十二の巻「雪の華」2



by 戸田采女


 七草も過ぎた、正月十日。

 昨日から続く吹雪は、午後になっても一向に止まない。誠之進は今日あたり、年始の挨拶がてら友人の小兵太や右近を訪ねたいと思っていた。だが一間先も見えぬような吹雪きでは、二人の家がある『番丁』までとてもたたどりつけまい、と溜息をついた。

 屋敷内の誠之進の居室は、三郎の暮らす母屋とは別棟にあった。建物をつなぐ渡り廊下もすっかり雪で埋まり、下男が一日に何度か雪掻きをしている。同じ邸内とはいえ、行き来するのが一苦労という有り様だった。

 外出をあきらめた誠之進は、午後、ひとり居室で炬燵にあたりながら、父・溝口主膳から渡された藩財政の報告書に目を通していた。作成者は誠之進の親友、勘定吟味役の桜田右近だった。

 去年六月の洪水で、領内の田畑は壊滅的な打撃を受けた。当然、米の収量は激減し、年貢米をおさめるのにも困難をきたした。今年は半端ではない財政難が予想される。

 そんな中、以前からの懸案であった、今町の廻船問屋に対し運上金を課す計画を、右近が具体的にまとめ主膳に提出していた。一定額の運上金を納めさせるかわりに、「永代渡海」の免許を発給し、海運業の振興をはかろうという構想だ。主膳は小正月明けにも行われる家老、中老の会合で、この件を討議にかける予定だという。誠之進にも一通り目を通しておくように、との指示だった。

 運上金の利点と弊害を客観的に分析し、飴とむちを用いた課税方法を検討した右近の案は、明解で説得力に富むものだった。この中に論理のほころびを見つけて反論するのは、極めて難しい。

 (流石だな、右近)

 誠之進は改めて右近の頭脳に舌を巻いた。勘定方の若手、筧真之介を片腕とし、右近は藩金流用の調査と平行して運上金制度の草案をまとめていたという。

 藩校設立以来の秀才、と昔から頭脳明晰の誉れは高かったが、もともと勘定方の家に生まれ、経済官僚を目指していた右近は、実務的な処理能力にも恵まれていた。

 二十代の若さで、右近は既に藩にはなくてはならぬ人材になっている。

 (大した男になったものよ…)

 誠之進は感嘆の吐息を洩らしつつ、報告書を閉じた。




 風避けのために閉めた雨戸がかたかた音をたてる。また風が一段と強くなったようだ。三郎は中食後、源蔵と碁を打ち始めた。負けず嫌いの三郎は碁を始めると長い。夕方まで特に御用はないだろう、と誠之進は苦笑した。
 
 手遊びに古今和歌集などを、ぱらぱらとめくる。

『心をぞ わりなきものと 思ひぬる 見るものからや 恋しかるべき』
『寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさるかな』

 ここ数カ月の心境を反映してか、自然と恋の歌に目がいってしまう。

 本日は火急の用件もなし。誠之進は、炬燵でぼんやりと物思いに耽った。




 藩校時代、周りが美少年を巡って胸ときめかせ、やれ念友だ手拭いだと騒いでいるなか、誠之進や小兵太は早々と十五歳で遊里に出かけ童貞を捨てた。男同士で『手拭いを換える』などくだらない、子供じみた恋愛遊戯なぞ馬鹿らしくてやっておれぬと、友人たちの狂騒ぶりを呆れ顔で眺めていたものだ。

 しかし、そんな早熟な少年にありがちな虚勢の裏側で、誠之進はある人物に秘かに恋をしていた。

 一生分の想いを使い果たしたと思うほどの、切なく苦しい恋だった。

 それは実らない、実らせてはならぬ恋だった。

 相手は『契る』ことよりも誠之進の友情を求めた。

 相手の身も心も欲しいという、本心を打ち明けられないのは、単なる怯惰だったかもしれない。

 だが、念友の関係など鳥肌がたつ、とまで言った彼に、自分の劣情を知られるわけにはいかなかった。

 意志の力で封印した想いは、やがて時を経て昇華し、『友情と信頼』という名の清い上澄みだけが残った。

 その結末に悔いはない。

 生きながらに葬った恋の代わりに手にしたもの─。

 二人の『刎頸の交わり』はきっと一生続くだろう…。


 『…元服して、成人してからも…。生涯……ずっと友でいようぞ』

 あの時、恋する気持は永遠に尽きたと思っていた─。




 誠之進は十七で元服し、十八歳から江戸勤番を命じられた。
お役を賜り、留守居役の御用部屋に詰めて働くうち、藩士としての自覚も生まれ、己の将来のことも考え始めた。

 早晩、妻を迎えて、溝口家の嫡子として家を継ぐ。国家老として藩主を助け、善政をしき、藩士・領民の暮らしを支えるのだ。父のように家族を愛し、子供らを立派に育て、次の世代への橋渡しをする。

 上席家老の嫡男として、自分に課せられた役目を真摯に引き受けていく覚悟だった。



 だが、ふたたび『恋』は誠之進のもとを訪った。

 ニ度目の恋は春風のように優しく、誠之進の心に入り込んで来た。

 一目で恋に落ちた初恋とは異なり、ニ度めの恋は音もなく密やかに始った。
時を経て降り積もった優しい想いが、今、雪解け水のように音をたてて流れ出す。

 愛しい三郎…。

 これが恋だと、認めるまでには長い時間がかかった。

 始めは、無防備に寄せられる信頼が、嬉しくもあり、おもはゆくもあり…。親が子供の成長を見守るような目線だった。

 それが何時の頃からだろう。

 気がつけば、ふと物思いに沈む三郎の横顔に目を奪われていた。
着物を背中から着せかけてやる度に、滑らかな項に唇を押し当てたい衝動に駆られた。
そっと三郎の肩や手に触れる指先は、これまでと違う意味を持ち始めた。

 先月の始め、たちの悪い風邪が流行り、側仕えの源蔵が熱で二、三日寝込んでしまった。他にも近習の者は数名いたが、源蔵以外の者が入浴の手伝いをするのを三郎は嫌がった。

 それでも背中くらいは流してさし上げねばと、誠之進が着衣のまま襷をかけ、ぬか袋片手に湯殿へ入った。

 一歩足を踏み入れた途端、誠之進は後悔した。

 ほんわりと立ち篭める湯気の中、檜の椅子に座る、象牙色の背に目が釘付けになった。まだ大人になりきらぬ肩から背中の優美な曲線、細い腰の線、その下のまろやかな双丘…。目でひとつひとつ辿るだけで胸苦しさを覚え、下腹は不埒な熱を帯びた。

 息苦しくなったのは湯殿の湿気のせいではなかった。

 触れたいと思う気持のなかに、肉親のような情を越えた、危ういものが混じり始めたことを、誠之進は自覚せざるをえなかった…。

 『梅ヶ枝は、もう手折られたのですか?』

 内藤帯刀に揶揄されるほど、自分は物欲しげな視線で三郎を見ているのだろうか…。

 (妙な噂がたってはまずい。気をつけねばならぬな…)

 二度目の恋も一筋縄ではいかない予感に、誠之進は深い溜息をついた。


***


 とん、とん、とん…。

 かたかたと揺れる雨戸の音に混じって、木戸を叩く音が聞こえる。気のせいかとは思ったが、誠之進は一応確かめに木戸のある板の間へと向かった。
 渡り廊下と離れの間の木戸は普段は開いているが、今日は風が強いため、閉めて閂をかけてあった。

 次の間を出ると、はっきりと戸を叩く音が聞こえた。

 「誠之進!誠之進!」

 「三郎ぎみ?!」

 呼び声に慌てて閂を外せば、雪まみれになった三郎が中へ飛び込んできた。蓑もつけず、部屋から着物でそのまま出てきたという格好である。

 「三郎ぎみ、いかがされました?!」
髪や着物についた雪を手ではたき落しながら、
「こんな格好で雪の中へ出るとは…」
誠之進は半ば叱るように三郎の目をのぞきこんだ。
三郎ははにかんだように微笑むだけで、何も答えない。
「私に御用なら…、源蔵にでも呼びにこさせれば、こちらから参りましたものを…」

 「来ては…いけなかったか?」 
三郎が少し拗ねたように誠之進を見上げた。

 「左様なことは申しておりませぬ。さ、早く中へ入って火におあたりください」
誠之進が苦笑して促すと、三郎は破顔して次の間へ足を踏み入れた。
「あっ…」
顔をしかめた三郎を訝しげに見ると、三郎は自分の足下にじっと視線を落している。

 履物もはかずに、足袋一枚で雪の積もった廊下をわたってきたらしい。湿った足袋の感触に、畳の上に足を降ろして始めて気付いたという表情だ。

 「まったく…」

 誠之進は呆れたように溜息をつくと、
「そのように濡れた足で畳の上を歩かれては困ります」
「あっ…」
三郎が否という間もなく、誠之進は三郎を両腕で抱き上げ、大股で奥の部屋へと歩いた。

 子供の頃のように軽々というわけにはいかなかったが、誠之進はまだ自分の両腕で三郎を抱き上げられることを、秘かに嬉しく思った。

 火鉢の横に三郎を降ろして足袋を脱がせる。

 子供っぽい行いが恥ずかしくなったのか、三郎は微かに頬を赤らめたまま、誠之進にされるがままになっていた。

 懐から手拭いを取り出し、足全体をざっと拭いてやってから、足の指を一本ずつ丁寧にぬぐってやる。

 「そ、そんな風にせずとも…」
「なれど、きちんと拭いておかねば、しもやけになりまするぞ?」
三郎は反論しなかったが、居心地悪そうに身をかたくして、黙って誠之進に足を差し出していた。

 「さ、これでよろしかろう。早く炬燵へお入りなさい」
三郎は大人しくうなずき炬燵に足を入れた。
誠之進は新しい手拭いを押し入れから取り出すと、三郎の後ろへ回り、着物や髪を軽くふいてやる。
「これくらいなら着替えずとも、火鉢の熱ですぐに乾きましょう…」

 三郎は目を細めてじっと炬燵にあたっている。何やら猫のようだなと、誠之進は胸の中で苦笑した。

 せっかく雪の中をやってきたのに、先程叱ってしまったことを誠之進は少し後悔した。髪を拭いてやりながら、優しく問いかける。
「…碁はもうお済みになったのですか?」
三郎がこっくり頷く。
「源蔵は弱すぎて相手にならぬ。自分ばかり勝ってもおもしろうない」
誠之進は喉の奥で笑うと、
「松之助あたりがちょうどよい対戦相手ですかな?」
「うむ。藩校が休みでも…雪が止まねば、だれとも遊べぬな」
「仰せの通りです」
二人は顔を見合わせて、愉しげな笑い声をたてた。

 三郎の着物を拭き終えた誠之進は、炬燵にあたる三郎の脇へ移動し、端座した。

 「誠之進、そなたなぜ炬燵に入らぬ?」

 黒目がちの瞳が素直に何故と問いかけた。誠之進は少しためらった後に口を開いた。

 「主と同じ炬燵に入るのは…いかがなものかと」

 「…そのようなこと」
どうでもいいではないか、と三郎が訝しげに見上げた。
「一応、けじめというものがござります」
誠之進は小さく咳払いした。
「そなたの炬燵を私が取り上げたようで、居心地が悪いぞ…」
三郎が不満そうに呟いた。
「取り上げたなど、滅相もない…」

 三郎はじっと誠之進の目を見つめていたが、何かいたずらを思いついたように、にんまり笑った。
「では命じる。そなたも炬燵に入れ」

 そう来たか…と誠之進は思わずこめかみに手をあてた。

 「何をしておる、早う参れ」
すっかり命令口調の三郎に、誠之進は根負けしたように溜息をつく。
「…主命とあらば、慎んで従いましょう…」
誠之進は御免と一礼して、炬燵に入った。


***


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