑みを浮かべた。
談笑しながら畳廊下を行く主従の前に、人影が現れた。
「これはこれは、三郎ぎみ…」
朗々とした低音があたりに響き渡った。廊下の曲り角で、次席家老・内藤帯刀が三郎の姿を認め、跪いて礼をした。
元日早々、政敵とはち合わせし、誠之進は内心舌打ちした。だが、そこは誠之進も心得たもので、社交用の笑みを浮かべて帯刀に目礼した。
三郎が跪く帯刀に声をかけた。
「帯刀、新年早々の出仕、御苦労であった…」
ふたこと、みこと、無難な挨拶をして切り上げるつもりのようだった。
帯刀は三郎を見上げ、一見愛想のよい笑みを浮かべた。
「三郎ぎみこそ、重臣から軽輩のものに至まで、お心のこもった応対ぶり…。某、感服つかまつりました。先程も重臣一同、詰めの間で噂をしておりました…」
「噂…?」
「装束が誠にようお似合いで、見目麗しい貴公子ぶりに、みな惚れ惚れしておりましたぞ」
三郎は面と向かって容姿を誉められるのが苦手だ。気恥ずかしくていたたまれなくなるらしい。誠之進から見るとそこが初々しくて可愛いのだが、頬を赤らめる三郎が気の毒で、誠之進は助け船をだそうとした。
だが、帯刀が誠之進の出鼻をくじくかのような一言を放った。
「…白梅のごとき凛とした美しさ。後ろに控える守役殿も、うっとり眺めておられましたなあ…」
粘着質な物言いに、誠之進の眉がぴくりと動いた。
誠之進の心中などお見通しとばかりに、帯刀が肉厚の唇を歪めて薄い笑いを作った。
「手塩にかけてお育てした若君の晴れ姿…。誠之進殿もさぞかし鼻が高いのではありませぬか?」
「鼻が高いなど、滅相もない。某は若のご成長を、ただ側で見守っているだけにござります…」
「お父上といい、誠之進殿といい、親子そろって謙虚なことですな」
帯刀は二人を見上げたまま、意味ありげに呟いた。
三郎は何となく険悪に傾いた空気を読んだのか、
「帯刀、弥一郎に昨年の礼がしたいゆえ、今度屋敷へ遊びにこいと伝えておいてくれ」
「ありがたきお言葉、倅にしかと伝えまする」
「うむ。…誠之進、参るぞ」
三郎は誠之進を振り返り、再び歩み始めた。
首を垂れる帯刀。
つき従う誠之進が脇を通り過ぎる瞬間、帯刀は誠之進だけに聞こえる声で囁いた。
「誠之進殿、梅ヶ枝は…もう手折られたのですか?」
心臓を素手で握られたような心地だった。不覚にも狼狽が顔に出た。仮面の外れた一瞬を、下から見上げる帯刀に見られてしまい、誠之進は歯がみした。
「はて…お尋ねの意味がよう分りませぬが?」
絶句するのも業腹で、誠之進はかろうじて一言低く呟いた。
「…まだまだお若いのう」
帯刀が喉の奥で愉快そうに笑った。
「御免」
誠之進は唇を一文字に引き結ぶと、摺り足で三郎の後を追いかけた。
つづく
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