十四の巻「春雷」1



この巻の主な登場人物


本作品「春雷」から当サイトに初めてお越しの方は、シリーズ全体の背景がわかる時代設定・登場人物を合わせてお読みいただければと思います。

by 戸田采女


 雪深い高山の冬が終り、城下にも花の季節が訪れた。

 野辺に菜の花が咲き乱れ、日射しも日に日に明るさを増していた。

 藩校「宗道館」では先週から春の授業が始った。藩主三男・三郎信尭も再び源蔵や友人の筧松之助、神原倫太郎らと元気に登校し始めた。

 この春から、正式に倫太郎を三郎の警護の近習として召し抱えた。誠之進は三郎の元服までは守役の任を解かれることはないが、昨年の洪水以来、復旧計画の立案等、ふたたび藩政に関わる仕事が増えてきた。流石に三郎の藩校への送り迎えまではしていられなくなり、この春から倫太郎に護衛を任せることにした。十七歳になった倫太郎は今年正月、元服を済ませた。武芸に秀でているだけでなく、信義に篤く、明るく闊達な倫太郎は、三郎にとってもこの先頼もしい側近となるだろう。

 昨年六月に高山は大洪水に見舞われ、農地の復旧、堤防の普請に多額の費用が必要となった。幕府からも一万両近く金を借りた。藩にとっては非常時である。国許ではやむなく、今年から半知御借上が実施されることとなった。

 ただでさえ、俸禄の少ない軽輩の家はさぞかし頭の痛いことだろう。倫太郎の家でも嫡男に新たなお役がついたことで、ずいぶん暮らしが楽になると、家族の者は涙を流さんばかりに喜んでいた。

 一方、江戸藩邸にも倹約につとめるよう藩主から達しが出たものの、国許の困窮になど、奥向きでは誰も真剣に耳を貸しておらぬようだった。

『去年、惣一郎様の御婚儀がなければ、藩財政もここまで逼迫しなかったのでは…』

 誰も大きな声では言わぬが、江戸藩邸奥の贅沢三昧に対して、静かに怨嗟の声が上がり始めていた。

 どこまでが真かわからぬが、『お牧の方は贅沢な暮らしだけでは飽きたらず、数年後、惣一郎が家督する時に備え、猟官運動まで行っている』『惣一郎は昔ほど、吉原だ芝居だと遊び暮らしてはいないものの、まったく母のいいなりである』『殿様は昔からお方さまに頭が上がらぬから、諌めるなどゆめのまたゆめ…』などという噂が、城下の武家はおろか、町人の間でも囁かれていた。

 惣一郎と面識のある誠之進は、あの政治に無関心な惣一郎が猟官運動に積極的とは思えなかった。噂が真だとしても、おそらく母・お牧の方が勝手におやりになっていることだろう。しかし、いずれにせよ、三郎の将来のことを考えると、江戸藩邸の動向を正確に把握しておかねばなるまい。

 この先、愛と忠義だけでは三郎を守っていけない。

 今、誠之進が手にしたいのは確かな情報と政治力。

 何も、藩主の座を狙うわけではない。誓って、惣一郎に弓ひく気などない。

 分家をたてて故郷で暮らしたい。そんな、ささやかな願いに過ぎぬのだが、御正室・お牧の方や重臣の大半が三郎を外へ養子に出したがっている中、実現は容易ではなかった。

 今のところ頼みの綱は三郎を寵愛する藩主・信輝公だけだ。しかし、仮に中老の中から三郎の分家に賛成してくれる者がふたりほど出れば…、天秤はかなりこちらに有利に傾く。加えて、嫡男・惣一郎からの賛同を取り付けるのも有効な手段だろう。

 屋敷の中で、三郎と小さな幸せにしがみついていては、事は成せない。

 誠之進は信頼できる味方を増やす必要性を、切実に感じていた。


***


 城下のはずれ、藩校のある「けやき平」からほど近い林の中。藩校剣術師範代・吉田小兵太はいつもの穴場でひとり釣り糸を垂れていた。小兵太は誠之進とは幼少のみぎりから、かれこれ二十年余りの付き合いである。徒士組の家の次男として生まれ、少年時代から武芸に励んできた小兵太は、元服の後、諸国放浪の旅を経て、二年ほど前、高山へ戻ってきた。以来、藩校師範代として師匠の酒井十太夫の下で後進の指導にあたっている。

 相変わらず月代も剃らず牢人者のような髪型で、袴もつけず着流し姿。懐手で城下を歩く姿はどこの遊び人かと思いきや、剣の腕は確かで根は真面目な性格だ。情も深い。

 放浪中、江戸滞在が長かったせいか、小兵太はすっかり江戸の町言葉に馴染んでしまい、普段はほとんど武家言葉など使わない。藩公・三男の三郎に対しても呼び捨てで、敬語など使ったためしがなかったが、小兵太は三郎のことを弟のように可愛がっていた。誠之進とはまた違った意味で、三郎のことを大切に思っている。




 渓流には雪解け水が豊富に流れていた。近くの水車小屋ががったんがったんと規則正しくのどかな音をたてている。流れの緩い淵に場所を定め、小兵太は釣り糸を垂らしていた。

 誠之進が草を踏みしめて近付くと、小兵太はすぐに気配に気づき、肩ごしに振り返った。
「よお…」
小兵太は片頬で笑って挨拶すると、再び淵に視線を落した。
誠之進は黙って隣の岩に腰かけた。

「如何じゃ?今日は」
脇に置いた竹駕篭をのぞきこみ、誠之進が尋ねた。
「まあまあだな。結構でかいのがかかった」
「…おお、うまそうな岩魚だな」
「おまえにはやらぬぞ。今日は客が来るのだ」
「魚目当てに来たわけではない…」
誠之進は軽い笑い声をたてた。

 少し離れた場所に腰を降ろしたまま、誠之進はしばらく無言で川面を見つめていた。さらさらと流れる渓流の音が耳に心地よい。

「何だ。俺に用があって来たのだろう?」
「…ああ」
普段、ざっくばらんな付き合いをしている、いわば悪友同士である。
なかなか話を切り出さない誠之進を小兵太が訝しげに見やった。
 
「何でえ。言ってみろや」
「…うむ。実はな…」

 膝の上で両手を組んで、再び誠之進は口ごもった。我ながら、ここまで歯切れの悪いことも珍しい。今日は、小兵太に三郎とのことを打ち明けるつもりできた。だが、いざとなると照れてしまって、口が重いこと此の上ないのだった。

「…どこぞの娘でも孕ませたか?」

「ば、ばかな…!…女子の話ではないわ!」

 うろたえる誠之進を小兵太が面白そうに見つめている。

「では、とうとう、三郎と契ったか?」

「うっ…」

 いきなり喉元に突きを入れられた気分だった。やはりこの男には見破られていたのか…。口惜しいが、説明する手間が省けたのは有り難いかもしれぬ。誠之進は苦笑しながら、ほっと肩の力を抜いた。

「…まだ、枕は交わしておらぬが…恋仲にはなった」
「それはそれは…」
小兵太は喉の奥で笑いながら、誠之進のほうに向き直った。

「驚かぬのだな…」
「ふん…、おぬしらを長年側で見ておれば…。何となく予感はあったさ」
誠之進は思わず言葉に詰まった。小兵太は軽く鼻を鳴らして続ける。
「…しかし、おぬし、よく打ち明けたな」
「……」
憮然とする誠之進に、小兵太が誠之進の声色を使って応えた。
「…臣下の分際で恐れおおいことよ…、我が子のようにお育てした若君と契りたいなど不届き千万…」
「小兵太!」
「などど、どうせ、うじうじ悩んでいたのであろう?」

 図星である。やはり伊達に二十年も友をやっているわけではない。悔しげに寄せていた誠之進の眉がふっと弛んだ。つられるように、小兵太も破顔した。

「…何はともあれ、めでたしめでたし。おぬし、相惚れになったのは、これが初めてであろう?」
「…い、いかにも」
「良い歳をして…初々しいことだな」
「何とでも言え…」
二人は顔を見合わせておおらかな笑い声をたてた。

 小兵太は二人の仲に反対ではないらしい。もっと驚かれるかと思っていたが、拍子抜けするほどあっさり受け止めてくれた。まずはひとり、理解者を得た。誠之進は胸の奥から大きく息を吐き出した。

「ふふ、三郎ならもしやいけると思うたか?」
「…そ、それは…。慕ってくださっているのはわかっていたが…」
「おぬしはいざとなると慎重というか、臆病だからな…」
「わ、わかったような口をきくな!」
「ははは、まあ三郎が積極的でよかったな。藩校に入った頃には、すでにおまえのこと潤んだ目で見ていやがった…」

 「なに、それは真か…?」
嬉しそうに驚いてみせる誠之進を、小兵太はあきれ顔で見つめた。
「…なんじゃ、その面は」

 誠之進は思わず口元を引き締めたが、
「城下の女子たちから熱い視線を浴びても、涼しい顔して眉ひとつ動かさず、あっちこっち袖にしてきたくせになあ…それがまあ、情けのう目尻を下げて…。えらい変わりようじゃ」
「うっ…小兵太、そ、その儀は三郎ぎみには…」

 小兵太には過去のあれやこれやをあまねく知られている。誠之進は自分から熱心に動いたことは一度もなかったが、文をもらったり誘われたことは数知れず。だが、武家の素人娘とは深い仲にならぬよう気をつけていた。

 枕を交わすのは玄人のみ。しかも、初めての相手、桔梗屋のさぎりと江戸へいくまでずっと続いていた。遊里へ足を運びながらも、長年相手をひとりと決めているあたりが、律儀といえば律儀である。

 とはいえ、誠之進がさぎりに執心したのは、当時秘かに想っていた相手に、さぎりがよく似ていたからだった。このことは小兵太にも打ち明けていない。

 そういえば一時、後家さんに言い寄られて頭を抱えたことがあった。タイミング良く江戸詰めが決まり、小兵太に押し付けてとんずらした過去もある。

「まあまあ、…おぬし、この俺様に、何かと借りがあること。忘れねばそれでよいのよ…」
ふふんと鼻を鳴らす小兵太に、誠之進は一言もなくうなだれた。
 
「確かにおぬしには世話になってばかりじゃ」
苦笑する誠之進の横で、
「お、きたきたきた!」
びくびくと力強く糸をひく手ごたえに、小兵太が無邪気な叫び声をあげた。

 勢い良く引き揚げた糸の先で、体長七寸ほどの岩魚が針をもぎとらんばかりに暴れていた。小兵太は逃がさぬよう慎重に針を外し、駕篭の中へ魚を落した。

 
 誠之進はその様子をじっと眺めていたが、
「小兵太、世話になりついでに、もう一つ頼まれてくれぬか?」
一転して真剣な声音で切り出した。
 
「おう、何でも言ってもみろ」
「おぬし、正式に三郎ぎみに仕えぬか?」
「…それは?」
「馬廻り、七十石取りでどうだ?」
小兵太はひゅうと口笛を鳴らした。
「…破格の待遇だな?いったい何故だ?」

 誠之進は慎重に言葉を選びながら、現在三郎の置かれている立場を小兵太に話した。父・主膳を含め、大半の重臣は、三郎が元服したら大名家に養子に出すつもりでいたこと。お牧の方の指示で、江戸藩邸も去年の暮れあたりから養子先を物色し始めていること。

 お牧の方は一日も早く目障りな三郎を藩外に出してしまいたい。

 普通なら側室の子にそこまで目くじらをたてるものではない。御正室といえども、三十過ぎれば「お褥御辞退」といい、夫とは閨を共にしなくなる。その際、自分の侍女などを代わりに側室にと薦めるのが慣例であった。

 しかし、三郎の母・おひろは信輝公が国許で見初めた娘だった。お牧の方のまったく預かりしらぬところで、それも町人の娘を御国御前に迎えたと聞いた日には、お方様の面子は丸つぶれ、いたく矜持を傷つけられたらしい。

 一時は毒殺の噂が流れたほど、お牧の方のおひろに対する敵意は根深いものだった。

 三郎に対しては、敵意を抱くというほどではないが、将来、万が一にもおひろの息子に家督がいかぬよう、できるだけ遠くへやってしまいたい、他家へ養子にやるのが一番安心というわけだろう。

 だが、三郎は大名になどならずともよい、僅かな石高でも分家が許されれば、領内に留まって暮らしたいのだ。誠之進は三郎の希望を叶えてやりたい。そのために周囲を説得していく決心をしたと小兵太に告げた。

 誠之進は誰とも事を構える気はない。父の意向には添えなくなったものの、できるだけ穏便に分家をたてる許しを得たいと考えている。それには重臣の中に味方を作ることが先決だ。だが、万一に備えて屋敷内は信用のおけるもので固めておく必要がある。

 警護の数を増やすことよりも、厳選した人間を側に置きたい。そういう意味で、誠之進は倫太郎を警護の若党として雇い、小兵太にも白羽の矢をたてた。


「なるほどな…」
話を聞き終えた小兵太が真顔になって呟いた。
「せっかく想いが通じて浮かれてるのかと思えば…。前途多難だな…気の毒なこった」
誠之進は苦笑した。
「…ある意味、父上を説得するのが、最も難しいやもしれぬ」

 小兵太はゆっくりうなずくと、顔をひきしめて低く呟いた。
「俺はな、誠之進。城中の権力争いのことはわからねえし、関わりたくもねえが…俺は三郎が好きだ。三郎のことを守ってやりてえと思う。だから、馬廻りの話、引き受けたぜ」
「すまぬな、小兵太。恩に着る…」
深々と頭を下げた誠之進に、
「よせやい、気色の悪い…」
小兵太はぶっきらぼうに言い捨てると、釣り竿をしまい、竹駕篭を持って立ち上がった。

「さてと、じゃあ俺は帰るぜ」
「あいわかった。…で、小兵太、なるべく早い時期に、西の丸の長屋へ越してきてほしいのだが…差し支えないか?」
「どうせしがない部屋住みの身だ。役がついて独立すれば兄夫婦も喜ぶだろう」
「それならよいが…」
「大した荷物もないゆえ、一両日中にはそちらへ参る。よく掃除しておいてくれ」
「心得た」
二人は目を見交わしてうなずきあった。

 明るい笑い声をたて、後ろ手に手を振って去っていく小兵太を、誠之進はしみじみと感謝を込めて見送った。


つづく


 
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