十七の巻「磯貝」1
(誠之進視点)


この巻の主な登場人物


本作品「磯貝」から当サイトに初めてお越しの方は、シリーズ全体の背景がわかる時代設定・登場人物を合わせてお読みいただければと思います。

by 戸田采女


 立秋を過ぎても、いっこうに雨の降る気配はなかった。誠之進が懸念した通り、城下の田畑には旱魃の影響がはっきりと出始めている。乾いた田には亀裂が走り、すでに稲が枯れていた。湧水の水源から水をひいている田畑はよかったが、もともと河川からの用水に頼っていた地域は目を覆うばかりであった。用水路の整備の遅れが大きな被害を招いている。

 至るところで水争いが起こり、代官ひとりでは納めきれぬ場合、誠之進や右近も農民との話し合いに、時には騒動の鎮圧に出かけることがあった。

 六月末の家老・中老八家の会合で米の買い付けは承認されたものの、その方法を巡っては依然意見の調整を見ていなかった。だが、事態は急を要するとの上席家老・溝口主膳の判断で、誠之進が主膳の名代として、勘定方の実務担当者の右近、筧真之介ととも今町へ赴くことになった。

 何しろ藩庫は空の状態だ。申し入れる借財の額も去年に引き続き半端ではない。数年前、江戸藩邸が「お断り」を食らわせたこともあり、江戸や大坂の金主もなかなか首を縦にふらない。領内の商人が唯一頼みの綱だった。主だった商人に御用金を申し付け、その金を元手として廻船問屋に米の買い付けを任す計画であった。

 例年なら、米どころの越後から大坂へと米を満載した船が出ていくのだが、今回はその逆をやらねばならぬない。それも藩としては、できるだけ安値で大量の米を買い付けてきてほしい。どの店が名乗りを上げてくれるのか…。

 本来なら商人たちを城に呼んで御用金を申し付けるところだが、主膳はあえて若い三人を今町へ送り、交渉を任せた。


***


 一昨年以来、右近は今町湊の廻船問屋に対し、『永代渡海』免許の発給と引き換えに、儲けの三割を運上金として藩に納めさせる案を検討していた。

 商人側にとって『永代渡海』免許を得る利点は次のようなものだ。

 従来、高山藩の渡海免許は一年限り、それも舟ごとに湊奉行から免許の発給を受けていた。毎年師走に免許を更新せねばならず、舟はその時期には必ず領内に戻らねばならなかった。冬場の日本海は事実上航海不可能なので、航海に出られるのは春先から秋口まで、一年の半分に過ぎない。

 これが、『永代渡海』免許で毎年更新の必要がなくなれば、舟は暖かい土地、例えば大坂などで年を越し、西国や長崎などで商品を買い付け、春先に今町に戻ることも可能だ。一年を通して持ち船をフル稼動させることができるのだ。

 運上金を今町の店が滞りなく納めていれば、舟は毎年帰ってこずともよい。目端のきく商人なら、必ずや興味を持つと思われた。三割という運上金の割合も、商人側のやる気をそがない、妥当な数字だと誠之進は考えていた。

 これまででも藩財政が逼迫するたびに、『御用金』という形で一時的に商人に金を出すよう求めたが(正確に言うと『強制』したのだが)、右近の運上金案の根底にあるのは、「安定した税収源の確保」と「長期に渡って存続可能な制度の構築」であった。

 右近は江戸で田沼意次の知遇を得て、様々な税の可能性について示唆を受けた。まずは今町の廻船問屋を手始めに、塩、たばこ、材木など、特定の町に特定商品の独占権とひきかえに運上金を課す計画を練っていた。茶の取り引きについては、百年以上前に既にこの制度ができている。これを、他の商品、他の町にも拡大して、幅広く税収源を確保する意図だった。

 洪水後の城下の復旧も進み、今年こそは制度の実施に踏み切ろうと思っていた矢先、二年の続きの天候不順、飢饉の恐れで藩内が騒然としてきた。

 右近としては口惜しい事だが、ひとまず運上金制度の全面的な実施は棚上げとなった。当面の難局を乗り切るため、まずは今町の廻船問屋、島崎屋、中村屋、角屋との『御用金』の交渉に望まねばならなくなった。


***


 七夕を過ぎ、夏の盛りを迎えた頃、誠之進、右近、筧真之介の三人は、水路、今町湊へ向かっていた。

 関川の河口に位置する今町は室町時代からの由緒ある湊。内陸部と湊を結ぶ水運が早くから発達した。今では米や物資を運ぶ重要な手段となっている。江戸初期、高山に松平家が入府した時代、関川の浚渫を行ったため、今町から高山のひとつむこう、荒井宿のあたりまで舟運が可能になっていた。

 今年は水量が減っているので、快適な川下りとはいかなかったが、船頭が竿で操る屋根舟に乗った三人は、順調に水路今町へ向かっていた。昼前にはむこう着くだろう。商人たちとは「大肝煎」吉永家の屋敷で話し合いを持つ予定になっている。

「去年、洪水で氾濫した川とは思えない静けさですね…」
団扇をかざした真之介が、川面を眺め深い溜息をついた。
「あれほど堤防普請に力を入れたのに、今年は雨が少ないとは何とも皮肉な…」
「まあ、そうぼやくな」
誠之進はこぼす真之介の肩を軽く叩いた。
船べりから身を乗り出しようにして川面を見渡し、
「水量も大分減っておるゆえ、今は吃水の浅い舟しか通れぬな…。荷は多く積めぬが、こういう時、浅い舟も便利なものだ。のう、伍平?」
竿をあやつる船頭に、今のうちにしっかり稼げよ、と笑いかけた。

 ふと黙ったままの右近の横顔に視線を戻すと、
「運ぶ米が穫れぬなら、舟は用なし同然だが…」
桜色の唇から、どことなく投げやりな呟きが洩れた。
「湧き水で順調に稲が生育している田畑もあるのだ。全滅というわけではない。あまり悲観的になるな、右近」
「…楽観的になれる材料など何処にもない」
「右近…」

 真之介と誠之進は顔を黙って見合わせた。

 暑さで気がたっておるのだろうか?

 それとも、商人たちとの会合に臨み、責任の重さに緊張しているのだろうか?

 まさか右近に限って、そんなはずはなかろう…。

 いずれにせよ、今はへたに声をかけぬようがよいと判断し、誠之進は真之介に目配せすると、黙って右近の側を離れた。誠之進は屋根の下から出て舳先へと移動し、船頭相手に世間話を始めた。




 昼時、今町に着いた三人は船を降り、湊の小料理屋で簡単な昼食を済ませた。

 町人衆との会合場所、今夜の宿舎である吉永家の別邸に顔を出したのち、誠之進は右近と二人で街に出てみた。考えてみれば、右近と今町を訪れるのは十年ぶりだった。十代の頃、世話になった『桔梗屋』は相変わらず繁盛しているようだ。途中、誠之進が江戸詰めの間、労咳で死んだ馴染みの遊女、さぎりの墓に参った。

 海を見下ろす小高い丘の上にさぎりの墓はあった。畿内から売られてきたさぎりには、領内に係累がいなかった。亡くなった時火葬にしたものの、遺骨はだれも引き取り手がなくて、寺の住職も頭を抱えていた。結局、帰国後さぎりの死を知った誠之進が、引き取って寺の近くに墓をたててやった。

 市場で買った花をたむけ、寺で分けてもらった線香をたてて合掌する。

 付き合いで同行した右近も、誠之進の後ろで共に合掌した。

 誠之進がどんな思いであの頃遊廓に通っていたか…。

 今となっては秘密を分つさぎりは冷たい土の中だった。




「少し…歩くか」

 右近を振り返れば、柔らかい笑みが返ってきた。今朝、船上にいた時の不機嫌さは一応なりを潜めている。

 どちらからともなく浜辺へ向かい、遠く海原を眺めながら浜を歩いた。

 少年の頃から、誠之進は海が好きだった。

 紺碧の海。砕け散る波しぶき…。波濤の向こうの未だ見ぬ大陸─朝鮮、オロシアに思いを馳せた。大海原を眺めていると、藩という小さな世界で蠢く己ら武士が、いかにも卑小に思えたこともある。今町へは小兵太とともに桔梗屋目当てで何度も通ったが、この地に心惹かれるのはそれだけではなかったのだ。

 長く続く砂浜を右近と歩きながら、誠之進はふと『あの時』の網小屋が見当たらないことに気付いた。(番外初恋参照)

 さもあろう。右近と浜で夜明かししたのは、ちょうど十年前。既に廃屋同然だった小屋は跡形もなくなっていた。
 
 あれから十年。

 右近は変わらず誠之進の傍らにある。

 十代の頃、誠之進が片恋に身を焼いた美少年は、二十代の若さで勘定吟味役を勤め、上席家老・溝口主膳の懐刀と呼ばれるほどの男になった。

 右近との友誼は誠之進生涯の宝だ。

 春に一度、道場で右近が三郎に稽古をつけたことがあった。あまりのきびしさに、源蔵が何か遺恨でもあるに違いないと誠之進に訴えたほどだ。誠之進も後で三郎の蒼痣を見たとき、ここまで打ち据えずとも良いのではと、正直憤りも感じたが、師範代の小兵太に『まともに稽古をつければ、あれくらいの痣はできるぜ。普段は誰も遠慮して三郎には本気で打ってかからないだけだ』と諭された。確かに小兵太の言うとうりだった。江戸詰めの頃も、右近は藩邸の道場でよく朋輩に稽古をつけていたが、相当手厳しかったことを思いだした。三郎に対してだけ、どうのこうのという話ではないだろう。

 誠之進は三郎に対する右近の悪意を、一瞬でも疑った自分を恥じた。

 三郎の分家の件では意見が真っ向から対立しているが、それは右近が誠之進の身を案じてのこと。敵対しようという気持は露ほどもないのだ。

『財力をつけた内藤は、誠之進を追い落とすべく、三郎ともども御家騒動の濡れ衣を着せるつもりだ』と右近は言う。『国許の藩士に人気のある三郎ぎみは、やはり他藩へご養子にいかれるべきだ。まことにお気の毒だが、へたに藩内に残っていては、惣一郎様に取って替わる気ではないかと様々な憶測を呼ぶ…』と。右近の懸念は八分通りあたっているかもしれない。友を守りたい一心で敢えて容赦なく諫言したに違いない。

 だが、誠之進は三郎の手を離さず闘いぬく決意を固めていた。三郎を守りぬくと同時に、誠之進自身も決して失脚はしない。自らの意志でその地位を去ることはあっても、断じて内藤帯刀に追い落とされたりはしない。

(決して負けたりはせぬから、右近、貴公も力を貸してほしい…)

 藩校時代から、男同士で契るなど鳥肌がたつと言っていた右近だ。そんな彼に三郎とのことを打ち明ける勇気はない。かつて右近を愛していたこともあり、その微妙な心理ゆえに、おそらく己の口から話すことはできないだろう。信頼する友なら小兵太もいるが、城中において味方として頼みにできるのは、やはり右近をおいて他にない。誠之進は祈るような気持で友の横顔を見つめた。




 寄せては返す波の音。

 荒々しく岩にぶつかり砕け散る波音は、十年前と何も変わらない。

 だが、浜を歩く二人の背負うものは、あの時とは比較にならぬほど重くなった。

 これからの日々も、お互い助け合いながら供に歩んでいけるだろうか?

 願わくは、如何に地位が上がり、立場が変わっても、二人の道が分たれることのないよう…。




 誠之進は歩みを止めて、遠く海原を眺めた。沖合いに白い帆が二つ三つ浮んでいる。夏の間、秋田や蝦夷へ向かう北前船の帆影だろう。誠之進は航海の無事を祈りつつ、右近に問いかけた。

「右近…、ここだけの話しだ。正直に申せ」
「何だ?」
「貴公、本心では如何思う?抜け荷は是か非か?」
「…難しい質問だな」
右近は唇の端をわずかにつり上げて微笑した。

「そもそも…鎖国の名のもとに、幕府が長崎で貿易を独占しているのが悪い…」
「では諸藩が秘密裏に外国と交易するのは、是か?」
「…それができれば、どれだけ我ら日本海の諸藩は豊かになれるだろう…」
「いかにも…」

「されど、今の幕府の仕組みが変わらぬ以上、我らもその枠内で動かねばならぬ」
「仕組みなど、待っていては百年たっても変わらぬぞ。だから薩摩は早うから抜け荷に手を染めているのではないか?」
「貴公、意外に大胆なことを言うのだな」
右近はさも驚いたように誠之進を見つめた。

「皮肉なものだな。内藤の考えは、あながち全てが間違いではない…」
「それは私も同感だ。しかし、彼奴は方法を過った…。藩金流用と帳簿の改ざんは、見過ごすわけにはいかぬ」
「まともな方法で藩政に貢献してくれれば、心強い味方であったやもしれぬのに…」
「…またそのような人の好いことを言う。向こうには貴公と協力する意志などさらさらないぞ。いい加減に腹をくくれ、誠之進」
薄い微笑を浮かべながらも、右近は鋭い口調で言った。

 誠之進は鈍い溜息をついた。
「まことに…武士とは窮屈な生き物よのう」
「そう生まれついたのだ。今さら他の『生き物』にはなれぬ」
右近は冗談めかして笑ったが、これは掛け値なしの本音だろう。

「もし、武士に生まれていなければ、海商も面白かったかもしれぬ」
「誠之進?!」
「自ら船に乗って、荒波を超え、諸国を見てまわるのだ。何やらわくわくするのう…いきなり異国へいかずとも、蝦夷や薩摩でも十分おもしろい」
「戯れ言はよせ、誠之進」
「何をいう、私はかなり真剣だぞ?」
「誠之進!」

 右近は本気で呆れているようだった。あまりからかうとムキになる。この辺りでやめておこう、と誠之進は苦笑した。

「島崎屋とは如何なる男であろうな」
誠之進が真顔に戻って呟くと、
「今夜が楽しみだ…」
右近が力づよくうなずいた。

「そろそろ戻るか…」
「ああ」

 再びふたりは砂を踏みしめ、湊の方へ向かって歩き始めた。

 途中、誠之進は足下に美しい巻貝をみつけた。思わず屈み込んで手にとった。

(今年は御用繁多で、三郎ぎみを一度も海にお連れできなんだ…。ささやかだが、土産にお持ちしよう…)

 今朝、城で誠之進を見送った三郎の笑顔を思いだした。




 三郎の居室に出立の挨拶に出向いた。型通りの挨拶をすませると、三郎が何やら用をいいつけて近習の者を追い払った。

 障子戸が閉まるのを待って、三郎が物言いたげな眸でじっと見つめてきた。気持を察した誠之進は、上座の主の前に歩み寄り膝をついた。肩に手を置いて軽く引き寄せると、三郎のほうからそっと誠之進の唇に触れた。誠之進も片手で三郎の頬を撫でながら、柔らかく唇を吸ってやる。いまいちど、三郎の唇が少しきつめに押し当てられ、名残り惜しそうに離れていった。

 黒目がちの眸がひたと見上げた。
「道中、気をつけて参れ」
「はい…」
「主膳の名代とあって、そなたも荷が重かろうが…。言葉を尽して説得すれば、町衆もきっと応えてくれるはずじゃ」

 いつの間に、こんな大人びた台詞を言うようになったのか…。誠之進は軽い驚きとともに、主らしい貫禄を見せる三郎を、尊敬と慈しみの混じった目で見つめた。

「…殿や若の御期待に添えるよう、我ら三人力を尽して参ります…」
「うむ…」

 廊下をやってくる足音に、二人は静かに身を離し、居ずまいを正した。




 誠之進は巻貝を掌にのせ、ていねいに砂を払った。

「童子でもあるまいし、そんなものを拾ってどうするのだ?」
声に笑いを滲ませて右近が尋ねる。

 誠之進は曖昧に微笑むと、手拭いを取り出して巻貝をくるんだ。大切に懐にしまう姿を、右近の漆黒の眸がまばたきもせずに見つめていた。


つづく


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