十五の巻「若紫」2



by 戸田采女


 今まで一度も口にしたことはないが、初めて会ったときから、三郎は右近が苦手だった。

 おぼろげながら、自分が右近に好かれていないような気がした。大好きな誠之進や小兵太の親友だというのに、どこか反りが合わない。麗しく怜悧な右近に興味を覚えながらも、親しみを感じることはできなかった。

 だが、今は三郎なりに答えを出している。右近が自分を嫌うわけは─。


『お相手…いたしましょうか?』

 間違いなく右近から挑まれたのだ。このまま背中を見せるわけにはいかない。

「それはありがたい。今少し、稽古をして帰りたかったゆえ…」

 三郎はふたたび防具と面をつけ、竹刀片手に道場の中央へ歩み寄った。右近も三郎を迎えるように立ち上がる。小兵太は床に座ったまま、右近を物言いたげな眼差しで見上げた。

「小兵太、場所をあけてくれ」
座ったままの小兵太を上から見おろして、右近が抑揚のない声で言った。
「おい…あんまり本気になるなよ」
小兵太は聞こえぬよう小声で囁いたつもりだろうが、
「何をいう、小兵太」
三郎はしっかり聞きつけていた。
面の中から右近を見据えると、
「…手加減は無用じゃ、右近」
「心得ました…」

 ふたりは相対して礼を交わした。




 右近は面をつけなかった。

(おのれ…必要ないとでも言うのか?)

 三郎は面の中で歯がみしていた。

 剣先を交えただけで漂ってくる威圧感。

 『どこからでも打っておいでなされ』と、唇の端に笑みさえ浮かべて言いながら、剣先は三郎の動きを牽制し、まったくつけいる隙を与えない。

 「どうなされました、三郎ぎみ」

 なかなか打って出ない三郎を挑発するかのように、右近が軽く三郎の竹刀を払った。

 軽く払ったように見えたのに、芯にこもった力は強く、三郎は半歩よろめいて前に出た。

(なんと不様な…)

 己に腹をたてた三郎は、丹田に力を込めて再び竹刀を握りしめた。闘争心がむらむらとわき起こる。

「鋭っ!」

 三郎は上段に振りかぶり、思いきって打ちかかった。二度三度、竹刀と竹刀のぶつかる乾いた音が鳴った。

「なかなかお強うござりますな」

 三郎の渾身の打ち込みを、右近は髪の毛一筋乱さず平然と受け止めている。

(一本くらい決めてやらねば、おさまらぬ!)

 頭に血が昇っては負けなのだ。相手の動きをよくみなければ…。いつも誠之進に言われているではないか…。

『攻め崩しもなく打ち込んでいってはなりませぬ。これが真剣だったらどうなります? 身体がいくつ合っても足りませぬぞ』

 わかってはいるが、三郎は右近に負けたくない一心で、つい間合い深く入り込んで、相手の構えを崩さずに無理をして当てにいってしまう。

 鍔ぜり合いの後、一瞬右近の身体がすいっと後ろへ退いたかと思うと、あっという間に胴を抜かれた。

 電光石火の早業だった。倫太郎や源蔵が息をのむ気配がここまで伝わってくる。痛みと口惜しさがじんわりと広がった。

 右近は竹刀を降ろし、中央で礼をするべく待っている。お遊びは終りと言わんばかりの表情に、三郎の怒りが怒髪天をついた。

「まだまだじゃ、右近。もう一番!」
「三郎!今日はもうやめとけ」
明らかに三郎の様子がおかしいのを見てとったのか、小兵太が止めようとした。だが、三郎は歩みよろうとする小兵太を竹刀で制し、
「いや、またとない機会ゆえ、今しばらく付き合ってもらう」
「…君命とあらば、いたしかたありませぬな」

 薄絹をまとったような笑みがかき消え、漆黒の瞳の奥から射るような視線が放たれた。




 半刻(一時間)後、剣術所の道場には、未だに激しい竹刀の音が鳴っていた。

「し、師範代…、止めなくていいんですか?!」
「あ、また面を打たれた…」
倫太郎が見ていられぬとばかりに、顔を背けた。

 小兵太は倫太郎、源蔵とともに入り口近くの壁際に胡座をかき、腕組みしたまま微動だにしない。
「師範代!」
たまりかねた源蔵が小兵太の稽古着の袖をひっぱった。

「三郎が言い出したことだ。気の済むまでやらせてやれ」
「そ、そんなあ…」

 入り口で足音がした。竹刀の音を聞き付けて誰かやってきたのだろうか。源蔵が伸びをして廊下をのぞくと、内藤弥一郎が顔をのぞかせた。

「あ、弥一郎様…」
とっくに帰ったはずなのに、何で今頃こんなところに…と源蔵は訝しげに見た。
「あれは…三郎ぎみか?」
問われるままに、源蔵の満月のような顔がこくりと頷いた。

「弥一郎殿、貴殿も余計な手出しをするなよ」
小兵太はすかさず釘をさし、再び道場中央に視線を戻した。

「鋭っ!」

 気合い声を発して、三郎が上段に振りかぶったところ、右近が腰をわずかに沈めて下から猛烈な突きを食らわせた。

「あ!!」
源蔵が叫んだときには、三郎の身体は吹っ飛び、大きな音をたてて道場の板壁にぶつかっていた。

「三郎ぎみ〜!」
かん高い声をあげて駆け寄る源蔵に、
「源蔵!大騒ぎするな!」
小兵太は一喝し、そのまま立ち上がると右近に向かって声をかけた。

「勝負あったな。…右近、おまえも気が済んだろ」

 さすがに右近の白皙の額にも汗が浮んでいた。壁際でへたりこむ三郎に向かって一礼すると、右近は無言で静かに歩み去っていった。

 べそをかきながら、三郎の面を外してやる源蔵。倫太郎も小手や胴を外すのを手伝う。力尽きた三郎は人形のようにされるがままになっていた。

 小兵太は三郎の前にしゃがみこんだ。

「…よく頑張った」

 前髪のあたりをぽんと叩いてやると、三郎は安心したように微笑み意識を手放した。




 小兵太は三郎をかついで教授控え室まで運ぶと、敷布を出して上に寝かせてやった。倫太郎は誠之進に知らせるべく、城へと走った。

 すぐ戻るからと言って、小兵太はそのまま何処かへいってしまった。三郎の枕元には源蔵と弥一郎が残った。

「無茶をする…」
そっと顔を覗き込むようにして、弥一郎が呟いた。
三郎の唇が動く。水が欲しいらしい。
「源蔵…すまぬが冷たい水を持ってきてくれ」
「は、はい、ただいま!」

 苦しげに浅い息をする三郎。弥一郎は懐から手拭いを取り出すと、額の汗を丁寧に拭いてやる。再び唇がかすかに動き、言葉を紡いだ。

「誠之進…」

 弥一郎は白い頬に哀しげな笑みを浮かべた。

 いつでも、結局頼りにするのは守役どのだけか…。

 そんなことははなから分っていたではないか。あのふたりの中に割って入ることなどできぬ。誰にもそんな芸当はできない…、たとえ右近どのでも。


 屈託のない三郎の明るさが好きだった。初めて城で誠之進と遊ぶ姿をみかけたとき、閉塞感漂う武家の世界に一瞬春風が吹き抜けたのかと思った。
 
 藩校入学時、二つ年下にもかかわらず既に素読吟味に合格していた三郎は、弥一郎と同じ年長組に入った。好奇心が強く、学問にも武芸にも熱心に取り組む姿は、自分が今まで仕方なく付き合ってきた上士の子弟とは大違いだった。

 できるなら友人となりたかった。松之助や倫太郎が羨ましくてならなかった。もっと本音を言えば、手拭いを換えてくれと、申し込みたかった…。

 三郎の唇がふたたび物言いたげに動いた。ふっくらとした桜色の唇…。
再び誠之進の名を呼ぶのだろうか…?

 弥一郎は静かに三郎の上に屈みこんだ。
弥一郎はかすめ取るように、三郎の唇に触れた。
しっとりと柔らかな感触…。夢にまで見た三郎の唇に、弥一郎は酩酊を覚える。
我慢できずに、今度はゆっくりと己の唇を三郎のそれに重ねた。

 いましばらく、このまま目覚めないでほしい…。




「弥一郎どの…」

 背後で低く押さえた声音が聞こえた。弥一郎は凍り付くような思いで三郎から身を離した。

「弥一郎どの、若はまだお目覚めにならぬのですか?」

(見られたのか─?!)

 羞恥で耳まで染めながら、弥一郎は居ずまいを正した。誠之進の顔などまともに見られるわけがない。自分の膝に目線を落したまま、いたたまれぬ思いで座っていると、
「弥一郎様、水を持ってまいりました…、あれ、誠之進様、随分早かったですね!」
ばたばたと廊下をやってきた源蔵に救われた。

(誠之進殿はご覧になったはずだ…。なぜお怒りにならない…?)

 戻ってきた源蔵とともに、誠之進も入室する。先程の源蔵の声で三郎は目覚めたようだった。

「ん…誠之進、来てくれたのか?」
腹に力の入らぬ様子だったが、安堵したような嬉しげな声音に、弥一郎の胸がちくりと痛んだ。

 誠之進は弥一郎と反対側の枕元に歩み寄ると、そっと三郎の額に手をあてた。
「…どこか痛みますか?」
「…ううん」
あれだけ打たれてそんなはずはなかろうが、三郎は小さく首を振った。
「…意地っぱりも程々にしていただかねば…。お倒れになったと聞いて肝を冷やしましたぞ」
優しくたしなめる誠之進を、三郎が見上げて弱々しく微笑んだ。

 これ以上、濃やかな二人の様子を見ているのは辛かった。

(誠之進殿にとって、私ごとき、問題にもならぬのだな…)

「あ、弥一郎…?」
ようやく三郎が弥一郎の存在に気付いて不思議そうに見上げた。
弥一郎を気の毒に思ったのか、源蔵が口を挟んだ。
「…若が倒れたとき、ちょうど近くを通っておられて…、ここまで一緒に運んで下さったのですよ」
「そうか…それはすまなんだ。…無様なところを見せてしもうたの」
苦笑する三郎に、弥一郎は唇の端に笑みを浮かべて小さくかぶりを振った。
「雑作をかけもうした、弥一郎殿」
誠之進も静かに謝意を示した。

(口吸いの一度くらい、見てみぬ振りをしてくれるというわけですか…。大人ですね…誠之進殿)

 弥一郎も丁寧に誠之進に向かって頭を下げた。




「右近のやつ、一体どこへ消えやがった?!」

 小兵太は武芸棟の中を走り回って探したが、控え室にも道場にも姿はない。
「外か?!」
あとは裏の井戸端くらいだろうと、建物の外へ飛び出すと、思ったとおり右近が汗を流していた。人前で膚を見せることを嫌う右近だったが、今日はめずらしく下帯一枚になって頭から水をかぶっている。

 三郎との稽古で右近がさほど汗をかいたとは思えなかった。しかし、右近は執拗なまでに何度も釣瓶を落して水を汲み、派手な音をたてて頭から水をぶちまけた。
 
「右近…」

 右近の一種禊のような行為を、小兵太は五、六間離れた武芸棟の裏口から見つめ続けた。厳しい稽古をつけること自体は、別に悪いことではない。

 だが、三郎を打ち据える時、右近の瞳の奥に禍々しい何かがゆらめいた気がした。小兵太は自分の気のせいであってほしいと願ったが…。

(おまえ、三郎が嫌いなのか?)

 感情にまかせて竹刀を振るった自分を、右近は許せないのだろうか。

 大きな声では言えぬが、誠之進は今、三郎のことしか眼中にないだろう。今まで一番の親友だった右近には、それが癪に触るのだろう。面白くないのはわかる。

 だが、仕方ないではないか…。

 恋の前には友情は色褪せてしまう。気の毒だが、それが現実だ。

 右近は三郎が誠之進を駄目にするとでも思っているのだろうか? 藩庫が空になりそうなこの非常時、藩政に参与する時間を削って、分家の根回しに奔走する誠之進を情けないと思うのだろうか?

 (それは違うぞ…。何も国家老になるだけが誠之進の人生ではなかろうに…。高格の家に生まれながら、惚れた相手のために必死で頭を下げて回る誠之進を、俺は嫌いではないぞ…)

 小兵太の呟きが聞こえたかのように、片膝を地面についた右近が、肩ごしに振り返りかけた。きっちり結い上げた黒髪から水滴が白い頬を伝う。だが、漆黒の瞳は小兵太の姿を映さず、凝と虚空を見つめていた。

 心の闇を覗き込んだかのような表情に、小兵太はかすかな不安を覚えた。


つづく



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