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如月の終り。まだまだ雪深い越後にも、ようやく春めいた陽の光りがさし始めた。
梅の香漂う午後、一日の執務を終えた上席家老・溝口主膳が、下城後、何の前ぶれもなしに、突然、三郎と誠之進を西の丸の屋敷に訪ねた。
主膳が訪ないを告げたとき、ちょうど誠之進と三郎は能楽の師匠を招いて舞の稽古中だった。三郎は中断すべきかどうか迷った様子だったが、
「父上もご覧になって下さりませ」と、誠之進は逆に三郎に舞を披露するよう促した。
主膳にも是非にと請われ、三郎は気恥ずかしそうに頷いた。
誠之進が目で合図した謡いはじめると、師匠の鼓の調べが重なってきた。
扇を手にした三郎が、滑るように優雅に舞い始める。稽古中の演目は『井筒』だった。
*
「いやはや、上達されましたな。つい見蕩れてしまいましたぞ」
主膳は惜しみなく拍手を送りながら破顔した。
「…主膳、無理をせずともよい。……舞は苦手なのだ」
照れる三郎が微笑ましく、誠之進は目元を和ませた。
「若、父は滅多に人を誉めませぬ。言葉通り受け取っておいてよろしいかと…」
含み笑いをしながら父・主膳をみやると、主膳は片眉をあげて苦笑していた。
稽古が終ったのを見計らって、三郎の乳母、お福が茶と菓子を運んできた。
「おお、お福、久しぶりじゃな。息災であったか?」
主膳の言葉に、お福は満月のような顔でにっこり笑った。
「お陰様で息子ともどもつつがなく暮らしております。御家老様もますますご壮健の御様子にて…私も嬉しゅうござります」
「何の…儂も年を取ったわ。そろそろ隠居する仕度を始めようかと思うておる」
「まあ…何を仰るかと思えば。…まだまだそのようなお年には見えませぬ」
「お福にそう言われると嬉しい気はするが…、やはり寄る年波というやつでな。今年は寒さが格別身にこたえるような気がするのじゃ」
情けない声でぼやく主膳に、お福は、またまたお戯れを、と笑ってみせた。
三郎は端座し、二人の会話にじっと耳を傾けている。
何か一心に考えているような瞳に、誠之進は目を奪われていた。
やがて師匠とお福が座敷を辞し、障子戸の閉まる音に初めて我に帰った。
気がつけば、主膳が茶碗を傾けながら、時折ひたと視線を合わせてくる。
(父上…何か?)
誠之進が目で問うと、主膳は誠之進から目線をゆっくり外し、三郎と誠之進、二人に語りかけるように口を開いた。
「年が明けて三郎ぎみも御年、十五歳。心身ともにご立派にご成長あそばし、家臣一同、まことにもって祝着至極と心得まする…」
改まった主膳の口調に、何が始るのかと三郎がかすかに身構えた。
ふと嫌な予感がした。
「十五歳といえばもう一人前。藩士の中には元服するものもござります…」
(父上、その話はまだ─。)
元服ときいて、誠之進はおぼろげに主膳の意図を悟った。
(まさか…今、この場でご養子の話をなさる気か?)
どうかお待ちくださりませ、と誠之進は必死で目で訴えた。だが、主膳はわざと誠之進と目を合わさぬようにして、淡々と続けた。
「わが藩の場合、藩公の御一族は大体十七、八歳で元服なさるのが、慣いとなっておりまする。三郎ぎみもそろそろでござりますな」
(父上、そのような話は、時期を見て私からお話いたします!)
誠之進はなおも目で言い募ったが、主膳はかたくななまでに誠之進の視線を無視した。
「先日…江戸表の留守居役、岩田善次郎から三郎ぎみの御養子先の件で書状が参りました。何件かお話が出ているそうで、お父上ともご相談中とのこと。いずれも万石の大名で、由緒ある家柄と聞きおよびまする…」
「主膳、養子先とは…いったい?」
それまでじっと端座していた三郎が初めて口を開いた。玻璃玉のような黒い瞳が、誠之進と主膳を交互に見ている。
一文字眉の下、主膳の瞳が軽く見開かれた。
ようやく誠之進と目を合わせると、
「誠之進…、其許まさか御養子の件、今まで三郎ぎみに何もお話しておらぬと申すか?」
主膳はさも意外そうに驚いてみせた。
「父上…それは!」
(ですから、その話は改めて私から…!)
主膳の来訪の意図はここへきて明白になった。
(父上は私の迷いをとっくに見抜いておられたのか?! 御養子の件、私が話しておらぬことなど先刻御承知で…。父上はわざと?)
いきなり屋敷を訪ねて三郎ぎみに斯様な話を切り出すなど…。これではまるで不意打ちだ。
(父上は私にも釘を刺すつもりで、このようなことを?)
誠之進が秘かに考えていた選択肢は、分家をたてる願いを出すことだった。
だが、誰に、どんなタイミングで申し出れば一番うまく事が運ぶのか? 迂闊に分家の話など持ち出せば、どんな波紋を呼ぶかわからない。ほとんどの重臣が三郎は養子にいくものと決めてかかっている中、それを覆すのは容易なことではない。今しばらく、戦略を練る時間がほしい。
誠之進は主膳に返す言葉が見つからない。握りしめた拳にはじっとりと汗をかいていた。
三郎は突然降って湧いた話に、不安と驚きを隠せない。縋るような瞳で誠之進を見つめている。
(何か答えねば…、とにかく今は話を切り上げなくては三郎ぎみが…。可哀想に…何と言うお顔をなさっているのだろう─。)
誠之進は意を決して面をあげた。
「父上、その儀は折りをみて私から三郎ぎみにお話しいたします。今日のところはどうか、これにて…」
「誠之進、まことにきちんとお話するのであろうな。いつまでも延び延びにしておくわけにはいかぬのだぞ。家督を継がぬ次、三男は養子にいくのが習い。三郎ぎみにも、そろそろ心の準備をしていただかねばならぬ」
「父上…」
(なぜそのような無慈悲な物言いをなさるのですか?!)
理不尽な怒りかもしれなかった。しかし、誠之進はわき上がるものを抑え切れず、
「父上、守役の私からお話すると、先程から重ねて申し上げております」
思わず語気を強めた。
「誠之進?!」
「恐れながら、私は殿より三郎ぎみの養育を一任されている身、たとえ父上でもこれ以上の口出しは御遠慮願いとう存じます!」
誠之進は眦をけっして主膳を見据えた。
主膳も目を逸らさない。
誠之進の目の端に、怯えたような目で誠之進を見つめる三郎の姿が映った。
息苦しいような沈黙の後、張り詰めた弦を緩めるがごとく、主膳が重く息をついた。
居ずまいを正すと、三郎に向かって深々と一礼した。
「では三郎ぎみ、某、本日はこれにて失礼いたします」
ゆっくりと面をあげ、今度は誠之進と目を合わす。
「誠之進、よいな。しかと申し渡したぞ」
厳しい表情で念を押すように頷いた。
誠之進は黙して答えなかった。
主膳が座敷を辞していった。
残された三郎・誠之進主従は、どちらからも声をかけることができずに、ただ瞳を揺らして見つめあう。廊下を行く主膳の足音が、いつまでも耳に残って消えなかった。
つづく
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