十六の巻「赤い月」3



by 戸田采女


 滝の水音をぼんやり聞きながら、二人は汗で湿った身体を下草の上に横たえていた。

 もう七つ半(五時)に近いかもしれない。見上げれば、木々の高みから蝉時雨が降って来る。薄く差し込む陽も、大分と西に傾いている様子だった。

 誠之進の肩口に頬を押しあて、横臥した三郎が放心したように宙を見つめている。手は誠之進の逞しい胸板の上をあてもなくさまよっていた。

「何を…考えておられるのです?」
片手で三郎の背をさすりながら、もう片方の手で前髪のあたりを梳いてやる。
「…誠之進」
「はい‥」
「我らは…その…」
「……」
「ずっとこのように…隠れて逢わねばならぬのか?」
「三郎ぎみ…」
「…屋敷でも、宿直や近習の目を気にしながら…手をつなぐことさえままならぬ」
「…若、私とて…辛いのです。なれど…」

 一般には衆道が容認されていた時代とはいえ、江戸中期、武家社会の一部では意外に事情は厳しい。小姓や側近を誰憚りなく寵愛できるのは殿様だけ。小姓同士や若侍と小姓の恋は御法度。また数は少ないが成人の朋輩同士の関係などは、藩によっては発覚すれば処分の対象となることもあった。

 藩校は一種の別世界であり、藩校時代、念者・念弟の契りを交わしたものも、時が経てば普通に妻を迎え家庭を持つ。成人してからも関係を続けていくものは極めて少なかった。

 若君と守役というのは微妙なケースである。三郎は誠之進の主だが、藩主ではない。ふたりの関係が藩主の意に染まぬものであれば、当然家臣である誠之進は罰を受けることになる。

「そなたを責めているわけではない…、ただ、もどかしいのだ…」
「若…」
「同じ舘で一緒に暮らしているのに…」
「三郎ぎみ…」

 何処か、ゆっくり過ごせる場所が欲しかった。人目を気にせず、いつでも気の向いた時に訪れ、こうして睦み合うことができる場所が─。

 名残惜しいのはお互いだったが、まもなく陽も沈む。誠之進は三郎を促して、淵で軽く泳いで汗を流すと、身支度を整えて帰路についた。

 結局魚は一匹も釣れなかったが…。

 林を抜けるまで、どちらからともなく手をつないだ。

 初々しい恥じらいを残しながらも大胆な恋人に、誠之進は溺れる自分を予感した。



 三郎と釣りに出かけた数日後、誠之進は内密に信輝公に面謁した。

 用向きはもちろん、三郎の将来について。分家の件である。

 殿様はお国入り以来、旅の疲れからか体調がすぐれず、誠之進も謁見を願い出る時期を慎重にはかっていた。七月に入って暑さは相変わらずだったが、帰国以来煎じて飲んでいた人参が効いたのか、近頃では食欲も戻ってきた御様子だ。
 
 茶坊主を通じてそんな話を耳にした誠之進は、思いきって行動を起こした。

 中奥の居室に通された誠之進は、人払いをした後、上座で脇息にもたれる信輝公とふたりきりで対面した。

 本日の会見の成否が三郎の運命を大きく左右する。誠之進は背中にじっとりと汗をかきながら、努めて慎重に言葉を選んで、話を始めた。




『分家もしくは臣下になってでも、ご領内に残れないものでしょうか…?』

 説明をし終えた誠之進の最後の問いかけに、信輝公は顎をさすりながら唸った。

「できぬことはないが…何故養子がそれほど嫌なのじゃ? 良縁が見つかれば、必ずしも悪い話ではなかろう?もちろん、気にそまぬ話を無理にまとめる気はないが、これから元服までにゆっくり探していけばよいではないか」

 三郎が高山を離れたくない真の理由を告げるわけにはいかない。誠之進と三郎…、契りを交わした二人が離れては生きられぬ…などとは、口がさけても言えなかった。

 正直、誠之進は信輝公に対して後ろめたさを感じていた。だが分家の許しは今もらえずとも、どうあっても養子の件だけは先送りにせねばならぬ。まさに背水の陣だった。

「ですが…三郎ぎみは御領内で暮らしたいと。親しいものたちと離れて遠方へゆくのは辛いと申されております」
「誠之進…。そなたが三郎の心を一番に考えてくれるのはありがたい。なれど、武家の子女に斯様なことはつきものじゃ。人質にやられた昔のことを思えば、縁組みで他国へ赴くくらい…」
信輝公は鈍い溜息をついた。

 やはり、お牧の方様から相当な圧力がかかっているのだろうか?

 信輝公は養子先は吟味するものの、三郎ぎみを養子に出すこと自体には、何の疑問も持っておられぬようだった。

(さて…何処から攻め崩そう…。やはり三郎ぎみを寵愛する殿の情に訴えるしかないか…)

 下手をすれば不興を買う恐れもあったが、誠之進は取りあえずしかけてみた。

「…殿、恐れながら…、結局他国へ養子に出されるなら、何故、三郎ぎみを加賀屋から引き取られたのです? どうせ手放すお子ならば、あのまま加賀屋に置いておかれても…」
誠之進は殿様の痛いところをわざと突いてみた。
案の定、信輝公はわずかに身を乗り出すようにして反論した。
「三郎は…亡きおひろと儂の子じゃ! 手元において慈しみたかったからに決まっておろう」
「御意にござりまする。ならば末永く…御領内で殿のお側に…」
「誠之進…なれど、子供はいつか巣立つものじゃ」
「それはごもっとも。されど遠くへ行かずとも、分家を起こし一家を構えるのもひとつの道でござりましょう…」
「誠之進…」
あくまでも分家にこだわる誠之進を前に、信輝はちいさく首をふった。

「いずれ、殿が隠居なされる時、三郎ぎみと国許で供に暮らされるのもよいではありませぬか?」
「…斯様なことが許されるのかのう…」
「藩主は殿にござりまするぞ。殿のお決めになることに誰も逆らうものはおりませぬ」

 ご正室様にこれ以上遠慮するのはおやめなされ、と誠之進は心の中で呟いた。

「惣一郎は…いかが思うかのう…」
「そこにござります、殿。惣一郎様にぜひ一度、三郎ぎみ共々お目通りいたしたく存じます」
「そなたら、江戸へ惣一郎に会いにいくと申すか?」
「はい。一度じかに御会いして、三郎ぎみには家督に対して何の野心もないことを、はっきりお伝えしてはと考えております」
「うむ…」
「三郎ぎみは以前から、たったひとりの兄上様にお会いするのを楽しみにしておられます。恐れながら…惣一郎様は心根のお優しいお方…。素直に兄を慕う弟君のお心、わからぬような冷血漢ではござりますまい」
「たしかに…、惣一郎は三郎に対して何ら含むところはない。前に一度、三郎に会うてくれと頼んだとき、快く頷いてくれた…」
「養子に行かぬことが家督を望む、という意味にはなりませぬ。禄高は僅かでも、故郷で暮らしたいという三郎ぎみのお心をわかっていただくには、それが最良の方法かと…」

 誠之進は深く頭を垂れ、信輝公の言葉を待っていた。

「…心得た。江戸行きは許そう…」
思わず面を上げて誠之進は目を輝かせた。
「あ、ありがたき幸せに─」

 だが、言いかけた言葉は信輝公に遮られた。

「なれど、今すぐではないぞ、誠之進」
「と、申されますと…」
「そなた、今はそれどころではなかろう? 皆が飢饉の心配をしている時に、三郎ひとりの件にかまけているわけにはゆくまい」
「されど…!」
「案ずるな。誰も性急に養子の話をまとめたりはせぬ」

 誠之進の不安を見透かしたかのように、信輝公が苦笑した。

「いくら身供が奥に頭があがらんとはいえ、牧に勝手に縁組を決めさせたりはせぬ」
「殿…」
「留守居役や江戸家老にも文を送って釘をさしておくゆえ…」
「殿!」
「国許にて飢饉のおそれあり、非常時にて、三郎の縁組どころではないとでも言っておこう…」
「お、恐れいりましてござります…」

 誠之進は平伏した。
これで少なくとも今年いっぱい、来年の春までは時間が稼げたかもしれない。

「一度三郎とも将来のことを、膝を突き合わせて話してみよう…。なれど誠之進、今は三郎の養子の件より、今年の財政難、米不足をどうしのぐかが問題じゃ…」
「お、仰せの通りにござります。今年、万一日照りで凶作になりますれば、飢饉の恐れもござりまするゆえ…」
信輝公は大きく頷いた。
「主膳と右近が中心になって対策を考えておる。三郎を案じてくれるそなたの気持は嬉しいが、当分、守役の仕事はほどほどにして、主膳らと一緒に動くがいい。よいな、誠之進」
「御意‥」

 信輝公のおっしゃる事はことごとく的を射ていた。 やはり、気をつけたつもりでも、三郎のこととなると気持がはやって、つい勇み足に事を運びがちだ。誠之進は改めて自戒した。

「なれど誠之進…、何よりも三郎のことを案じてくれる、そなたの忠義…、嬉しく思うぞ」
脇息に肘を預けながら、信輝公が温和な笑みを浮かべた。

「お、恐れ多いことにござります…」
誠之進は声が震えそうになるのを、丹田に力を込めて堪えた。

「そなたのおかげで三郎も立派に成長した…。そろそろそなたには、藩政の中枢に戻ってもらわねばならぬ。次の筆頭家老として、主膳の後を継ぐ心構えをしておくがよい…」
「はっ…」

 筆頭家老の職は世襲制ではない。
藩校時代から優秀だった誠之進は、流れからいって次の筆頭家老と目されていたが、次席家老・内藤帯刀はまだ四十を過ぎたばかりで、隠居するには十年以上もある。誠之進のライバルとして名乗りを上げても不思議はなく、事実、機会をあるごとに、そのような示威行動を行ってきた。

 だが、今のひとことで、内密の会見の席上とはいえ、誠之進は藩公の口から事実上、筆頭家老の指名を受けたことになる。

 家臣として最高の名誉である。それが父の望みでもあった。

 だが、誠之進は心が浮き立つどころか、これでまたひとつ、自分と三郎の未来に暗雲がたちこめたように思えた。

 皮肉なことに、誠之進の地位が上がればあがるほど、三郎の側にいることは難しくなる。万一分家がかなわなかった場合、溝口家の家督を弟の慶次郎に譲り、自分はどこまでも三郎につき従う覚悟をきめかけていた。だが、信輝公が誠之進を次期筆頭家老に指名するとなれば、主膳が斯様な気侭を許すわけがない。

 それでも、三郎に分家が許されれば同じ城下に暮らし、会おうと思えばいつでも会える。窮屈ではあるが、三郎が他藩へ養子に出され、完全な別れが来ることを思えば、よしとせねばならない。まだ万策尽きたわけではないが─。

 何故、もっと身軽な身分に生まれなかったのだろう…。もしくは、

 三郎が藩主であれば─。

 誠之進は鮮やかに浮んだ危険な想念を、慌てて打ち消した。




 茶坊主が謳いの師匠の訪いを告げ、謁見は終りとなった。

 誠之進は深く首を垂れたまま、小姓とともに退出する信輝公の足音を、みじろぎもせずに聞いていた。


赤い月 了


                    


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