十二の巻「雪の華」3



by 戸田采女


 三郎は満足そうに頬にえくぼを浮かべると、懐から書を取り出した。
誠之進が目で問うと、
「実は、これを見せに来たのだ…」
おずおずと誠之進の前に差し出した。
表書きに『楽府詩集』巻十六とある。

 「漢詩にござりますか?」
誠之進が手にとって眺めると、
「弥一郎に貸してもらった詩集じゃ」
「ああ、あの時の…」

 年末に三郎が弥一郎に招かれ内藤邸に立ち寄った折り、弥一郎から手渡された書のことだった。ぱらぱらとめくると、折癖のついた頁に見覚えのある詩が載っていた。

『我君と相知りて
長えに絶え衰うること
無からしめんと欲す
山に陵無く
江水竭くるを為し
冬雷 震々として
夏に雪雨り
天地合し
及ち敢えて 君と絶えん』
            〜『上邪』〜


 誠之進自身も藩校時代に出会い、心惹かれた漢詩だった。恋する少年たちは一時皆これにはまるらしい。誠之進は懐かしい日々を思いだし、柔らかく目元を和ませた。

 「誠之進、そなたも、この詩を知っているのか?」
「はい。俗謡ですから、詩文の講議で習った覚えはござりませぬが…。漢詩を解するものなら一度は目にしていると心得まする」
「そうか、有名な詩なのだな…」
三郎は一度誠之進を見上げてうなずくと、炬燵の上に視線を落した。
俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「恋の…詩なのだろう?」
「はい…友情や忠義を歌った詩という解釈もありますが…。私もこれは恋の歌かと存じます」
「…他にも良い詩がたくさん載っているが…」
「…?」
「私はこれが一番好きだ」
三郎は蚊のなくような声で呟くと、背中を丸め、そのまま黙り込んでしまった。


 何故三郎はこの詩集を自分に見せに来たのだろう?
内藤弥一郎は何か特別の意味があって、この詩集を三郎にもたせたのだろうか?
まさか中に文でも挟まっていたのだろうか?
内藤弥一郎が三郎に好意を寄せている…? あり得ぬ話ではかった。

 突如として湧き出た疑念に、誠之進の胸が泡立ち始めた。

 「誠之進…怒らずに聞いてくれるか?」
「何で…ござりましょう…?」
頬を微かに染めて切り出した三郎に、誠之進の鼓動が早くなった。

 「何ゆえ、溝口家と内藤家は仲が悪いのじゃ?」
「別段、反目しているわけでは…ござりませぬが」
あまり己から積極的に語りたい話題ではない。慎重に言葉を選ぶ誠之進だった。

 やはり何かあるのだな、と黒目がちの瞳が悲しげに揺れた。
「誠之進、私も正直、帯刀はあまり好きになれぬが、弥一郎は…感じのいい男だったぞ」
「左様でござりますか…」
「…もっと話がしてみたい。今度屋敷に呼んでも…構わぬか?」
「何を仰せかと思えば…。この屋敷の主は若です。若の好きなようになさりませ」
ちりっと胸の奥が灼けたが、誠之進は口元に笑みを作った。
「では良いのだな?」
遠慮がちに問う三郎に、誠之進は穏やかに首肯した。
「弥一郎はいいやつだ。そなたもきっと好きになる…」

 どうやら三郎は過日招かれた礼がしたいだけのようだ。恋敵が現れたかと、思わず身構えた己が情けない。安心したところで、ふといたずら心が頭をもたげた。

 「ところで、三郎ぎみ。弥一郎殿は、『上邪』の頁に恋文でも挟んでおられたのですか?」
冗談めかして誠之進は片眉を上げた。
「ば、ばかもの!そのようなこと…!」
むきになって否定する三郎が可愛い。つい胸の奥の本音がぽろりとのぞいた。

 「若が殿の御子でなければ、『手拭いを換えてくれ』と迫る者が、後を断たなかったでしょうな…」
「せ、誠之進?」
「…なれど、藩校の生徒たちは皆、臣下ですから…」
「どういう意味だ?」
何故と小首をかしげる仕種に、誠之進の胸がきゅっと締め付けられた。

 「…臣下から、手拭いを換えてくれなど、言えるわけがござりませぬ。ましてや、契ってくれと迫るなど言語道断…」

 他人事のように口にした台詞。
だが、これはまさしく誠之進自身に課された禁忌だった。
年下であっても主である三郎に、臣下の自分から愛を打ち明けるなど、許されることではない。ましてや、我が子か弟のように慈しんできた若君を、閨で組み敷くなど…。

 三郎は誠之進の真意など知らずに、瞳を揺らして問いかける。

「…何ゆえ…斯様な遠慮をせねばならぬのだ?」

 誠之進は睫を伏せて、唇の端に薄い笑みをのせた。
「臣下とは、そういうものにござりまする…」




 静寂があたりを包んだ。
時折思いだしたように、風で雨戸がかたかたと鳴った。

 離れには近習の者は詰めておらず、この吹雪きでは誰も近寄らない。誠之進は今さらのように、三郎と二人きり、いわば密室に閉じ籠っていることに気付いた。

 二人で同じ炬燵にあたり、身を乗り出そうものなら、息使いが感じられるほど近くに三郎がいる。ほんのりと赤みのさした、滑らかな象牙色の頬。まばたきするたびに、伏せた睫がはたはたと揺れる。顔つきが大人びてきたなか、ふっくらした下唇に幼い頃の面影が色濃く残っているような…。

 鉄の自制心を持つ誠之進でも、この状況はいささか辛かった。

 (話題を変えねば…。このままではまずい)

 身体の奥で静かに燃え始めたものに、誠之進は舌打ちした。誠之進が碁盤でも取り出そうかと腰を浮かせかけたところ、三郎がぽつりと口を開いた。

 「誠之進…」

 そのままの姿勢で固まる誠之進。

 「そなた…恋をしたことは?」

 人の気も知らず、何故、話をそちらへ持ってゆかれるのだ、と誠之進は奥歯を噛み締めた。

 だが三郎は頬を染めながらも、まっすぐに誠之進を見つめている。真面目に尋ねているのが分るだけに、はぐらかすのは卑怯な気がした。守役としては、きちんと答えてやるべきだろう。

 誠之進は炬燵に座り直し、観念したように浅く息をついた。

 「…昔のことですが」
誠之進が口を開くと、三郎がわずかに身を乗り出した。
「…いくつの時じゃ?」
遠慮がちに尋ねてくる。さりげなく視線を流しながらも、全身を耳にして誠之進の次の言葉を待っているようだ。
「丁度…今の若くらいの年頃でした」
「相手は…どのような人だったのだ?」
「……」
即答しない誠之進を、三郎は仰ぎ見た。
「…教えてくれぬのか?」

 以前にもこんな会話をした覚えがあった。三郎が藩校に通い始めた頃のことだ。が、今日の三郎は、聞き出すまで一歩も退かない構えのようだ。あの時より大人びた黒目がちの瞳が、思いつめた様子で誠之進を見つめている。

 「…いろいろと差し障りがあって、実らなかった恋です。語るのはいささか苦しい想い出です。ご容赦くださりませぬか?」
「……どこの誰かとは聞いておらぬ…。……美しい人だったのか?」

「…美しく聡明な人でありました。繊細で…気高い心の持ち主でもありました…」

 思わず遠い目をしてしまったらしい。
三郎が潤んだ瞳で見上げている。眉がわずかに下がり、唇をきゅっと引き結んでいる。今にも泣き出しそうな顔に見えるのは、はたして気のせいだろうか?

 「……今でも、その人が好きなのか?」
「…いえ。遠い昔にあきらめた恋にござります」

 きっぱりと答えが口をついて出た。

 誰よりも側近くありながら、その実、心の奥底はついに明かすことができなかった。時を経て二人の道が別れるにつれ、いつしか少年期の切ない恋の思い出として、彼の人は誠之進の中で永遠の位置を占めた。

 三郎の唇が安堵したように綻んだ。

 「ならば…今は?」
「今、でござりますか?」

 三郎が頬をこわばらせて、こくりと頷いた。

 (三郎ぎみ…あなたは私から何を聞き出そうというのです…?)

 「…想う相手はおらぬのか?」
 
 一瞬の沈黙の後、誠之進は小さな吐息をついた。昔の恋の話はともかく、これにはまともに答えるわけにいかなかった。


 「…大切な人ならおりまするが」
「……?」
食い入るように見つめる三郎の耳元にそっと囁いた。 
「今は…三郎ぎみ一筋です」
「せ、誠之進?!」
三郎の声がひっくり返っていた。
「毎日、若のお世話に忙しくて、とても恋人を作る暇などござりませぬ」
みるみるうちに三郎の頬が朱に染まった。
「ひ、ひとを赤子のように言うな!」

 拳を振り上げて言い募る三郎に、誠之進は相好を崩した。
「ほれ、すぐそのように、赤くなったり青くなったり…。若は本当に分かりやすくて愉しいお方ですなあ…」
「おのれ、誠之進!」

 誠之進は腹の底から明るい笑い声をたてて立ち上がった。
「おまえまで、そのようなことを…」
炬燵に貼り付きながら、三郎が恨めしそうに見上げている。

 会話が途切れたところで、耳を済ませば雨戸の音が止んでいた。誠之進は外の様子を確かめに、次の間から板の間へと出ていった。追い掛けてくる視線を感じながら、誠之進は背中で静かに語りかけた。


 三郎ぎみ、私は…恋に臆病な男です。
心から想う相手ほど、自分からあと一歩が踏み出せない。初恋も、遂に想いを打ち明けることなく終りました。

 愛を打ち明けて、相手を悩ませたくない、困らせたくはない…。そう言いながら、結局は万に一つも拒まれること、相手を失うことが恐かったのです。

 三郎ぎみ、あなたが私を慕ってくださっているのは痛いほど分っています。されど、私を父とも兄とも頼む、あなたの『好き』は、肉親への愛情のようなもの。

 私は、主であり、我が子のように育てたあなたと、不届きにも枕を交わしたいと…思っています。まったく…守役として、殿に合わす顔がござりませぬ。

 臣下として変わらぬ忠誠を誓いながら、あなたの将来のことを真剣に案じる一方で、他の人間に恋をする前に、自分のものにしてしまおう、いっそ手折ってしまおうかと…。

 気がつけば、いつもそのような思念に捕われています。

 時々、あなたに慕わしげな眼差しで見つめられると、もしやこの想いを受け入れてもらえるのでは、と愚かにも淡い期待を抱いてしまいます。

 私の本性を知ったら、やはりあなたは傷付き、嫌悪するでしょうか…。

 それとも─。


 次の間の襖を開け、木戸のある板の間へ出た。閂を外して木戸を押す。渡り廊下に降り積もった雪をかきわけるように、誠之進は木戸を押し開けた。

 再び廊下は雪で埋まっていた。つい先程までの風は嘘のようにおさまっている。雪が音を呑み、庭には静寂が満ちていた。仰ぎ見れば、鈍色の空の高みから、雪が絶えまなく舞い落ちてくる。

 降り積もる想い。晴れぬ心。

 凍雲が誠之進の頭上に重くたれ込めていた。


雪の華 了


「雪の華」2 | 「梅が枝」1

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