十四の巻「春雷」3



by 戸田采女


 座敷に残った誠之進と右近は、ゆったりと茶を喫していた。

 遠くに時の鐘を聞いた。五ッ(午後八時)の鐘だろうか。そろそろ城へ戻ったほうがよい時刻だったが、右近が何となく話し足りないような顔をしている。

 誠之進はもう少し付き合うことにした。

 しばらくの間、右近は運上金や米相場の話をしていたが、それが真に語りたい話ではないことは容易に見てとれた。

(もしや、三郎ぎみ御養子の一件だろうか…)

 誠之進は別の話題であることを祈りながらも、黙って右近が切り出すのを待った。

「ところで…」
茶を飲み終えた右近が、わずかに居ずまいを正した。
「先日、御家老から話を聞いた…」
「父上が何か?」
「…貴公のことを案じておられるぞ」
「案ずるとは?」
「貴公の考えがわからぬと申された…」

 核心をついてこない右近に、誠之進はかすかな苛立ちを覚えた。

「単刀直入に申せ、右近」
期せずして、挑むような口調になってしまった。しまったと思った時には遅く、右近の柳眉がぴくりと引きつっていた。
「…三郎ぎみの、ご養子の件だ」

 誠之進は静かに息を吐き出した。

「貴公、三郎ぎみに分家を起こさせようと考えておるそうだな」
「…いかにも」
「それで御家老とやりあったとか…」
「父上が、貴公にこぼしたのだな」

 右近は直接それには答えず、先を続けた。

「貴公、守役につく時、お父上から因果を含められていたのではないのか?」
「因果とは?」
「どこへ出しても恥ずかしくない立派な若君にお育てし、大名家へ養子にいっていただくと…」

「確かに父上はそういうお考えだった」
「ならば、なぜ今になって分家などと言いはじめるのだ?」

「右近…、では尋ねるが、なぜ分家がそれほど不都合か?」
「お牧の方様がお許しにならぬぞ」
「何も万石の大名にせよとは言っておらぬ。数千石で十分だ。それに…決めるのはお方様ではない、信輝公だ」
「誠之進…」

「無論、惣一郎様にもきちんとお伺いをたてる。惣一郎様はたかが数千石の分家を許さぬほど、狭量なお方ではないだろう…」
それまで低い声音で冷静に語っていた右近が、
「誠之進! 貴公、何もわかっておらぬ!」
たまりかねたように声を荒げた。

 常ならぬ語気の強さに、誠之進は一瞬気押された。
右近は一度大きく息をついて続けた。

「三郎ぎみは……。ご領内におられるだけで騒乱の種となるのだ…」
「何を申すか…無礼だぞ、右近?!」
「いいや、言わせてもらう。今、此の時期、己がどれほど微妙な立場に立っておるか、貴公わからぬのか?!」
「私の…立場?」
「内藤帯刀が、貴公を追い落とそうと虎視眈々、機会をうかがっている」
「左様なことは存じておる…」
「いや、わかっておらぬ!わかっておれば、三郎ぎみ御分家などと呑気なことを言い出すはずがない」
「何だと…」

 三郎に対する、右近の情け容赦のない物言い─。誠之進はわき上がる不快感を隠そうとしなかった。二人の間の空気が一気に険悪になった。

「藩の機密ということで、これまで貴公には伏せてあったが…。先日、御家老から貴公に話すようにと命じられた」
「父上が…?」
右近は射るような視線でまっすぐに誠之進の目を見た。
「内藤は…藩庫からくすねた金を元手に、廻船問屋と結託して密貿易に乗り出している…」
「そ、それは…まことか?!」
瞠目する誠之進に右近は無言でうなずくと、抑揚のない声で語った。
「千石船が一隻あれば、まっとうな商いでも巨額の富が稼げるものを…。抜け荷でさらにその上をゆこうと言うのだ」
「…つまり、藩の金で勝手に大型船を建造したとでも?」
「いかにも。察しがよいな」

 誠之進は絶句した。
大義名分はどうあれ、藩金の流用である。おそらく私腹をこやすだけが目的ではなく、いずれ藩の役に立てようという意図なのかもしれぬが…。発覚すれば罪に問われるは必定。

 だが、抜け荷そのものを、一刀両断のもとに非とすることが、誠之進にはできなかった。

 元服後、すぐに江戸へ出た右近と誠之進は、田沼時代の自由な空気に触れ、蘭学を志す者たちとも若干の交流があった。おおっぴらに語れる話題ではなかったが、ふたりとも鎖国の意義を疑問視し始めていた。国禁を犯す抜け荷を奨励することはできないが、自分にはない発想の大胆さに、誠之進は内心舌をまいていた。

 右近は淡々と続けた。
「私が吟味役につく以前の五年間、内藤が横領した額は総額三万両を超える。その一部で千石船を二、三隻造ったようだ。それを中堅の廻船問屋『島崎屋』に貸し与え、商いを任せているとか…。もちろん、この千石船、わが藩に届けは出ておらぬから、渡海免許は偽造だろう…」
「何と言う男だ…」
「千石船が今まで見つからなかったのは、加賀領内で建造し、冬は大坂で越していたからだという」
「なるほど…考えたものだな」
「大坂にはどうやら島崎屋の蔵まであるそうだ。これも元はと言えば、藩の金で内藤が建てさせたものだろう」
誠之進は絶句した。
「おそらくはその見返りとして、島崎屋の儲けの一部を江戸藩邸…正確に言うと留守居役の岩田善次郎を通して、お牧の方様に送らせている…。奥向きの費用を減らしたにも拘わらず、お方様がぜいたくをできるのは、斯様なわけだ…」

「だが何故、国許が御借上で困窮しておる今、江戸藩邸の浪費に拍車をかけるようなことを…」
「…そこが問題なのだ。おそらく、内藤はご正室様、惣一郎様に取り入ろうとする一方で、意図的に国許での江戸藩邸・奥の評判を落そうとしている…」

 「何故、そのようなことをする必要がある」
誠之進が苛立ちを滲ませて問うと、右近は小さな溜息をついた。
「財力をつけた内藤が、次に狙うのは何だと思う…?」
「……」
「貴公の失脚だ」
「私の…?」
「帯刀にとって、数年後に隠居する主膳どのはもはや敵ではない。その後を襲う貴公に狙いを定めておる。 己の藩金流用、密貿易が仮に露見しても、それが吹き飛んでしまうほどの醜聞をでっちあげることでな…」
「醜聞…」
心の臓がどくりと音をたてた。

 脳裡に浮んだ愛しい三郎の笑顔。誠之進の背中に冷たい汗が滲んだ。

「金と権力を両方手中にすることが、あの男の人生をかけた夢なのだろう…」
右近が乾いた笑いを洩らした。
「右近…」
誠之進は返す言葉がなかった。

「貴公が三郎ぎみに分家などと申せば、すぐにもその話に喰らいついてくるぞ。たとえば、こんな噂を流す…。『分家などほんの手始め。真の目的は藩主の座。守役どのと三郎ぎみが手を組んで家督を狙っている…』」

「たわけたことを……。そのような嘘偽り、誰が信じるというのか?! 我らを愚弄するにも程がある!」

 親友の口から斯様な言葉を聞かされるとは思ってもみなかった。誠之進の動悸が激しくなる。

「さて…どうかな。持っていき方次第では、ひょうたんから駒にもなるのだ…」
「どういう意味だ…」
「国許の皆が御借上で困窮している中、わざと江戸藩邸の浪費ぶりを吹聴する…。お牧の方様や惣一郎様は反感を買い、一方でもともと国許の中・下級藩士に好かれている、三郎ぎみの株は嫌でも上がる…」
「右近…」
「誰かが三郎ぎみが藩主だったら…などと言い出してみろ。一気に火がつくぞ」
「江戸藩邸に不満を抱く藩士たちが、三郎ぎみを担ぎ出し、惣一郎様の廃嫡を要求するとでもいうのか?!」
「百姓一揆と同じだ。皆、安定した暮らしができるからこそ、御家を大事にする。だが今年の作柄いかんで、御借上が万一来年も続いたらどうなる?」
「…右近」
「人間食いつめれば何を言い出すかわからぬぞ…」
右近は乾いた笑いを洩らし、
「貴公は育ちが良すぎるのだ。所詮、下々の者の心情などわかるまい…」
突き放したように言いきった。
「中・下級藩士が『三郎ぎみ擁立』に動いた場合、貴公がこれを押えきれねば、連座の罪を問われて失脚するぞ…」
誠之進は声もなく、淡々と語る右近を凝視した。

「そうやって、騒動の火をつけておきながら、自分は惣一郎様支持にまわり、嫡子相続を主張する気ではないか? いかに次、三男が聡明であろうと、古来、御家騒動は正当な世嗣の側に立ったものの勝ちと決まっておる」
右近は『正当な世嗣』という言葉をことさら強調した。そこに、三郎を軽んじる意図を感じた。誠之進はもはや不快を通り越して、憤りすら覚えていた。

 誠之進の心の動きを見透かしたように、右近は軽い溜息をついた。
「あるいは下級藩士たちが動かなかった場合、こんな筋書きもある…。まことに落ちた話だが…」
「落ちた…話?」
「口にするのも穢らわしいが…、たとえば、三郎ぎみと貴公が「割りない仲」になっており、若君の色香に迷った貴公が嫡男・惣一郎様を排し、三郎ぎみ擁立を企てる。もしくは妾腹の三男が、家老の嫡男を色仕掛けでたらしこみ…」

「…それ以上、世迷い言を並べたら…たとえ貴公でも許さぬぞ!」

 夜叉のように面をひきつらせ、誠之進は脇差の鍔に手をかけていた。三郎を侮辱されたことで誠之進の怒りは頂点に達していた。

 右近は微動だにしない。誠之進の烈火のごとき視線を、正面から受け止めた。

「…世迷い言と申したな…誠之進」
「いかにも…」
「その言葉…忘れてくれるな」
「右近…」

 漆黒の濡れた眸が誠之進を見つめていた。

「下劣なことを申してすまなんだ…。だが、わかってくれ。内藤帯刀はこれくらいのことは平気でやってのける。三郎ぎみと貴公に御家騒動を企てた罪をきせ、あわよくばふたりとも葬るつもりだ。奴は今、騒乱の種を着々と捲いている…」
「なぜ…そこまでされねばならぬ。私には理由がわからぬ…。それほど私を蹴落として筆頭家老になりたいのか…」
誠之進は呆然と溜息をついた。

 不思議なことに右近がふっと目元を和ませた。
「貴公らしいな…」
「…苦労知らずの呑気な男だといいたいのだな」
「そうではない…」

 何だろう…。闇色の眸の奥から、訴えかけるような光りが自分に向けられていた。その正体を探ろうと目を合わせた瞬間、右近はゆっくりと眸を閉ざしてしまった。


「ともかく…食うか食われるかの政争をしかけられていること、いま少し自覚を持ってくれ。御家老も私も、斯様なことで貴公を失いたくはないのだ」
「右近…」
「誠之進、思いだせ…。そもそも何のために御家老が貴公を三郎ぎみの守役にしたか…」

(わかっている…それはわかっているのだ、右近)

 誠之進は目を閉じて、膝の上の拳を握りしめた。

「…殿の寵愛深い三郎ぎみを、自分の陣営に取り込もうとした内藤を牽制すること。三郎ぎみを立派な若君に御育てして、良縁を見つけ、他国へ御養子に行っていただくこと…さすれば何もかも穏便に事は運ぶ…」

(されど、それでは三郎ぎみと私は…!)

「貴公さえしっかりしておれば、たとえ妙な噂を流されても堂々と否定できる。三郎ぎみは御養子にいき、守役の役目を終えた貴公は家老職をつぐ。…その後ただちに内藤を藩金横領のかどで糾弾する。証拠固めはこの私がきっちりしてみせる。密貿易の件はあえて追求せずとも、横領だけで内藤が切腹申し付けられるのは間違いない…」

 熱っぽく語る右近を前に、誠之進はただじっと目を伏せて端座していた。

「誠之進、筆頭家老に相応しいのはやはり貴公なのだ…。いかに内藤が金儲けに精を出し、一時的に藩庫をうるおしたとしても、奴のやり方は強引すぎる。いずれ、幕府の目にとまり、わが藩も追求を免れぬ仕儀となろう…。このまま放置しておくわけにはいかぬ」

 楽の音のような右近の声を、誠之進はどこか遠くで聞いていた。

 誠之進が何も答えずにいると、右近がたまりかねたように誠之進の正面ににじり寄った。

「貴公は次の執政となり藩の柱となる人間だ。その日のために、私も今こうして懸命に働いておる。今、三郎ぎみの件で、情に流されて軽はずみな行動をとってもらっては困るのだ。内藤につけいる隙を与えてはならぬ。わかってくれ、誠之進…」

 幼子に言い聞かせるような優しい声音だった。
案ずるような瞳で残酷な言葉を次々と繰り出す友を、誠之進は茫洋とした眼差しで見つめた。

「ならば…、右近。三郎ぎみの幸せは? 三郎ぎみのご意志はいったいどうなるのだ?」

「誠之進…。三郎ぎみお一人の幸せを云々していては、この高山藩十一万石はたちゆかぬ」

「それは…あまりにむごい…」

「まことにお気の毒だが、貴公がどう庇ってみても、三郎ぎみの存在は内藤のような輩に利用される運命なのだ…」

「右近…!」

「誠之進。人にはそれぞれ生まれついた役回りがある。三郎ぎみには、三郎ぎみのお役目を果たしていただきたい…。藩の安泰のため、ここはおとなしく養子にいかれるべきだ。どうしても領内に留まりたいなら…」
「留まりたいなら…?」
「家督を狙う意志のないことを形で示されるべきだ。たとえば、御出家でもなさることだな…」


 誠之進は首を垂れたままひとこともなかった。


つづく



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