十三の巻「梅が枝」3

by 戸田采女


 火鉢の炭はとっくの昔に消えていた。

 指先だけでなく、心の奥まで寒さで震えていた。

『次、三男は養子にいくのが武門の習い。三郎ぎみにも心の準備をしていただかねばなりませぬ…』

 主膳の一言で、ずっと恐れていたことが現実となった。

『次、三男は養子』が武家のしきたりであることくらい知っている。だが、まさか国許を離れ、遠くの大名家にやられるなど、考えてもみなかった。誠之進はいずれ国家老となる男だ。私が他藩へ養子に出されるということは…、誠之進と引き離され二度と会えなくなる…。

 目の前に暗い淵が広がった。黒い水が私を呑み込もうと待ち構えている。懸命に踏ん張っても、足の力がどんどん抜けていくようだった…。

(誠之進…!)



 初めて会ったとき、一目で誠之進のことが気に入った。
男前なのにちっとも冷たいところがなくて、子供の私に対しても侮ることなく、折り目正しく接した。

 正直、おじじ様や皆と引き離され、お城へ行くのは辛くて堪らなかった。

 なれど、
「上手に御挨拶できましたね…」
城から迎えにきた誠之進の瞳があまりに優しそうで─。
迎えに来たのが誠之進でなければ、お城に引き取られるのが嫌で、山へ逃げ込んでいたかもしれない。

 城へ行ってからも、誠之進はつきっきりで私の面倒を見た。
武家の作法を教えるときは厳しかったが、屋敷の庭で剣術の真似事をしたり、野山に馬で連れていってくれたり…。私を寂しがらせないよう、毎日一緒に遊んでくれた。

 渾身の力でぶつかっても、びくともしない大人の身体。
精悍な腕や広い背中に憧れた。自分もいつかあんな男になりたいと思った。

 暖かい鳶色の瞳が大好きだった。寂しくてたまらない時も、優しい眼差しで見つめられると、それだけで安心した。子供心にも、「守られている」ことが痛いほどわかった。

 静かで深い響きのする、誠之進の声。耳元で名を呼ばれるとどきどきする。

 誠之進の何もかもが慕わしくて、いつも側にいてほしくて…。

 振り返れば、常に一歩半後ろに控えていることがわかっていても、確かめずにはいられなかった。

 自分だけを見ていてほしかった。

 誠之進を求める気持は膨らむ一方で、今はもうそれだけでは足りなくて…。




『恐れながら…私は、若を…愛しく思うております』

 引き離される不安に怯えていた私に、誠之進は静かに力強く語った。初めて見る、優しいだけではない、熱を帯びた鳶色の瞳。慈しみに満ちた、いつもの瞳の色とは違う。

 もしや…、誠之進も私と同じ気持なのかと、胸が高鳴った。

 養子になど行かせない、父上にもよく相談しようと言ってくれた。

 冷えきった部屋の中、誠之進がくるみこむように私を抱き締めた。嬉しくて、誠之進の胸にじっと頬を押し当てた。暖かさに、涙が溢れそうになった。

 身体が熱くなる…。堪らなくなって、じっと鳶色の瞳を見つめた。

 今、どうして欲しいか伝わるだろうか?

(誠之進…!)

 精一杯、思いを込めて目を見た。
なれど、誠之進は動かない。やっぱり私の独り相撲だったのか…?
とうとう恥ずかしくなって目を伏せた。

 視線を逸らせた途端、誠之進の顔がゆっくりと近付いてきた。軽く息がかかり、思わずうっすらと目を開ける。柔らかく触れてきた唇…。初めての感触に驚きはしたものの、眩暈がするほど幸せで、切なくて、誠之進の着物の背をきゅっと掴んでいた。

 誠之進の唇が羽毛のように軽く触れてくる。それだけで、心臓が痛いほどに鳴った。触れるだけの口づけなのに、どんどん身体が熱くなる。もどかしくて誠之進の腕の中で身を捩ると、唇がしっとりと押しあてられ、誠之進の舌が侵入してきた。

(えっ…?!)

 歯の裏側をくすぐるような動きに、反射的に身体がぴくりと震えた。『口吸い』とは唇を触れあわせるだけではなかったのか? 驚いただけなのだが、誠之進は慣れない私の怯えととったのだろう。優しく啄むような触れ方に戻り、しばらく戯れていたが、やがて柔らかく身を離した。

(だ、誰も嫌だとは言っておらぬのに…)

 温もりが離れていくのが寂しくて、私は思わず誠之進を見上げて無言で訴えた。

「そんな目をされたら…、止まらなくなります…」
誠之進が切なげに眉を寄せた。
「止まらなく…なる…?」
「…おわかりに、なりませぬか?」

   再びきつく腕の中に抱き込まれた。隙間なく合わせた胸から、誠之進の速い鼓動が聞こえる。初めてのことに胸を高鳴らせているのは自分だけではない。誠之進も同じ気持だとわかり、勇気がわいた。

「…構わぬ」
「若…」
「誠之進…、そなたが好きだと申したはずじゃ」

 いつか誠之進が言っていたように、この期に及んで、臣下だから遠慮しているというのか? 焦れったくて、たまらない。ならば、私から…。

 少し伸び上がって、誠之進の形の良い唇に己の唇を重ね合わせた、なれど、恥ずかしくてそれ以上はできない。そっと表情を伺えば、鳶色の瞳が惚けたように私を見つめていた。

「さ、三郎ぎみ…!」
誠之進は苦しげに私の名を呼ぶと、膝立ちになって私を抱きすくめた。

 抱きしめる腕の強さに驚き、うっすらと唇を開いたところを、誠之進の唇で塞がれた。先程と違い、ためらいも迷いもなしに、誠之進の舌が歯列を割って入ってくる。思わず縮こまってしまった舌を、誠之進がやさしく絡め取るように愛撫した。

 頭の芯がぼんやりして、堅くなっていた四肢の力が抜けていくようだ。誠之進の舌先が、私の舌の両側をゆっくりとなぞるように動いている。

 なんだろう…。躯の奥がざわざわする─。

 くすぐったいような、焦れったいような。未知の不可思議な感覚に、私は不安をおぼえた。

 たまらなくなって誠之進の背にしがみつくと、今度は思いきり舌を絡めて吸われた。息苦しくて顔を背けて喘いでも、誠之進は逃さず追ってくる。

(誠之進?!)

 誠之進の片手が頬に添えられ、再び熱い吐息とともに唇が重なってきた。狂おしいまでに求められ、私は鼻にかかった甘い吐息を洩らしながら、両腕で誠之進に抱き縋っていた。




 あの時、源蔵が座敷にやってこなければ…。

 夢中になっていた二人は、源蔵が部屋の前で声をかけるまで、足音にすら気付かないでいた。

「三郎ぎみ、誠之進様、まだこちらにおいでですか? まもなく夕餉の仕度が…」

 障子戸が開いたとき、先に気付いた誠之進がようやく唇を離したところだった。私は瞳を宙に泳がせ、放心したように誠之進の腕の中にいた。

 誠之進の肩越しにぼんやりと障子戸のほうを見ると、源蔵が鳩が豆鉄砲をくらったような顔でこちらを見つめていた。私はもちろんだが、誠之進もどう取り繕ってよいか分らず、源蔵に背を向けたまま微動だにしなかった。

「…ご、御無礼をいたしました!」

 源蔵はほとんど色を失い、慌てふためいて障子戸を閉めた。

「源蔵!」
思わず呼び止めた私を誠之進が制した。

 まろぶように廊下を駆けていく足音が、やがて遠ざかり、消えた。

「誠之進…」
「若…、源蔵には後で私から話します…ご心配はいりませぬ」
「なれど…」
「見られたのが…源蔵でよろしゅうございました」
「あ…」
「…なれど、場所柄もわきまえず、軽はずみなことをいたしました」
誠之進が眉を寄せて溜息をついた。
「…そなたひとりのせいではない!」
鳶色の瞳が一瞬私の目をのぞきこむようにしていたが、
「…かわいらしいことを、仰るのですね」
憎らしいほど余裕たっぷりに、誠之進は口元を綻ばせた。

 私がまだ身体の熱を持て余している一方で、誠之進は何事もなかったかのように、涼しい顔に戻っていた。私が悔しくて言葉に詰まっている間にも、誠之進はそっと私から身を離すと、居ずまいを正した。

「さ、お部屋のほうへお戻りくださりませ…。後でお食事はお部屋にお運びいたします」
「う、うん…」

 大人しく頷いた私の頬に、誠之進が愛しげに唇を寄せた。

 身体の奥に甘い余韻を引きずりながら、私は仕方なく誠之進の言う通り自室へ戻っていった。




 誠之進と私は…恋仲になったのだろうか?
まだ何処か信じられない気がする。
誠之進も私を恋しく想っていたなど…、幸せすぎて夢みたいだ…。

 そっと己の指で唇に触れてみると、先程の誠之進の暖かい唇の感触が蘇った。身体に甘い震えが走る。

 決して離さぬと言ってくれた。これからもずっと側にいると…。
されど、父上は…お許しくださるだろうか?
元服しても、誠之進とともにあることを、父上はお許しくださるだろうか…。

 そして主膳は…。
もしや私の将来を巡って、主膳と誠之進が争うことになってしまうのか…?


 二人の恋は二人だけの問題ではなかった。
想いが通じ合った幸せをかみしめながらも、三郎の心に影がさす。


 幸せな恋の始りは、嵐の前触れでもあった。


梅が枝 了




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