十六の巻「赤い月」2



by 戸田采女


 藩校のある「けやき平」はなだらかな丘陵地帯で、湧水の出ている池や渓流など格好の釣り場が多い。誠之進と三郎は藩校への坂道の途中で木立の中へ分け入った。このまま小道をまっすぐ行くと、水車小屋近くの淵へたどりつく。春から三郎の馬廻りになった藩校剣術師範代、吉田小兵太のお気に入りの穴場だった。

 早朝から抜けるような蒼天の暑い一日だったが、午後八つ半(三時)を過ぎた頃、わずかながら風が出てきた。木立の奥をひんやりと涼風が吹き抜け、ふたりは気持よく渓流に釣り糸を垂れていた。

 しかし、誠之進は釣りを楽しみながらも、林や渓流の様子を注意深く観察していた。

 今のところ木々や低木は枯れる兆しはなかったが、やはり木立の下草の緑が例年ほど鮮やかではない。この付近には湧水が多く出るため、渓流の水量も目に見えて減ってはいなかったが、雨の多い年ほどの勢いはなかった。

 けやき平周辺はそれほど差し迫った状況はなかったが、道すがら見た水田は、用水路の関係で水の行き渡っている田とそうでない田の差が大きい。あの様子では早晩水争いが起こるやもしれぬ、と誠之進は胸の中で呟いた。

 そもそも洪水を起こすほどの河川がニ、三本通っている領内で、渇水の心配をするのも妙な話だが、昨年の洪水の後、城下の家々、田畑はおおかた復旧したものの、農業用水路の整備はまだ道半ばといったところだ。

 川に水はあっても利水がうまくいかなくては、田畑は雨水だけが頼みとなってしまう。今年、領内の田畑は日照りに対して極めて脆弱な状態にあった。

(天候さえ順調で通常の作柄が期待できれば、用水路の整備に金をかけ、来年には何の愁いもなくなったものを…)

 信輝公曰く、天候は人智の及ぶところではないとはいえ、誠之進は思わず深い溜息をついた。

「誠之進…、いかがした?」

 溜息を聞き付けた三郎が、釣り糸を垂らしながら誠之進を見やった。黒目がちの瞳がしっとりと誠之進を見つめている。

 自分の気のせいだろうか?

 契ってからの三郎は、以前にも増して大人びた、愁いを含んだ視線を誠之進に向けるようになった。




『誠之進…、我らのことは…源蔵と小兵太以外、誰にも知られてはならぬのだな?』

 初めて契った翌朝、まだ夜が明け切らぬうち、三郎を起こして髪を結い直してやった。身支度を整えた三郎を部屋に戻すべく、離れの木戸を開けて周囲をうかがっていると、三郎が誠之進の背後でそう呟いた。

 誠之進は、
『…お福にはいずれ打ち明けるつもりでおります。…なれど、その三人以外には秘密にしておくがよろしいかと存じます』
『…主膳にも、…父上にもだな』
『はい…。お父上に隠しごとをするのはお辛いと存じますが…』
『案ずるな…私なら大丈夫だ』
『…申し訳…ござりませぬ』
『…そなたが謝ることではない』
『若…』
『…これが罪なら…私も同じじゃ…』
三郎が誠之進の帯のあたりに両手を回し、そっと背中に片頬を押し当てた。

 屈託のない三郎が初めて秘密を持った。

 言葉にせずともふたりは瞳で語り合う。

 衆目の目を欺きながら、時にやさしく、時に狂おしく絡み合う視線。

 秘め事を知った三郎は、内側から匂いたつような美しさで、恐ろしいほどに誠之進を幻惑した。




『誠之進…、いかがした?』

 誠之進は三郎の問いには答えず、柔らかく微笑み返した。

「今日は…なかなか釣れませぬな…」
「うむ…。春先にはちょっと釣り糸を垂らせば、すぐに食い付いてきたのに…」
「ここも少し水が減っておりますゆえ…。もう少し、上流の方に場所を変えてみますか?」
「そうだな…」

 三郎はにっこり頷くと、釣り竿を引きあげて立ち上がった。誠之進も竿と駕篭を持って三郎の後に続く。二人は渓流に沿ってさらに木立の奥へと分け入っていった。

 誠之進が前をゆく三郎に声をかける。
「足下にお気をつけ下さい、苔が滑りまするぞ」
「わかっておる…。心配性だな、そなたは」
と三郎が声に笑いを滲ませた。

 水車小屋より奥へは、普段、滅多に人の立ち入ることはなかった。道らしき道もないところゆえ、二人は迷わぬようひたすら川岸づたいに上流に向かった。四半刻ほどゆっくり歩いたところで、高さ一間(2m弱)ほどの小さな滝に出くわす。

「おお、こんなところに滝が…」
「なんだ、誠之進、そなたも初めて見るのか?」
「ここまで入るのは猟師くらいのものでござりましょう…」
誠之進は感心したように滝とその下の淵を眺めていた。麓の日照りが嘘のように、淵は清い水を滔々とたたえていた。川底から湧水が出ているのかもしれない。川岸に生えるシダの緑も目に鮮やかだ。

「ここならよく釣れそうじゃ」
三郎は嬉々として比較的大きくて平らな岩を探して腰を降ろした。小さな滝なので水しぶきも水音もさほど気にならない。早速釣り糸を淵に放り込んだ。ぱしゃりと軽い音をたてて錘りと針が水中へ消えていった。

 誠之進はしばらく三郎の様子を眺めていたが、やがて三郎の座る岩へ歩み寄り、隣に腰を降ろした。

「何じゃ、誠之進。二人で同じ場所に陣取ったのでは、魚の取り合いになるではないか?」
「はい…」
もっともらしく頷きながら、誠之進は釣り竿を手近な岩と岩の間にたてかけた。不審そうに見上げる三郎の手からも、釣り竿をやさしく取り上げて片付けた。

「誠之進…」
誠之進の意図を察知したのか、三郎はほんのり頬を染めて俯いた。誠之進は黙って身体が触れあうほど距離を詰めた。
「釣りにきたのでは…なかったのか?」
肩を抱き寄せ耳朶に軽く口づけると、三郎の睫がかすかに震えていた。
「誠之進…」
三郎が困ったように、かすれた声で誠之進の名を呼ぶ。

 下心があって釣りに誘ったわけではなかった。しかし、人気のない木立の中でふたりきり…。邪魔の入る恐れはまずない。何もせずに帰れというほうが無理であった。

 初めて誠之進の部屋で契ったのが藤の季節の終り。以来、二ヶ月余り、二人でゆっくり夜を過ごしたのは一度きり。小兵太が再び宿直にあたった夜だけだ。土蔵の中で三郎を愛撫したことはあったが、見回りの者の目を気にしながら、帯も解かない慌ただしい逢瀬だった。

 昔なら、片恋の相手に何年も手を出さずに耐えた誠之進だったが、三郎とは既に想いを打ち明けあい肌を合わせた仲だ。そうなるともはや抑えがきかない。毎日供に過ごし朝夕膳を囲みながら、人目を憚り触れられない状態は拷問に近かった。

「せ、誠之進…、人が来たら…」
どうするのじゃ、と言いかけた唇を誠之進は己が唇で塞いだ。

 誠之進を拒んでいるわけではない。だか、昼間から斯様な屋外で事に及ぶなど、三郎には容易に受け入れがたいのだろう。

 目を薄く開き、誠之進の舌を迎え入れながらも、三郎はどこか落ち着かない。中途半端に応えながら、誠之進の胸に片手を突っ張って躊躇いをみせる。

 誠之進は一旦唇を離して、三郎の目をのぞきこんだ。
「若…ここまでは誰も参りませぬ。ご案じめさるな…」
「な、なれど…」
浅く息をしながら三郎が小さく首を振った。
「若…」
誠之進は三郎の手を取って、袴の上から己が股間に押し当てた。
「若…、お願いでござります…」
「あ…」
一瞬にして三郎が耳まで紅に染めた。
誠之進は再び唇の端にかすめるように口づけた。
「ここがお嫌なら、あちらの木立の中へ…」
耳元に囁けば、三郎は潤み切った目を閉じて頷いた。


つづく




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