十三の巻「梅が枝」2

by 戸田采女


 主膳が去った後、いったいどのくらい時がたったのか?

 気がつけば火鉢の炭も消え、あたりに夕闇が迫っていた。

「ああ、すっかり火が消えてしまいましたな。どうりで寒いはずです…。新しい炭を持ってこさせましょう…」
沈黙に耐えかねた誠之進は、炭を口実に一度座敷を去ろうとした。
逃げるわけではない。ただ、自分の中ですら未だ考えがまとまらぬものを、口にするわけにはいかなかった。

「…誠之進、ゆくな」
だが、三郎は誠之進を引き止めた。

「きちんと…話してほしい」
「三郎ぎみ…」
「私は…元服したら養子にいくことになっているのか?」
濡れたような瞳が誠之進をひたと見た。
「それも…大名家というからには、領内を離れてどこか遠くへ行かされるのか?」
見つめ返すうち、誠之進は胸苦しさから思わず目を逸らした。

「…そうなのだな?」
「若…それは…」
「最初から、決まっていたことなのか?」
「三郎ぎみ…」
「そなた…何もかも知っていて……」
「そ、それは─」

(確かに父・主膳はそのような心づもりでした…)

 答えに窮した誠之進を三郎が静かに見つめていた。
誠之進が何も言えずに見つめ返していると、やがて三郎は睫を伏せて寂しげに呟いた。

「そなたの役目は…私を…何処へ出しても恥ずかしくないよう、立派に育てあげることだったのか…」
「さ、三郎ぎみ?!」
「…、で、見事、父上や重臣たちの期待に応えたというわけか」
「何を…仰せになられます…?」

「あれほど優しかったのも、何もかも…お役目熱心ゆえだったのだな…」

 三郎は瞳を潤ませたまま、唇の端に笑みを浮かべた。

(違う!三郎ぎみ、私は…、私は!)

「…責めておるのではない。武士ならば与えられた役目を立派に果たすのは…あたりまえのこと…」

 感情を殺し切った声音で三郎が呟いた。心が固い殻で覆われていくのが、手にとるようにわかる。

(役目など関係ない! 私はあなたがただ愛しくて─。心からお仕えしてきただけなのに。なぜ私の誠を疑うようなことを口にされるのですか?!)

 喉まで出かかっている言葉が、もどかしい。
心の中で叫んだまま、口にすればいいのだ。そんな簡単なことが何故できぬ?!
誠之進が戸惑い、迷っている間にも、三郎は一人勝手に結論を出していく。

「誠之進…、ひとつだけ聞いてもいいか?」
「若…私は…!」

「誠之進…、なぜ私は養子に『行かねば』ならぬのだ? なぜ高山に、この屋敷にいてはならぬのだ?」
「それは…」

 大名家の縁組みは、ある意味、閨閥を作るための手段。

 おまけに藩主の寵愛深い三男は、ご正室や嫡男にとっては目の上のたん瘤だ。
今までは惣一郎に万一のことがあった場合の「お控え」として、国許に残る意味もあったが、惣一郎が室を迎え、早晩世継ぎも生まれるであろう今となっては、その意義も薄れつつある。
 
 むしろ、藩士に人望のある三男の存在は、惣一郎や、生まれてくる惣一郎の子にとっても脅威である。江戸藩邸が熱心に養子先を探すのは、閨閥を作ることよりも、三郎を藩内から排除することが真の目的だろう。

 大人びてきたとはいえ、まだ十五歳の無垢な三郎を前にして、斯様な生々しい政略の話、とても聞かせられるものではなかった。

「誠之進…答えられぬのか?」

「三郎ぎみ…御養子の儀につきましては、私にも考えが─」

 逡巡した挙句、懸命に言葉を紡ごうとした途端、誠之進は三郎に遮られた。

「もうよい。…困らせて悪かった」

 震える声で呟くと、三郎が座布団から立ち上がった。その足で座敷を出ていこうと、誠之進の脇を行き過ぎる。

「三郎ぎみ! お待ちください!」

 思わず腰を浮かせて誠之進が三郎の左手を掴んだ。

「まだ御養子に行くと決まったわけではござりませぬ!」

 一瞬、三郎の歩みが止まったが、
「無理をするな…誠之進」
俯いて小さく頭を振った。握りしめた指先から三郎の動揺が伝わってくる。

「…若、大名家へ養子に出すために、私が手塩にかけてお育てたしたなど、とんでもない誤解にござります…」
誠之進はありったけの想いを込めて、三郎の瞳の奥を見つめた。

「なれど…初めから分っておったのだろう? 元服したら…別れが来るのだと、知っておったのだろう…? そなた、何もかも心得ていて…!」

 三郎が悲痛な声で叫んだ。

 誠之進の手を振り切って、三郎が部屋を出ていこうとする。

「お待ちくださりませ!」

 誠之進は行かせまいと掴んだ手を引き戻した。

 三郎の震える指先を、包みこむように己の掌に握りこんだ。

「確かに…六年前、父はそういう意図で、私を三郎ぎみの守役にと殿に申し出ました。若が元服なさるまで、誠心誠意お世話をせよと」

 つないだ三郎の手からふっと力が抜けた。誠之進は勇気づけるように再び握りしめた。
「…最後までお聞きください」
「…誠之進」
初めて加賀屋へ迎えにいった日のように、三郎の黒目がちの瞳が揺れている。
ふと懐かしさを覚えて、誠之進は目元を和ませた。

「守役となったのも、加賀屋へお迎えにあがったのも、確かに殿の命でした」

 ほら、やはりそうなのではないか、と三郎の瞳が翳った。

「ですが、若を好きになったのは、誰の命でもありませぬ」

「好き…? 私を…?」

 意味がわからない、とでも言いたげに、黒目がちの瞳が誠之進を見降ろしている。

 誠之進が握った手を軽くひくと、三郎は脱力したようにすとんと畳に膝をついた。

「ずっとお側におります…と、申し上げたはずです。お忘れですか?」

 三郎が幼い時から何度もくり返してきた言葉だった。三郎もそれを思いだしたのか、声をつまらせながら誠之進をひたと見る。

 だが、今これを口にするには、誠之進の側に生半可でない決意が必要だった。父・主膳の顔が一瞬脳裡に浮ぶ。

 父上の期待を…完璧に裏切ることになるやもしれぬ。主膳は保守的かも知れぬが、藩の安泰に心を砕き、家老としてお家のために骨身を惜しまず働いて来た。その父を、隠居目前の最後の最後で失望させるようなことを自分は考えていた。三郎と共にあるために、押さねばならぬ横車の数々…。

(父上…申し訳ござりませぬ)

 誠之進は心の中で手を合わせて詫びた。

(なれど、私は…)

 ふたたび三郎を正面から見つめ、深く息をついた。静かに胸の中で決意が固まっていく…。

「私は…お役目ゆえ、誠心誠意お仕えしたのではありませぬ」

 三郎の唇が何か言いたげに、もどかしそうに動いた。

「恐れながら…」

 言いよどんだ誠之進をひたと見る三郎。縋るような視線に、誠之進の胸が甘く疼いた。

「私は、若を…、愛しく思うております」

 三郎の玻璃玉のような目が一瞬大きく見開かれた。

 もう隠すまい。今、想いを伝えねば、いつ伝えるのだ…。

 離したくない、ずっと己の手の中で守りたいと思ってきた。その気持にはいささかの汚れも打算もない。

 三郎が肌身を合わせることを厭うなら、その時は耐えるしかあるまい。されど、恋しい、慕わしいと思う心は…。もう止められない。

「ま、まことに……?」
見つめあったまま、三郎が震える声で問うた。
誠之進はすっと瞼の力を抜いて頷いた。
「…己の命よりも大切に思うております」
みるみるうちに三郎の瞳が潤んだ。
「まだ…お疑いですか?」

 三郎は目を潤ませたまま、ゆっくりとかぶりを振った。睫の間から大粒の涙がはらりと頬を伝った。 誠之進は親指でそっとぬぐってやり、そのまま三郎の頬を優しく撫でた。

「…元服までにはまだ時があります。今度、殿が帰国されたらよくご相談いたしましょう…」
「父上と…?」
「…はい。御養子以外の道もあるやもしれませぬ。重臣たちの思惑だけで、若の将来を決めさせたりはいたしませぬ。どうか…私を信じて…お任せくださりませ」
「…元服しても、側にいてくれるのだな?」
「若がそれをお望みなら…」
三郎がこくりとうなずく。

「ずっと…恐かったのだ。私が元服したら…守役の役目は終りだと、聞いた」
「誰がそのようなことを…」
三郎は小さく頭を振った。
「…そういう話は何となく耳に入るものじゃ」
「三郎ぎみ…」

 三郎は誠之進の手に左手を預けたまま、ふっと睫を伏せて続けた。
「…それでも、はやく『一人前』になりたかった。そなたに認めてもらえるような、そなたが仕えるに値するような男になりたかった。さすれば、成人しても…側にいてくれるのではないかと思うた」
「…そのような事を…考えておられたのですか」
切なさと愛しさがないまぜになって、誠之進の胸の奥からせり上がってくる。
「…私とて…いつまでも子供ではないのだぞ」
三郎は唇を嚼みながら、意を決したように面を上げた。

「大名になどならずともよい。領地もいらぬ、一生部屋住みでもよい」
「三郎ぎみ…」
「なれど、そなたと…引き離されたら…生きてはいけぬ」
頬を染めながらも、正面から誠之進を見つめて目を逸らさない。

「誠之進、そなたが…好きだ」

 真直ぐに、懐に飛び込んでくるような告白を、誠之進は胸が震える思いで抱きとめた。

 目を見交わす。お互いの瞳の奥を探るように、一心に見つめあう。
そっと肩に腕を回してひき寄せれば、三郎はごく自然に身体の重みを預けてきた。
三郎は誠之進の胸に片頬を押しあてるようにして、じっと目を閉じている。

 この世で最も愛しいものを、誠之進は包み込むように抱きしめた。震える瞼にそっと唇を押し当てる。

「決して…離しませぬ」

 三郎の睫が微かに震え、ためらいがちに両手が誠之進の背に回った。誠之進が抱きしめる腕に力を込めると、応えるかのように三郎の両手が着物の背を握りしめた。

 三郎の望む未来の絵図を確実に描くまで、想いを打ち明けることなどあるまいと思っていた。臣下だからという禁忌に加え、誠之進しか頼むものがいない状況で、愛を打ち明けるのは卑怯だと思ったからだ。

 だが、きっかけはどうあれ、三郎は今こうして誠之進の腕の中にいる。眼差しや所作のひとつひとつが、懸命に気持ちを伝えようとしてくる。いじらしさに胸が詰まった。

(触れても…よろしいのですか? 三郎ぎみ…)

 最後のためらいを残しつつ、誠之進が優しく前髪のあたりを梳いていると、

「誠之進……」

 切なげに眉を寄せ三郎が面を上げた。膜が張ったように潤んだ眸で誠之進を見つめている。誠之進がなおも無言でいると、泣き出しそうな顔で視線を逸らせた。

 あまりにも三郎らしい仕種に、誠之進は胸の中で微苦笑を浮かべる。

(…ならばもう迷いませぬ)

 誠之進は人指し指を軽く三郎の顎にかけ、息使いが感じられるほど近くまで唇を寄せた。じっと睫を伏せて身を固くしていた三郎が、うっすらと目を開ける。

 心と心が自然に寄り添うように、二人の唇がゆっくりと重なった。


つづく



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