十四の巻「春雷」4



by 戸田采女


 右近の屋敷から戻ったのは四ッ(午後十時)に近かった。

 誠之進はその足で三郎の居室を訪なう。三郎が床につく前に一目顔を見たかった。

「三郎ぎみ、ただいま戻りました…」
声をかけて入室し、襖をたてた。
三郎は書見台に目を落したまま、
「うむ…」
気のない返事をする。わざと顔を合わそうとしない。

 不機嫌の理由はわかっている。
「…遅くまで書見に励んでおられますな。何をお読みですか?」
誠之進は普段通りの口調で声をかけたが、やはり応えはない。

 書見台の前に正座したまま、三郎は微動だにしなかった。意地っ張りな横顔が愛らしくて、誠之進は思わず目の奥で笑った。何となく気配を察したのか、三郎がふっと目を上げた。
 身体の向きは変えずに、首だけ誠之進のほうへ振り向けた。

「…いかがであった? 右近の母の具合は…」
やはり櫻田家訪問がひかかっているのだ。どんな話をしてきたか、知りたくてたまらないくせに、自分からは聞けずにいる。
「先日差し上げた人参が効きましたようで…。すこぶるお顔の色も良く、夕餉の箸も進まれた御様子…」
「それは何より…。そなたも安堵いたしたであろう?」
「はい…」
微笑む誠之進に、三郎もようやく口元を綻ばせた。


「若…、少しお庭を歩きませぬか?」
「…それは構わぬが」
こんな時刻に?と黒目がちの瞳が問いかけた。
「今宵は月が明るうごさいます。夜桜もそろそろ見納めかと思いますれば…」
「そうだな」
頷いて立ち上がる三郎。
「外は…冷えまするゆえ…」
誠之進は衣桁から羽織りを取って、三郎の背中にそっと着せかけた。

 宿直の者に「少し外の空気を吸ってくる」と告げ、履物と灯りを持ってこさせた。誠之進と三郎は濡れ縁から庭にでて、そぞろに歩き始める。
 
 六年前、三郎を西の丸に迎えた時、新しく造った庭だった。当時植えた桜や楓がしっかりと根を張り、今や庭のあちこちに適度な木陰を作っている。薄に萩、レンギョウなどの低木も数多く植えられ、三郎の母の実家・関川宿の野山を思い起こさせる風情があった。
 桜の季節と前後して開花する、レンギョウの山吹色が夜目にも鮮やかだ。コデマリの白い枝も夜風に優しく揺れていた。

 二人は闇に浮ぶ花姿をめでながら、提灯片手に延石の小道をゆっくりと歩く。やがて池のほとりにある藤棚に辿り着いた。

 提灯をつるし、縁台の上の並んで腰を降ろす。

 十六夜の月が庭を皓々と照らしていた。こうして三郎と二人で、月明かりを浴びて眺めれば、見なれたはずの庭も情趣に溢れ、どこか瞑想的な心地すら覚える。

 右近の屋敷で、残酷な現実をつきつけられた誠之進は、心が軽い麻痺状態に陥っていた。今は三日先のことすら考えたくない。目の前の夢幻的な空間に逃げ込んでしまいたかった。




 三郎と共にある幸せ…。ただ、ひたすら慈しみ、守り、愛したい。
もちろん、想いを打ち明けあった今、身体を繋ぎたいという欲求はある。月が満ちるように、三郎が自然とそういう気持になり、遠からず思いを遂げる日が来れば…と思う。

 なれど、二人の純粋にお互いを求めあう心を、政争に利用しようとする者がいる。二人の真摯な想いを土足で踏みにじり、汚物か何かのように衆目に曝そうとする者がいる。

 右近にそれを告げられた時、誠之進は一瞬頭に血がのぼって何も考えられなくなった。

 正月、城中で、内藤帯刀に自分の三郎への忠義を揶揄されたとき、用心せねばと思った。だが、二人が恋仲ではと噂を流し、御家騒動の濡れ衣まで着せて、三郎もろとも誠之進を葬ろうとする策謀が、既に動き始めているとしたら…。

 源蔵や小兵太という理解者を得たものの、始ったばかりの二人の恋は、帯刀によって政争の道具にされてしまうのか?




 ふわりと夜風が吹き抜け、花の香があたりに漂った。
誠之進と三郎は言葉を交わさぬまま、縁台に腰かけて肩を寄せあっていた。

 三郎は誠之進の懊悩を漠然と察したのか…。先程のふくれ面は何処へやら、神妙な顔つきで誠之進の肩にじっと頬を押し当てていた。時折、上目使いに誠之進の顔色を伺う。

 大人びてきたとはいえ、まだまだ三郎は十五歳の子供なのだ。汚い争いに巻き込みたくはない…。

『人にはそれぞれ生まれついた役回りがある…』

 誠之進は右近の言葉を反芻する。
友の諌言は、荊のように誠之進の胸に食い込んだ。

 では、天が私に与えた役回りとは、果たして─?

「誠之進…」
三郎が呟くように呼びかけた。
「何ですか、三郎ぎみ…」
触れあった肩と肩からお互いの温もりが伝わる。それだけのことが、心に暖かく染み渡り、誠之進を幸せな気分にする。

 だが、三郎はいつになく深い瞳の色で問いかけた。
「誠之進…、藩士たちはみな、『御借上』で大変なのだろうか…」
「確かに、一時的に家計は苦しくなりますが、おそらく本年だけの措置となりましょう。若が御心配なさることではありませぬ…」
「なれど、藩校の皆も、どこか以前と様子が違うのだ…。松之助も内職があるからと、授業が終ると早々に帰ってしまうし…」
「…それはちとお寂しいこととは存じますが…しばらくの辛抱です」
「ならよいのだが…」
三郎が小さな溜息をついた。

「誠之進…」
まだ他に気掛かりがあるのだろうか? 三郎は先程より、さらに思いつめた瞳で誠之進を見上げた。
「誠之進、なぜ、国許は斯程に困窮しておるのに…その、江戸表は…」

「…誰が江戸の話を若に?」
声がおのずと低くなる。
たゆたうな幸福感が一瞬にして霧散した。

「だ、誰というわけではないが…皆、噂しておる」
「…藩校でですか?」
三郎はこくりと頷いた。

「若…」
誠之進は苦しげに眉を寄せた。

 なぜ、江戸の話など三郎ぎみの耳に入れるのだ?
正義感の強い三郎ぎみのこと。友人たちが倹約を強いられ、苦しい日々を送っているなか、江戸の浪費ぶりを耳にすれば、何故かと訝り、憤りを感じるのは当然だろう。

 これもまた何者かが使嗾しているのか?

 城中だけでなく、藩校にも敵の手は伸びているのだろうか?

 疑心暗鬼が誠之進を襲う…。


 我らは…家督など望んでおらぬ。

 部屋住みで結構。領地もいらぬ。

 何故、大人しくこの屋敷にいてはならぬのだ?

 何故、我ら二人、放っておいてはくれぬのだ…!



「誠之進…?」

 叫び出したいのを堪え、誠之進は三郎を胸の中に固く抱き込んだ。

 三郎を誰にも傷つけさせまいとするかのように、懐深くくるみこむ。

 だが、その実、誠之進は腕の中の温もりに、縋り付いていた。

 不安なのだ。ひとりでは立っておられぬほど、不安なのだ。

 三郎を守りたい、だが、己の力で守りきれるのだろうか?

 内藤帯刀を敵に回し、父や右近でさえ今回は味方ではない…。



「三郎ぎみ…!」

 誠之進は胸の奥から苦しげに名を呼ぶと、三郎の両肩を掴み、唇を寄せるとうなじをきつく吸った。
「せ、誠之進?!」
三郎の身体に緊張が走る。三郎は両手を弱々しく誠之進の胸に突っ張った。

「お嫌なのですか?」
目の奥を覗き込むようにして問うと、
「…そ、そうではないが…」
眉を下げて泣き出しそうな顔で答える。

 誠之進は今度は意地悪なくらい、やさしく耳元に唇を寄せた。
上下の唇で挟み込むように、耳朶を甘咬みしてやると、閉じた瞼がかすかに震えた。 耳の後ろにしっとりと唇を押しあてたり、くすぐるように耳の中に舌を差し入れてみる。 身体の震えを、三郎は唇を引き結んで懸命に耐えている。 それでも、ふっくらした唇の間から、ときおり堪え切れず甘い息が洩れてくるのを、誠之進は目を細めて見守った。

 何と…かわいらしい。

 誠之進は自分に呆れながらも、他愛ない愛撫のひとつひとつに返ってくる、三郎の初心な反応が愛しくて仕方なかった。

 だが、今ならまだ引き返せるかもしれない。
三郎と深い仲にならずに、このまま淡い恋で終らすことができれば…。むしろそのほうが、三郎を傷つけずに済むのだろうか?

 ここで思い留まれば、二人の関係が白日の元に曝され、断罪されるような日は来ない。

 誠之進の身を心から案じてくれる、父や右近を裏切るような仕儀にも至るまい…。


 なれど─。


 耳への口づけを続けながら、誠之進は左手の指先で三郎の頬を軽く撫でていた。耳朶を離れて、顎の線へと唇を滑らせた。羽毛のように軽く触れると、三郎がおののくように天を仰いだ。

 三郎の唇が誘うように薄く開いた。

 誠之進は吸い寄せられるように己の唇を重ねた。三郎は抗わず、おずおずと誠之進の舌を迎え入れた。幼いながらも必死に舌で応える。愛しさで胸が震えた。


 この愛しい温もりを離したくない。

 初めて想いが通じあった相手なのだ。

 初めて両腕で抱き締めることを許された…。

 手放せるわけがなかった。

 生涯側にいると誓ったのだ。

 側にいるだけではなく、三郎ぎみを幸せにしたい…。

 だが、そのためには闘わねばならぬ。

 私が失脚しては三郎ぎみを守れない。

 私が諦めては、何もかもが終りだ…。



 気持が昂るままに、誠之進は三郎の背をかき抱いた。間をおかずに、三郎も両手で誠之進の背にしがみついた。

 舌をきつく絡め、お互いの熱を感じあう。最初、瞼を固く閉ざしていた三郎が、いつしか口腔をまさぐられる快感に、うっとりするような眼で見つめていた。

 やがて雲かかかり、月が翳っても、二人は藤棚の下、酔いしれたように深い口づけを交わした。

 にわかに風が強くなった。

 枝垂れ桜の枝が音をたてて揺れ、薄紅色の花弁が闇に舞った。


春雷 了




 
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