十四の巻「春雷」2



by 戸田采女


「おい、聞いたか? 夕べ、勘定方のお侍が夜道でばっさりだとよ」
「ひえ〜。やっぱり金目当ての辻斬りかい?」
「いや、どうもそういうんじゃなさそうだ」
「なら、喧嘩かい? おさむれえは皆、『御借上』でかりかり来てっからな…、おいらたちも言い掛かりつけられねえよう気をつけようぜ…」
「ああ、まったくだ」
「くわばらくわばら…」




 葉桜の新緑が目に眩しい季節となった。
昼前、所用で薬問屋へ出向いた誠之進は、店を出たところで大工の二人連れとすれ違った。

 聞こえてきた噂話しに、思わず歩が止まった。

 右近や松之助の兄、筧真之介など、勘定方には知り合いの多い誠之進だ。まさかとは思ったが、一瞬ひやりとした。もっとも、二人が襲われたのなら、今頃とっくに誠之進の耳に入っているだろうが。

 城へ戻ったら、勘定方の御帳部屋に顔を出して事情を聞いておこう…。

 誠之進は大工たちの後ろ姿を見送ると、足早に城への道を急いだ。




 丁度その頃、勘定吟味役・櫻田右近は上席家老・溝口主膳の御用部屋に呼ばれていた。

 横領と帳簿の改ざんで右近が目をつけていた下級官吏・田村蓑助が、夜道で何者かに襲われた。匕首で心の臓をひと突き。即死であった。

 右近配下の草の者の報告では、田村は次席家老・内藤帯刀の屋敷に出向いた帰り道、武家地の外れでやられたらしい。内藤邸から目付きの鋭い町人があとをつけていたという。

「おそらくはその町人、忍びの者か刺客でしょう…。私も明け方知らせを受けて死体を検分しましたが、とても素人の仕業とは思えぬ、鮮やかな手口で…」

 白皙の美貌に淡い疲れを滲ませながら、右近は淡々と語った。

「その田村某とやら、斯様な夜更けに何用あって内藤邸へ…」
上座に端座した主膳が低く呟いた。
「…その儀なら、配下の者から報告が入っております」
「なに?」
「…愚かな男です。どうやら内藤殿を強請っていたようにござります」
「強請るとは…いったい?」
「…お耳を」

 右近は許しを得て主膳の側へにじり寄り、耳元にふたことみこと囁いた。

「何と…?!」
 
 濃い一文字眉の下、主膳はこぼれんばかりに目を見開いた。

「御家老、田村を泳がせておいたのは正解でしたな…。藩金流用のみならず、抜け荷の件まで…これで一気に核心に迫れるかと…」
「でかしたぞ、右近。あとひと押しだな」
「仰せの通りにござります」
「運上金制度の草案といい、内藤の件といい…御事の働きには感心するばかりじゃ。殿にも私からよく申し上げておく…」

 しかし、満足気にうなずく主膳を前に、右近はうつむき加減で眉根を寄せた。
「御家老…まだ最後の詰めが残っております。田村のおかげで使途不明金の行方は判明しましたが、田村が亡き者とされた今、もはや生証人がおりませぬ」
「…それはそうだが。いざとなれば廻船問屋の番頭でもひっくくって吐かせればよいではないか」
冗談とも本気ともつかない調子で主膳が笑った。
「御家老…」
「……潔癖じゃの、御事は」
右近の心中を見透かし、主膳は愉快そうに笑っていたが、
「御事のような頼りになる味方を得たのは良いが…」
やがて瞳を曇らせて呟いた。
「…如何なされました?」

 主膳は溜息まじりに首を横に振った。
「…誠之進じゃ。あれはいったい、何を考えているのやら…」
「御家老…」
「これでは、何のために誠之進を三郎ぎみの守役につけたか、わからぬではないか…」
「誠之進が如何…いたしましたか?」
右近は声が震えそうになるのを、丹田に力を込めて耐えた。
「…某の誤算であったやもしれぬ。誠之進のやつ…三郎ぎみに情が移り過ぎたのじゃ。…分家だなどと言い始めおって…」
主膳が苦しげに息を吐いた。

 右近は髪の先までこわばらせ、緊張した面持ちで主膳の次の言葉をまっていた。


***


 昼時、勘定方の御帳部屋に顔を出した誠之進は、三郎の友人、筧松之助の兄、筧真之介の姿を見つけて声をかけた。右近は不在のようだったが、ともかく二人の無事を確認して誠之進は安堵した。二人は部屋の一角で膝を突き合わせて話を始めた。

「なんと…城下でもう噂になっているのですね…」
「うむ…。最近はどうも物騒でかなわぬ、と町人どもがこぼしておった。それほど近頃は事件が多いのか?」
「ええ、斬り合いにまでは至らなくとも、ちょとした諍い事は増えているようで…」
「やはり皆、『御借上』で生活苦から気が立っておるのか…」
「情けない話ですが、借金の踏み倒しも増えているようです…」
誠之進は大きな溜息をついた。
「…武士といえども、食わねば生きていけませぬから」
「やりきれんな…」
「恥ずかしながら、我が家でも印形彫りの内職を始めました。松之助のやつが結構器用で」
真之介は苦笑した。

「おっ、右近様が戻られたようだ」
朋輩の声に、真之介が御帳部屋の入り口を見遣った。
誠之進も右近の姿を目で探したが、
「…誠之進、来ておったのか?」
右近のほうが先に誠之進を見つけて声をかけた。
「おお、右近。夕べの事件が耳に入ってな。気になって寄ってみたのだ」
「ああ、田村の件か…」
「もっとも、本来の用件はこちらだったのだが…」
誠之進は懐から薬問屋の包みを取り出し、右近の前に差し出した。

「これは…?」
受け取りながら右近が尋ねた。
「近頃、人参(朝鮮人参のこと)など唐薬が、求めやすい値で出回っていると聞いたのでな。薬問屋によってみたのだ」
「…もしや、母上にか?」
上目使いに問う右近に、
「決まっておる。これからも時々届けさせるゆえ…」
誠之進は清清しい笑みでうなずいた。

 右近の母はもともと蒲柳の質で、体調のすぐれぬことが多かったが、この冬あたりから特に身体が弱り、最近では床から起きあがれぬ日も増えていた。

 右近はじっと紙包みに視線を落していたが、
「かたじけない…ありがたく頂戴する」
押し頂くようにして、包みを懐へしまった。

「誠之進…」
「ん?」
「貴公も御用繁多の様子だが、できれば一度、母上を見舞ってやってくれぬか?」
けぶる睫を伏せて、右近が遠慮がちに尋ねた。
「もちろんだ、近日中に一度伺おうと思っていたところだ」
「そうか…かたじけない。母上も喜ぶ…」
右近が目を細めて嬉しそうに微笑んだ。

 久しぶりに見る右近の、桜花のごとき笑みだった。

 年始の挨拶にいったきり、二人はお互い日々の御用に追われ、この冬はゆっくり語り合う時間もなかった。櫻田家の老僕・池田孫作から、右近の家の様子は時々誠之進の耳に入っていたものの、なかなか時間を作って会いにいくことができなかった。

 正直、三郎と想いを打ち明けあってからは、他のことが見えなくなっていた。病気の母を案じながら、吟味役としての激務をこなす友を前にして、そんな自分が後ろめたく思える。

 此度の『半知御借上』は、むしろ高禄の家ほど辛い一面がある。俸禄でいうと右近の家は上の下。江戸詰めの頃、側用人稚児小姓頭三百石取り、現在は勘定吟味役として七百石の俸禄を得ている。父親の代よりはかなり裕福になっていたが、この五年間でニ人の姉を嫁がせ、蓄えは底をついた。一方、家格が上がった分、その体面を保つための奉行人の数、交際費など諸経費は増加している。突然、俸禄を半分に減らされても、いきなり生活の質を落すわけにはいかない。体面が保てぬからである。そんな中、病人に高価な人参を続けて飲ませるのは、かなりの経済的負担であった。

 誠之進の家は家老の父の知行・俸禄に加え、誠之進個人も守役として破格の俸給をもらっている。その点かなり余裕があった。三郎も成長し、世話に手のかからなくなった今、それがかえって心苦しい誠之進だった。せめて人参くらい届けさせてくれ、と、誠之進は心の中で右近に頭を下げた。

 機密事項なので詳しい話は聞かされていないが、右近は主膳の命を受けて、極秘に内藤帯刀の身辺を調査している。常に神経を張り詰めているせいか、最近、どうも面やつれしたように見えてならない。
 
「右近…、ちと疲れているように見えるが、貴公のほうこそ大丈夫なのか?」
「ああ。運上金の件で、ここ数週間徹夜の日もあったからな…。もう一段落したゆえ、心配には及ばぬ」
「無理をするな、と言いたいところだが…そうもいかぬのだな」
「…そういうことだ」
右近が溜息まじりに苦笑した。
「田村の件で、ここ数日は落ち着かぬが、来週にでもぜひ貴公を我が家に招待したい…。また遣いをやるゆえ…」
「あいわかった。楽しみに待っているぞ」

 誠之進はうなずいて御帳部屋を辞去した。


***


 数日後、誠之進は右近の招きを受け、櫻田家を訪なった。

 恋仲になったとはいえ、三郎が誠之進の主であることに変わりない。午後、誠之進は藩校から戻った三郎に、外出の許しを得るべく居室へ赴いた。右近の母を見舞いたいと申し出たとき、上座に座る三郎は一瞬複雑な表情を見せた。

 「母御の見舞いなら、昼間行けばよいではないか…」
「…ゆるりと話ができるのは久方ぶりゆえ、夕餉に招かれております。…お許しいただけるものと思うて、櫻田家の用人に返答してしまいましたが…」
「誰も行くなとは申しておらぬ…」
「若…?」
「もうよい。そなたの好きにするがよい…」

 それきり三郎は脇息に肘を預けたまま、ぷいと横を向いて黙りこんでしまった。

 約束の時間も迫っていた。誠之進は後ろ髪をひかれつつも、三郎の居室を辞し西の丸を後にした。




 一月に年始の挨拶に訪れて以来、櫻田家に足を運ぶのは二ヶ月ぶりだった。訪ないを告げると、用人の池田孫作が満面の笑みで出迎えた。

「誠之進様、ようお越しくださりました!」
「孫作、元気そうじゃの」
「はい、お陰さまで…」
にこやかに挨拶を交わしながら、誠之進は小さな異変に気がついた。

「孫作、『しろ』の姿が見えんようだが?」
「…実は、先月みまかりましてござります」
「何と…それは知らなんだ…」

 『しろ』とは右近が十代の頃拾って、以来ずっと屋敷で飼っていた犬だ。いつもなら誠之進が訪なうと必ず迎えに出てきたのだ。前回訪問した時にも、あまり活発に動いてはいなかったものの、まさか一月で亡くなるとは思ってもみなかった。

「…大往生でござりました。ある朝、眠るように死んでおりました。もうかなり年でしたゆえ、寒さがこたえたのでありましょう…」
「左様か…。寂しゅうなったな…」

 誠之進は右近と一緒に『しろ』を見つけた日のことを思いだしていた。

 菜の花揺れる土手を二人で歩いていたとき、捨て犬だった『しろ』を見つけた。まだ子犬だったしろを右近が抱き上げ、無邪気に頬擦りしている。

 花の香が匂いたつような十四歳の右近の姿が、誠之進の脳裡に鮮やかに浮んだ。遠い昔の一途な恋の想い出に、つかの間、胸の奥で甘美な痛みが蘇った。




 誠之進が十代の頃から、孫作はすでに右近に「爺や」と呼ばれており、確かもう還暦を超えるどころか喜寿に近い年齢だ。腰も曲らずかくしゃくとしたものだったが、近頃では膝が痛むらしく、歩く姿がどこか頼りなげであった。座敷に誠之進を通すと、奥へ右近を呼びにいった。

「白菊丸さま! 誠之進様がお見えになりましたぞ!」

(泣く子も黙る勘定吟味役をつかまえて、「白菊丸様」とは…。孫作は変わらんのお…)

 奥から二人の会話が洩れ聞こえてくる。

『孫作! 人前でその名で呼ぶなと何度申したらわかるのだ!』
『人前とおっしゃいますが…誠之進様ではござりませぬか。何もそのように照れずとも…』
『照れてなどおらぬ!みっともないから止めろと申しておるのだ!』
『白菊丸さま…』
 
 青菜に塩のような孫作の表情が目に浮ぶ。誠之進は端然と座し、懸命に笑いを堪えていた。

 やがて、右近がくつろいだ紬の着流し姿で座敷に現れた。苦虫を噛み潰したような顔だったが、誠之進の姿を見た途端、華やいだ声をあげた。

「よう来てくれた、誠之進」
「本日は、お招きにあずかり、かたじけのうござる」
吹き出したいのをこらえながら、折り目正しく挨拶する誠之進だった。

 右近は誠之進の向かいに座ると、開口一番、
「先日の人参が効いたらしゅうて…ここ数日、母上はお顔の色もよく、食も進んでおる。貴公のおかげじゃ…かたじけない」
と、丁寧に頭を下げた。
「なんの…お役にたてて嬉しいぞ」
誠之進が破顔すると、右近も柔らかく微笑んだ。
「今宵は母上も夕餉を供にされるそうだ」
「それは何よりだが…お起きになってもよろしいのか? 私への気づかいなら無用だが…」
右近が小さく首をふった。
「今日は今朝からたいそう気分がよいそうだ。貴公に会うのを楽しみにしておられる…」
「それはようござった…」
誠之進の頬に安堵したような笑みが広がった。

「それはそうと、しろのことを…聞いた。残念であったな」
「もう歳であったゆえ…寿命だったのだ」
思わず遠い目をした右近に、誠之進はしみじみと頷いた。




 久方ぶりに見る右近の母・結衣は、病を得ているとはいえ、たおやかで美しく、右近があらためて母親似であることを痛感した。確か歳の頃は、誠之進の母・咲よりひとつふたつ若いくらいと記憶している。

 友人の小兵太が釣ってきたという魚や、孫作が摘んできた山菜の天麩羅を味わいながら、三人は昔話しに花を咲かせた。給仕する孫作が時々話に加わり、右近が子供時代、如何に愛らしかったか、いたずらぶりを嬉々として語る。

 誠之進が今まで知らなかった暴露話も数多くあり、何度も腹がよじれる程笑った。


 食事が終ると結衣は寝所にひきとったが、去り際、右近が席をはずした隙に、誠之進にそっと耳打ちした。

「誠之進様…、右近は…、吟味役などという大層なお役を賜っておりますが、きちんと皆様のお役に立っているのでしょうか?」
「何を仰せかと思えば…。無論です。右近は今や藩にとって欠くべからず人材。父も右近をどれほど頼りにしておることか…」
「まことに…そのような?」
「殿や惣一郎様の信任も篤く、部下からも慕われておりますぞ」
息子を誉められて、結衣は気恥ずかしげな笑みを浮かべた。
「誠之進様…、これからも右近のこと、何卒よろしゅうお頼み申し上げます…」
「何の、世話になっておるのはこちらのほうでござる」
誠之進は瞳を揺らす結衣に、しっかりとうなずいた。

 いつまでたっても母にとっては息子は子供のままなのだろうか…? それとも、右近の先行きに何か不安を感じておられるのだろうか…?

 尋ねてみようかと思ったことろへ、右近が戻ってきた。結衣は柔らかく微笑んで誠之進に目礼すると、静かに寝所へひきとっていった。



つづく



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