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卯月に入り、城下にも初夏の爽やかな風が吹き始めた。
藩主三男・三郎信尭の暮らす西の丸の屋敷では、藤が見頃を迎え甘い香りを漂わせている。池の端に添って棚が造られ、藤房が池に映って薄紫の水を流したようであった。
その日、誠之進は茶会と称して、中老の山崎忠実(ただざね)、堀隼人丞の両氏を西の丸に招いた。炉の切ってある母屋の書院で、誠之進はふたりに茶を点ててもてなしていた。
山崎は五人の中老の中では最高齢で、まもなく家督を嫡男に譲って隠居する。一方、堀はまだ三十代で、二年前家督を継いで中老の列に加わった。どちらも結城家が播州にあったころから仕える名家である。
誠之進がふたりを招いたのは、三郎ぎみ分家の儀について意見を聞くためであった。家老・中老の門閥八家の中で、この両家はもともと三郎に好意的だった。
山崎は三郎がまだ赤子で母・おひろとともに城中にいた頃を知っており、やむを得ず実家へ戻されたふたりを不憫に思っていたようだ。堀は江戸詰めの頃、日本橋の書物問屋の娘をみそめて妻に迎えた。そんな意味でも、町人の母を持つ三郎に堀は極めて同情的であった。
ニ服目を所望され、誠之進があらたに茶を点てていると、山崎が人の良い笑みを浮かべながら切り出した。
「誠之進殿…本日我らを招いたは、何か相談ごとがござったのであろう?」
「…お察しの通りにござります」
誠之進は微苦笑を浮かべると、点ておわった茶を正客の席に座る山崎にすすめた。
「…三郎ぎみのお話でござりますか?」
控えめに問いかける堀に誠之進は静かにうなずいた。
「堀様が仰せのように、本日おふた方にお運びいただきましたは、三郎ぎみの行く末につき、御意見を賜りたかった由にござります…」
茶を飲み干した山崎が、茶碗を戻し軽く手をついた。誠之進も片手で受けて応える。
「…何かお考えがあるようじゃな」
「はい…」
「遠慮はいらぬ。申されよ。ここでの話は決して他言いたさぬゆえ…」
「ご配慮、いたみいります」
山崎の言葉に勇気づけられた誠之進は、居ずまいを正して語り始めた。
「ご存知のように、父・主膳は元々、三郎ぎみ元服のあかつきには、他藩の大名家へ養子に行っていただくという考えでした。今もそれは変わっておりませぬ」
山崎、堀の両氏も同意を示した。
「…なれど、三郎ぎみ御自身は、大名になどならなくともよい、生まれ育った故郷で暮らしたいと望んでおられます」
「左様にござりますか…」
納得したように堀がうなずいた。驚きはなかったようだ。
「で、誠之進殿。御事の考えは?」
「…分家を起こさせていただけぬものかと、考えております」
「ご分家か…」
山崎は思案顔で顎をなでさすった。
「やはり、難しゅうござりますか?」
「お牧の方様は当然反対なさるであろう…。こう申してはなんだが、三郎ぎみのことが目障りで仕方ないらしい。…まことに、お心の狭いお方よ…」
山崎は溜息まじりに白髪頭を左右に振った。
「三郎ぎみ御自身は部屋住みでもよいと申されております。領地や石高など、決して多くは望みませぬ。六月に殿がお国入りされたら、早速お願い申し上げようと考えているのですが、何卒、山崎様、堀様の御賛同をいただくわけには参りませぬでしょうか?」
誠之進は熱心にかきくどくと、畳に両手をついて頭を下げた。
「誠之進殿、某も堀殿も、三郎ぎみのご希望は叶えてさしあげたい。なれど、異腹の弟君が御領内に留まる場合、御家騒動の種とならぬよう、きちんとけじめをつけたほうがよい」
「と、申されますと?」
誠之進は面をあげ、山崎をひたと見た。
「部屋住み、つまり『お控え』のままはかえってまずかろう。惣一郎様に万一の事あらば、後を襲う意志ありと誤解されるやもしれぬ」
「私も山崎様の御懸念はもっともかと存じます…」
若い堀も眉を寄せて呟いた。
「…誠之進殿、たとえば、五千石程度の低い石高で、きちんと分家を起こされるが得策かと存じますが」
「私も、その程度の石高が妥当と考えておりました」
誠之進は堀が分家に反対ではないとわかり、とりあえずほっと胸を撫で下ろした。
堀は誠之進にうなずき返すと続けた。
「それと、このお話、惣一郎様にも早めにお伺いをたててはいかがでしょうか? 私も江戸詰めが長うございましたゆえ、惣一郎様の気性も少しは存じております。国許で言われているほど、お母上の言いなりではござりませぬぞ」
「私もその事は考えておりました。世子である惣一郎様が諾とおっしゃれば、他所からの反対は何とか押し切ることもできましょう」
味方を得られたうれしさに、誠之進はつい声が弾むのを押さえられなかった。
「じゃが、誠之進殿。あくまでも…穏便にな。お方様を含めて、焦らず周りを説得していくことじゃ。」
白髪眉の下、いたずらっぽい笑みを浮かべながら山崎が嗜めた。
「幕閣で年々相良侯(田沼意次)の威光が高まる昨今、田安の殿様の力は弱まっているとはいえ…、柳営において、未だわが藩の擁護者であることに変わりない。田安様の妹君であるお牧の方様を、ないがしろにするような行動は慎まねばならぬぞ」
「…仰せの通りにござります」
「それと…御事も気付いておられるだろうが、内藤殿は隙あらば溝口家にとって代わろうと鵜の目鷹の目じゃ。くれぐれも、この件で足下を救われんように」
「肝に命じておきまする」
山崎はすでに内藤帯刀がお牧の方様と結託していることを知らない。それでも忠告をありがたく受け止め、素直に頷く誠之進だった。
「老婆心ながら申し上げますが…」
言おうか言うまいか、迷ったような表情で堀が顔をあげた。
「家督を狙う意志がないこと、江戸藩邸に対しても、国許の藩士たちに対しても、明確に示さねばなりませぬ」
「仰せの通りにござります」
「そういう意味では…いっそ、臣下に下られるというのはいかがです?」
「臣下に…?」
さすがにその可能性は考えてもみなかった。
高山藩でかつて藩主の一族が臣下に下った例はなかったが、加賀前田藩ではそういう前例があったことを思いだした。確か門閥「八家」にひとつに名を列ねているはずだ。
だが藩主の親族ならともかく、三郎は仮にも現藩主直系の男子である。
すぐには何と答えていいものやら…誠之進は言葉に詰まった。
「堀殿はまた思いきったことを申されるの」
出過ぎた事を口にしたかと不安げな堀に、山崎は鷹揚に微笑んだ。
「ともかく誠之進殿。まず殿と、できれば主膳殿を説得されよ。殿が同意なされたなら、我らも助力を惜しまぬゆえ…」
「三郎ぎみの幸せを願う、誠之進殿の真心が伝わるよう、陰ながら祈っておりますぞ」
「あ、ありがたき幸せにござります」
誠之進は感謝に耐えない眸でふたりを交互に見ると、深々と頭を下げた。
*
山崎、堀、両氏との話し合いが、一応の成功を納めたことで、誠之進は胸のつかえがとれた思いだった。ふたりを玄関まで送り、あらためて深く感謝の意を示した。
「それはそうと誠之進殿、一度わが屋敷もお訪ねくだされ」
山崎が去りぎわに誠之進の耳元に囁いた。
「はい、ぜひ一度本日のお礼に参上いたします」
「いやいや、左様なことは気にされずともよい。実はな、柴田藩に嫁いだ妹の娘が、ゆえあってわが屋敷に滞在しておる。慣れぬ土地で知り合いもおらず、退屈しておるのだ。一度話し相手になってやってくれぬか?」
「姪御様…でござりますか?」
「…菖蒲の季節にでも、一度お越しくだされ」
「はい…」
誠之進は門までふたりを見送った。
とりあえず本日の首尾は上々だ。
一度は弱気になった誠之進だが、内藤が妙な手出しをしてくる前に、家督を狙う意志などないことを説き、ひとりでも多く三郎の味方をつくる。そのためには寸暇を惜しんで働くつもりだった。
***
丁度その頃、藩校で三郎は漢籍の授業を受けていた。
最近、三郎は落ち着かない。
御借上が施行されて以来数カ月。藩士の生活の様々な部分に影響が現れ始めていた。家の内職を手伝い、藩校の授業にあまり出てこない友人が増えている。源蔵、松之助、倫太郎以外、みな、三郎に対しても以前ほど親しげに接してくれなくなった。別に三郎を恨んでいるわけではない。つい口をついて出てしまう、藩や江戸表に対する悪口を、皆、三郎に聞かれたくないのだった。
『中庸』の解釈もそぞろに、三郎は授業中ぼんやりと考え事をしていた。左横の列に座る内藤弥一郎が、そんな三郎の様子に気付いて、教授が退出したのを見はからって声をかけた。
「いかがされました? 心ここにあらずという御様子でしたね」
教科書を片付けていた三郎は、ふと声の主を見上げて苦笑した。
「…松下先生には申し訳ないが、どうにも集中できなんだ…」
「何か、お心にかかることでも?」
親身に尋ねる弥一郎に、三郎は真顔になってうなずいた。
「…のう、弥一郎。やはり皆、今は授業どころではないのか?」
御借上のことを指しているのは、弥一郎にもすぐに伝わった。
「確かに…軽輩の者はもちろん、高禄の者それなりに生活が苦しいのでござりましょう」
「皆、あまり私に話しかけてくれぬようになった…。もう藩校へは来ないほうがよいのだろうか…」
「何を仰せになりますか。三郎ぎみはみずから倹約を心掛け、こうして木綿の着物を常からお召しになっておられます…。誰も三郎ぎみのことは恨んでおりませぬゆえ…」
「なれど…」
「私のほうこそ、何やら心苦しい思いでいっぱいです。斯様なときこそ、家老や中老が思いきった手立てを講じて難局を乗り切らねばならぬのに…、父上も何を考えておるのやら…」
「帯刀が…いかがしたのだ?」
はっとする弥一郎。少ししゃべりすぎたことに気付いたようだ。
「いえ、ただ、父も高禄を食んでおりますのに、斯様なときに無策で恥ずかしゅうござります」
「…弥一郎」
「あ、あの、三郎ぎみ、道場へはゆかれませぬのか?」
つい弥一郎と話込んでいると、三郎を待っていたのか、倫太郎と源蔵が頭陀袋をかついで後ろに立っていた。学科の授業は本日全て終ったが、帰りに道場で師範代に稽古をつけてもらう予定だった。
「おお、忘れるところだった。弥一郎ではまたな!」
三郎は急いで帰り仕度を済ませ、倫太郎たちと慌ただしく教室を出ていった。
***
柔らかい笑みを浮かべ、三郎の後ろ姿を見送る弥一郎。背後で奥野ら取り巻きたちが、ひそひそと内緒話をしている。
「弥一郎様は最近おかしいと思わぬか…」
「えらく三郎ぎみに御執心ではないか…」
「…まあ三郎ぎみは、かわいらしいお方ゆえ…わからぬことはないがな」
「あ、おまえ、ついこないだまで『旅籠の倅』とか何とか申しておったくせに!」
「それはそれ!だが、おぬしも何か感じぬか?」
「うむ…確かに近頃、こう妙に…艶が出たというか、お綺麗になられたな」
「そうであろう?!」
弥一郎はかすかに聞こえる噂話に眉を顰め、
「貴公ら、私はしばらく文庫(図書室)に寄って帰るゆえ、待たなくともよいぞ。先に帰っておれ」
そっけなく言い捨てると、ひとり教室を出ていった。
*
源蔵は素振りでこってり絞られ、三郎と倫太郎は小兵太の指導のもと、何本か打ち合った。
倫太郎は今年元服を済ませ、身の丈も小兵太とさしてかわらない。筋力の点ではまだ修行の差が出ているが、さすが「宗道館の麒麟児」の名にふさわしい豪快な剣を遣うようになっていた。
だが、やはり三郎には遠慮があり、特に正式に召し抱えられてからは、本気で打込んでこなくなった。倫太郎は手加減していることを隠そうとしているが、剣を交えている三郎には自ずとわかってしまうのだった。
倫太郎の気持もわかる。三郎は文句も言えず、防具の下でつまらなそうに唇をかんでいた。
道場の入り口で物音がした。
「おお来たか!」
楽しげな小兵太の声に入り口を見遣れば、めずらしく右近が稽古着姿で立っていた。
「おい、おまえたち、悪いが稽古はこれで終りだ」
「右近様と立ち合われるのですか?」
倫太郎が興味津々で尋ねた。
「おう。最近あいつも忙しくて、すっかり身体がなまっちまったんだと」
軽い足音をたて、右近がこちらへやってくる。
「久々に師範代どの直々にご指南いただきたく、まかりこした次第にござる」
右近は晴れやかな笑みを浮かべつつ、軽口をたたいた。
倫太郎、源蔵は右近が目上というだけでなく、いつもあの美貌に気押されるらしい。恐縮した面持ちで一礼すると、そそくさと道場の隅へ退散した。
三郎だけがまだ小兵太の脇に居残っていた。
「ほんじゃいっちょ揉んでやっか」
小兵太は右近の肩をぽんと叩き、仕度を始めた。
面を小脇にかかえ、竹刀をぶらさげた右近が、姿勢を正すと三郎に挨拶した。
「お久しぶりにござります、三郎ぎみ。年始御礼以来にござりますな」
「うむ…」
「増々御壮健の御様子にて、祝着至極に存じます…」
「そなたこそ…、吟味役として昼夜を問わずの働き…噂は私の耳にも入っているぞ」
「恐れおおいことにござります」
堅苦しい挨拶を交わすふたりを、小兵太は目を丸くして眺めていた。
「なんでえ…おまえたち。妙な言葉遣いしやがって?」
「ばかもの。これが普通なのだ。町言葉で若君と話すおまえのほうがどうかしている」
「はいはい、さいですか…」
ぺろりと舌を出す小兵太に、三郎がふっと笑いかけた。三郎はそのまま道場の壁際へと退き、ふたりの対戦を見学することにした。
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普段おちゃらけている小兵太も、対戦相手を前に竹刀を握ると途端に顔が引き締まる。三郎には滅多に見せない、一流の剣客の顔だった。ふたりは真剣な面持ちで相対すと礼を交わした。
三郎は倫太郎、源蔵とともに、壁際に正座して勝負を見守った。
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自分たち次元の違う、気と気のせめぎあい、一瞬の隙をついた技の仕掛けあいに、三郎、倫太郎、源蔵の三人は、ただただ目を見張る思いだった。
十一歳の年齢差は大きく、まだまだ何をやっても誠之進や右近たちに追いつけない。
三郎は悔しげに唇をかんだが、いつの日かと心に期するものもあった。
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三本ほど勝負した後、ふたりは小休止をとった。一間ほど離れて床に座り、面を外して談笑している。
「なんでえ、言うほど稽古不足でもなさそうじゃねえか」
「いや、素振りくらいは屋敷でもしているが、他人と竹刀を交えるのは久方ぶりなのだ」
「誠之進とは時々やってねえのか?」
一瞬、間があいた後、右近がぽつりと答えた。
「…お互い多忙ゆえ、正月以来一度しかゆっくり会えなんだ」
「なんだ、そりゃ残念だったな」
右近は軽い笑い声をたてて、苦笑した。
語り合うふたりの様子を、三郎は壁際からじっと見つめていた。小兵太も右近と十年来の付き合いと聞く。誠之進と小兵太の付き合いとはまたひと味違う。つかず離れずの、気楽な友人関係がふたりの間に見て取れた。
つい好奇心から右近を観察していると、ふとした瞬間目が合ってしまった。
漆黒の眸がまっすぐに三郎を見つめている。
何やら気まずくて、思わず目を逸らしかけたが、それも逃げるようで悔しい。三郎は踏み止まった。五間ほどの距離を挟んで、三郎は右近の視線を真正面から受け止めた。
切れ長の濡れたような瞳の奥に、ちらりと暗い炎がゆらめいた気がした。
「…よろしければ、お相手いたしましょうか?」
丁寧で優しげな声音。
だが、三郎はその中に潜む棘を敏感に察知した。
つづく
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