十五の巻「若紫」3



by 戸田采女


 その夜、誠之進は床に入ってもなかなか寝つけなかった。闇の中、天井を凝と見つめながら何度も重い溜息をついた。




 午後、誠之進が所用があって藩校へ向かおうとしていたところ、息を切らして坂を下ってきた倫太郎とはち合わせした。倫太郎は誠之進の顔を見るなり、血相を変えて告げた。

「誠之進様!三郎ぎみが…お倒れになりました!」
「何?!」
「剣術の稽古が激しすぎて…力つきてお倒れになった由にござります」
「お怪我は?!」
咳き込むように尋ねると、
「特にはございませぬ。ただ今、師範代の控え室でお休みになっておられます。早くお迎えに」
「相わかった。私がすぐ向かうゆえ、倫太郎、そなたは乗り物を用意して後から参れ!」
「心得ましてござります」

「待て‥」
走り去ろうとする倫太郎を誠之進は思わず引き止めた。
「いったい、誰と打ち合ったのだ?」
倫太郎が言いにくそうに俯いた。
「う、右近様にござります…」

 誠之進は一瞬息が止まるかと思った。
「…左様か」
重い吐息を吐き出した後も、胸底に不快な澱が沈んで残った。
倫太郎は俯いたまま一礼すると、再び城の方角へと走り去っていった。

 倫太郎の後ろ姿を見送ると、誠之進も反転して藩校への道をひたすら走った。長屋門をくぐり、白砂を蹴散らして校庭を横切る。師範代の吉田小兵太の控え室へ急ぎ、障子戸を開けた。

(三郎ぎみ?!)

 目の前の光景に誠之進は息を飲んだ。
三郎の上にかがみこむようにしていた弥一郎…。
何をしているかわかった瞬間、叫びそうになるのを寸でのところで堪えた。
他人に見られたことで、弥一郎が深く恥じ入っている様子がわかったからだ。

 結局、弥一郎は一度も誠之進の顔をまともに見られず、三郎が目覚めると少し言葉を交わして、静かにその場を後にした。


 誠之進はあえて弥一郎を追求しなかった。
やはり弥一郎は三郎に惹かれていたのだ。恋心押さえ難く、つい唇に触れてしまったのだろう。それを責めるのはあまりにも狭量だ、と誠之進は己に言い聞かせた。

 だが、内藤帯刀との確執がいよいよ深まる中、これ以上、弥一郎を三郎に近付てはならぬと思った。弥一郎には可哀想だが、父・帯刀に利用される恐れがある。何よりも、自分以外のものが三郎に触れるなど断じて許せなかった。

 そして、右近─。

 倫太郎や源蔵から事の顛末は聞いた。

 右近が三郎に「稽古」をつけたそうだが、何やら果たし合いのような空気をはらんでいたという。剣の腕では到底叶わぬ三郎だったが、なかなか音をあげず、執拗に食い下がったらしい。右近も切り上げるタイミングを逸し、むきになって打ち合いを続けてしまったのだろうか…。

 源蔵の言葉が耳に残って離れない。

『右近様は三郎ぎみに何か遺恨でもあるのでしょうか?! いくら三郎ぎみが手加減はいらぬ、とおっしゃっても、あのように情け容赦なく打ち据えるなど…』

 源蔵はほとんどべそをかきながら訴えていた。

 やがて意識が戻った三郎は、誠之進の手から茶碗を受け取ると、
「…まだまだ未熟だな、私は」
気恥ずかしそうに微笑んで、水を飲み干した。

 ひとことも愚痴めいたことは言わなかった。大人しく乗り物に乗って言葉少なに家路についた。

 屋敷へ戻った後、三郎の打ち身の具合を見て誠之進は愕然とする。酷い痣になっている部分に膏薬をはり、晒(さらし)を巻いてやりながら、誠之進は鈍い溜息をついた。源蔵の言葉はあながち誇張ではなかった。




 夜の闇は深かった。あかり取りの小窓からも、今宵は月明かりすらさし込まない。時折、静寂を破る梟の声を遠くに聞きながら、誠之進は瞼を閉じて友の心の内を思った。

 右近…なにゆえ、三郎ぎみに辛くあたるのだ…。

 人間、相性があるとはいえ、三郎ぎみが一体貴公に何をした…?
貴公は今まで、弱い者の味方ではなかったのか? 
なぜ、お立場の弱い三郎ぎみを、そこまで邪魔者扱いするのだ…。

 貴公が三郎ぎみをお守りする側についてくれれば、どれほど心強いか知れぬのに。

 私は…貴公とだけは争いとうはない。
なれど、今日のような事が再びあれば、私は貴公を許すわけにはいかぬ。
右近…、一体何を考えておる…?!



***


  一週間が経った。

 三郎は打ち身もだいぶん治り、元気に藩校へ通っているが、右近のことは一言も口にしようとしなかった。
 誠之進はあれ以来、ずっと右近の行動の意味を考えていた。

 藩校時代、江戸詰めの頃…、いつの日かふたりで藩政を動かすのだと、夢や志を語り合った。右近は着々と出世をとげ、勘定吟味役として既に藩の要職についている。少年時代の夢が現実になる日が、そこまで来ているのだ。

 そんな時期、三郎が原因で誠之進が失脚する羽目になっては堪らない。三郎が誠之進の足枷となっている。三郎さえいなければ、という気持になっているのかもしれない。

 過日、右近の母を見舞ったとき、右近は言葉を尽して誠之進を説得しようとした。三郎には三郎の役目がある。黙って有力な大名家へ養子にいくことで、藩の安泰に貢献するべきだと言った。

 誠之進には家老の嫡男として、次の執政となる自覚を持って行動せよ、御正室の不興を買ってまで、「三郎ぎみ御分家」などという横車は押すなと忠告した。

 右近の言い分は正論だ。正論すぎて返す言葉もない。


 なれど、右近。私は守りたいものを見つけた…。三郎ぎみ御自身が国許に留まりたいというのは真だが、私が…三郎ぎみをご養子に出したくないのだ。一生、この手でお守りしようと心に決めておる。

 幼い頃からお育てした若と恋仲になったなど…。真実を知れば、もともと衆道嫌いの貴公はさぞや軽蔑するであろうな…。

 されど…。人を恋しく思うのに理由も理屈もいらぬ。私は三郎ぎみが愛しい。ただもう、愛しくてたまらない。そして、三郎ぎみも私を…。

 三郎ぎみがおられぬ藩の執政になど、なっても意味がない。

 私は多少の波風が立とうとも、やはり御領内で二人がともにいられる道を探る。

 三郎ぎみ御分家を実現するために、家老の嫡男という、私の立場が役に立つなら存分に利用しよう。だが、もしも家老職を継ぐ身ゆえ、三郎ぎみと共にあることが許されないなら、その時は…。


「…覚悟を決めねばならぬな」

 闘う前からあきらめるのではない。だが、万策尽きたとき、最後に選ぶものが何なのか。誠之進の心は既に決まりつつあった。




 屋敷で共に暮らしているとはいえ、常にまわりには使用人がいて、三郎とふたりきりになる時間は以外に少ない。そんな中、時折、誠之進と目が合うと、以前にも増して濡れたような瞳で一心に見つめてくる。

 誠之進がたじろぐほどまっすぐに、熱っぽい瞳で─。

 果実が熟して自然に落ちるように、その時がまもなくやってくるのを誠之進は予感していた。




 卯月にしては気温が高く、生暖かい夜だった。
夜風にのって、仄かな藤の香が離れの誠之進の居室にまで漂ってくる。

 心地よい甘さではあったが、花の香が誠之進の眠りを妨げた。ならばいっそ、少し庭でも歩こうかと誠之進は夜具から抜け出し、寝所の外へ出た。板の間から木戸を開けて渡り廊下へ出ると、母屋のほうで物音がした。誠之進は木戸の前で一瞬身構えて耳をすませた。

 ひたひたと、密やかな足音が母屋から渡り廊下に向かってやってくる。やがて、三間ほど離れた渡り廊下の端に、ぼんやりと白い寝間着の人影が浮んだ。人影も誠之進に気付いたのか、歩みを止めてじっとこちらを見つめている。

 愛しい者の姿をみとめ、誠之進は優しく声をかけた。
「いかがなされました? 眠れないのですか?」

「そなたこそ…」

 渡り廊下の両端に立ち、ふたりは見つめあったまま微動だにしない。

 三郎が少しだけ歩を詰めた。

「…誠之進」

「何で…ござりましょう?」

「…来ては…いけなかったか?」

「三郎ぎみ…」

「…今宵の宿直(とのい)は…小兵太だ」

 三郎は睫を伏せ、蚊の鳴くような声で呟くと、一目散に誠之進のもとへ駆け寄った。

「誠之進!」

 飛び込んで来るしなやかな身体を、誠之進は両腕で抱きとめた。

(まったく…あなたというお方は!)

 すかさず目の端で庭を見渡し、見回りのいないことを確認すると、誠之進は三郎の手をひいて木戸の内側へと入り戸を閉めた。そのまま、三郎の両手を木戸に押し付けるようにして、唇を深く重ねた。

 舌を差し入れると、三郎はこれまでにない激しさで応えてくる。誠之進の舌を吸い返し、器用に角度を変えて誠之進の唇と戯れた。覚えの速さに内心目を見張っていると、三郎は誠之進の口の端に触れながら、かわいらしくも生意気に呟いた。

「…そなたの真似をしてみただけじゃ」

 三郎の唇の動きが、直に誠之進の肌に伝わった。愛しさと同時に凶暴なうねりが、身体の底からつきあげてきた。

(閨のことなど…本当はよく分ってもいないくせに…。こんな風に私を誘って…)

 夜風に漂う藤の香のように、無邪気な媚態は誠之進の心を甘くくすぐった。

 三郎の身体が柔らかく熱を帯び、露になった両腕が誠之進の首に絡み付いた。誠之進が寝間着に包まれたしなやかな身体を横抱きにすると、三郎が恥ずかしそうに頬を染めた。

「小兵太は…居眠りしておりましたか?」
「ううん…ちゃんと起きておる。…見逃してくれたのだ」
「困った宿直でござりますな…」

『誠之進、また一つ貸しができたな!』
明日の朝、きっとさんざん言われるのだろう、と誠之進は思わず苦笑した。

 恋仲になったにも拘わらず、人目があって夜を共に過ごせない二人を気の毒に思ったのか…。誠之進は友の粋なはからいに感謝した。

 三郎を抱いたまま、板の間から奥の寝所へと歩む。

 夜具の上にそっと三郎を横たえ、行灯の灯芯をわずかに起こした。橙色のほの明るい光が夜具の上を照らす。微妙な明るさはかえって羞恥を煽るのか、闇の中では大胆だった三郎が、途端に身をこわばらせた。

「行灯は…消さぬのか?」
おずおずと尋ねる三郎がおかしくて、ついからかってやりたくなる。
「真っ暗では何も見えませぬゆえ…」
三郎の寝間着の襟に手をかけながら、しれっと呟く誠之進を三郎が呆れたように見上げた。
「そなた……」
ゆったりと襟をくつろげると、誠之進は三郎の上に屈みこんだ。
「慣れているのだな」
今にも肩に口づけようとしたところだった。誠之進の喉がごくりと鳴った。
「三郎ぎみ…私をいくつだと思っておいでです?」
「二十六だ」
「この年になって、初めてのわけがござりませぬ」
「私は……。誰かと『枕を交わす』のは初めてだ…」
「あ、あたりまえです!」

 『枕を交わす』ですと? だ、誰にそんな言葉を教わったのです…? もしや小兵太あたりが余計なことを…?!

 自分が三郎に閨のことをきちんと教えなかったのを棚に上げ、誠之進は三郎に妙な知恵をつけた奴はどこの誰だと憤慨していた。

「…なんだか、不公平だな」
三郎がすねたように呟いた。

 口吸いが酷く上手になったかと思えば…。何を赤子のようなことを申されるのだろう、と誠之進は頭を抱えた。大胆にも誠之進の部屋へ忍んできたくせに、口から出る言葉はまだまだ幼い。

 誠之進は三郎の隣に横臥すると、優しく指先で前髪を梳いてやった。三郎が安心したように目を閉じる。無防備な誠之進を信頼しきった表情に、一瞬、何も今宵契らずともよいか…。三郎をこうして朝まで抱いて眠るのもよいかもしれぬ…、という気分にもなる。

 三郎から真直ぐに求められ、契ることへの罪悪感は消えた。だが、ふとした瞬間に父親のような気分に戻ってしまうのは、これからも避けられぬことなのだろうと思う。

「誠之進…」
呼び声に我に帰れば、黒目がちの潤んだ瞳が誠之進を見つめていた。目を合わせた瞬間、今度は視線を流して睫を伏せる。

 幼いのかと思えば、無意識のうちに誘うような仕種を見せる。そんな一挙一動にこちらがどれほど惑わされるか、わかっておられるのだろうか?

 誠之進は唇の端をわずかに綻ばせて、軽い溜息をついた。吸い寄せられるように三郎の上に屈みこむ。

 三郎はここに至って緊張しているのか、閉じた瞼が微かに震えていた。

(私も…同じですよ)

 誠之進は内心くすりと笑みを洩らした。

 少年と枕を交わすのが初めてならば、心底愛しく想う相手と夜を過ごすのも、誠之進にとっては今宵が初めてなのだ。不安がないと言えば嘘になるが、そんなことを三郎に気取られてはならない。

 体重をかけないよう、脇からそっと三郎の上に覆い被さった。単衣の寝間着越しにお互いの熱を感じる。三郎のはだけた寝間着の襟元から、甘い肌の匂いが立ち上ってきた。

 艶を含んだ黒目がちの瞳が、心細げに誠之進を見つめている。

 誠之進は三郎の頬に優しく唇を押しあて、ゆっくりと帯に手をかけた。


「若紫




第三部 おわり


あ、もちろん怒濤のお初…裏にあります。描写が苦手な方はここで踏み止まりましょう…。
いつもの要領で隠しリンクが御座居ます。


「若紫」2 | 「赤い月」1

下弦の月 目次



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