十七の巻「磯貝」2
(右近視点)


by 戸田采女


 誠之進の長い指先が砂の間から貝を拾いあげた。

 大ぶりで美しい巻貝だ。

 ていねいに砂を払い、大事そうに貝を手拭いにくるんでいる。手元を見つめる鳶色の眸があまりに優しげで、右近はつい見蕩れてしまった。だが…。

  もしや、三郎に…持って帰ってやるつもりか?

 突然胸底に焼けるような痛みを感じた。息苦しさに右近はちいさく喘いだ。

 誠之進は懐に手拭いを納めると、右近と目を合わせた。
「参ろうか…」
ふわと目元を和ませると、そのまま誠之進は先にたってゆっくりと歩き始めた。

 海風が一瞬強く吹き、乾いた砂が足下を舞う。

 右近はその場に立ち尽くしたまま、一歩一歩遠ざかる広い背中を目で追った。

 久しぶりに持てた誠之進とふたりきりの時間だった。だが誠之進が貝殻を拾い上げた瞬間、和やかで優しい時は指の間から砂のようにこぼれおちていった。右近の頭の中で、羽虫が嫌な音をたてて飛び交い始めた。


 貝殻をひろってやるとは、何を子供だましな。三郎はまだまだ誠之進にとっては、赤子同然ということか。ついこの間まで、一緒に独楽回しをしてやっていたのだろう…。まこと、貴公はお役目熱心だ…。

 貝殻でもクワガタでも、何でも持って帰ってやるがよい…。子供には似合いの土産だ。

 守役の役目はあと一、二年で終る。さすれば誠之進は自由の身だ。藩の新しい執政として、存分に采配を振るうがいい。くだらぬ役目から解放され、貴公本来の道に戻る日は近いのだ…。

 あと少しの辛抱だ…。


 そう、あと少しの辛抱だった。三郎さえ養子にいってしまえば、藩からもめ事の種は消え、誠之進も肩の荷が降りる。

 右近の愁いもなくなる。

 三郎に分家など…許してなるものか。御家騒動の種となるべく生まれてきたおまえなど、早々に御領内から立ち去るがよい…。

 海鳴りを遠くに聞きながら、右近はぎらつく太陽を見上げた。目眩を覚えながらも、右近は傲然と太陽を睨み付けた。冷たい汗が一筋、こめかみを伝い落ちるのを感じた。

 黒い羽虫の唸りは一向にやまない。




  夕刻。今町湊、「大肝煎」吉永家の別邸。

 湊町の商人たちには「大肝煎」を中心にある程度の自治が認められていた。代々「大肝煎」を勤める吉永家は、役人の宿泊先にもあてられており、右近ら三人は今夜吉永家に一泊する。

 午後、右近と誠之進が浜から戻ると、海商のひとり、中村屋喜兵衛が挨拶にきていた。中村屋は酒田の本間家などにくらべると小粒な感は否めないが、既に何代にも渡って今町湊随一の海商として堅実な商売をしている。喜兵衛はもう五十に手が届いていたが、いまだに自ら船に乗る事もあるという。油ぎった野心はないものの、地歩を確立した商人の余裕というか、人あたりの良さで、商売繁昌しながらも周りから反感を買うことは少なかった。

 吉永家の別邸に残っていた真之介が誠之進に耳打ちしたところによると、中村屋喜兵衛はすでに「御用金」がらみの役人の来訪を予期していたようだった。だが、夜の会合まで自分の腹のうちを明かす気もないらしく、型通りの挨拶をするに留まっていた。

 中村屋は誠之進がただの小役人ではなく「家老の嫡男」と聞き、まずは驚き、
「此度は今町までわざわざお運びくださり、恐悦至極に存じます…」と、ひらすら平伏した。

 だが、右近を勘定吟味役として紹介された時、さらなる驚きに、眼球がこぼれんばかりに目を見はった。まじまじと右近を見つめる中村屋に、誠之進が鷹揚な笑みを浮かべていった。
「勘定吟味役来訪と聞いて、どんな強面が来るかと思うていたか?」
「いえ、それは…、ただあまりにお若いので、失礼ながら、正直面くらいましてござりまする…」
中村屋は非礼を詫びつつ首を垂れた。

 右近は平伏する中村屋に嫣然と微笑みかけた。
「吟味役とはいえ、ご覧の通りの若輩者にござる。何卒お手柔らかに頼む…」
落ち着き払った声音で軽くうなずいた。

 海千山千の商人に侮られまいと、右近は分厚い鎧を静かにその身にまとおうとしていた。




 代々大肝煎をつとめる吉永家は万事行き届いた接待で、右近ら若い三人にも十分礼を尽し、夜具や食事も極上のものを用意した。

 早めの夕餉の膳には海の幸がふんだんに供され、誠之進と真之介は旺盛な食欲で平らげた。右近は半分ほど手をつけて後は残している。

「如何した? 貴公具合でも悪いのか?」
「この烏賊の刺身も浜焼きも絶品ですよ、右近様、召し上がらないのですか?」

 誠之進、真之介の両名が同時に右近の目をのぞきこんだ。
「…貴公らこそ、藩の命運をかけた会合を前に、よく腹いっぱい食べられるな」
伏せた睫の隙間から、右近はきれいに片付いた二人の膳をちろりと見やった。

「居眠りするほどは食してはおらぬ。心配無用」
からりと笑う誠之進に、右近は唇の端でほんの少し微笑んでみせた。
「貴公はやはり大物だな…」
案じているのではない、呆れているのだ誠之進、と、右近は腹の中で呟いた。

 昼間以来、どうも神経が昂ってならない。会合を控えて平常心を取り戻さねばと、右近は懸命につとめたが、意識すればするほど張り詰めてしまう。

 貝殻ひとつで斯程に動揺するとは…、何と情けない。

 右近は胸底で渦巻く感情を殺し、茶を喫しながら静かに端座していた。




 六つ半(午後七時)を過ぎた頃、広間に商人たちが揃ったと知らせを受け、右近らはいよいよ会合に臨むべく部屋を後にした。

 誠之進を先頭に三人が入室すると、広間に整列した二十人ほどが一斉に平伏した。

 誠之進や右近ら武士に、町人が頭を下げるのはあたりまえ。だが、居並ぶ商人たちは今町でも屈指の豪商、中堅商人たちだ。年齢ほとんどの者が四十代、五十代である。腰低く応対しながらも、三人のことを「若造が何をしにきた?」と値踏みしているい違いない。

 最前列に先程面会した中村屋が控えている。商人としての格式や藩との関わりの深さからいって、中村屋が代表を勤めるのは当然といえた。

 床の間を背に、誠之進を中に挟んで右手に右近、左手に真之介が着座した。

 かねてからの手はず通り、右近が口上の口火を切った。

「拙者、高山藩勘定吟味役、櫻田右近である」

 午後、中村屋が挨拶に来た時と同じく、右近の第一声に驚きと感嘆の入り交じった眼差しが交わされた。右近は構わず続けた。

「ここに同席するは、結城因幡守信輝公が三男・三郎信尭様の守役、溝口誠之進殿、勘定方役人、筧真之介にござる」

 誠之進、真之介が軽く会釈をすると、商人たちは再び深々と頭を下げた。

「皆の衆、今宵は足労を願ってかたじけない。我ら三人が今町湊までこうして出向いたは、そのほうらに折り入って相談があったからだ」

 右近が誠之進と真之介を紹介し、来訪の理由を告げると、間合いをはかったように中村屋が挨拶を返した。

「遠路はるばる、お役目御苦労様にございました。手前は、中村屋喜兵衛にございます」

 最前列から商人たちは順に自己紹介を始めた。

「角屋吉右衛門にございます」
同じく北前問屋の老舗、角屋が二番手、続いて米問屋、両替屋、薬種問屋などど、今町の有力商人たちが次々と名のりをあげた。最後に、末席に座っていた四十がらみの丸顔の男が深々と礼をした。

「島崎屋大番頭、寅三郎にございます」

 右近ら三人の間に一瞬見えざる緊張が走った。
「本日は店主自ら会合に出席するよう、達しを出したはずだ。何故、島崎屋は主人が来ておらぬ?」
右近が口を開くより先に、誠之進がゆったりとした口調で尋ねた。
寅三郎は面をあげ、
「恐れながら、主人、島崎屋宗七はただいま航海に出ておりまして…盂蘭盆会の頃には戻る予定でしたが、何分航海には不測の事態がつきもの…帰港が予定よりいささか遅れておりま─」
「行き先は?」
寅三郎が言い終わらぬうちに、右近が鋭く問うた。
「大坂でございます」

 誠之進が右近を目で制して続けた。
「流石、飛ぶ鳥を落す勢いの島崎屋だ。西へ東へ忙しそうで何よりだな…。島崎屋には後日あらためて面会したい。よしなに主人に伝えてくれ」
「…かしこまりました」

 『島崎屋』の大番頭は落ち着いた口調で受け答えしていた。容易に腹の内は読ませず、誠之進に薄い微笑を返すと深々と頭を下げた。




 いよいよ本題を切り出すときがきた。

 右近は背筋を伸ばすと、一度深く息をついた。

「そのほうらも存じておるように、昨年六月、御領内は関川の氾濫で大きな被害を受けた。植え終ったばかり苗が流され、去年の作柄は結城家高山入府以来、最低を記録した。城下や領内でも米不足から値段が急騰したことは皆の記憶にも新しいとおもう。藩でも他藩から米を買い入れて米相場の安定をはかるなど手を尽した。されど、洪水後の復旧に藩庫の金を使い果たし、幕府や大坂・江戸の金主からも多額の借財を抱えることと相なった。此の春より『半知御借上』を実施し、我ら武士も倹約につとめておる」

「ところが、本年も空梅雨、日照りが続き、いまや旱魃の恐れがある。作柄予想も去年を下回るのではないかと懸念されておる…」
右近はいったん言葉を切った。
続きの台詞を忘れたわけではない。最後のひとこと─町衆に頭を下げる一言を、やはり言いよどんでしまったのだった。

(今回は『御用金』を出させるのが目的。居丈高な物言いは慎まねばならぬ。もはや武士の面子云々しておる時ではないのだ…)

 右近は自らに言い聞かせ、正面に座る中村屋と目を合わせた。

「…去年に引き続きの多額の借財に、首を縦にふってくれる金主は容易に見つからぬ。藩としてはもうぎりぎりの所に来ておる。後は御領内の商人たちが頼りだ。従って、そのほうらに店の財力に応じた『御用金』を申し付けたい」

 やはりその件か…と、座敷内に鈍い溜息が漂った。

 それまで黙って右近の話を聞いていた誠之進が、おもむろに口を開いた。
「御用金の使い道は、飢饉を防ぐための米、その他食糧の買い付けと用水路の整備だ。既に米の値段が上がりつつあるのは皆も存じておろう。このまま日照りが続き秋の収穫が見込めねば、多くの者が飢えに苦しむこととなる。ここはどうかひとつ、そのほうらの力を貸してくれまいか?」
「はあ…それは、事情が事情ですので、我々も出来る限りお役にたちたいとは思いますが…」
問題は金額だと、角屋の目が訴えていた。
誠之進はうなずきながらも具体的な金額はまだ示さず、
「御用金に加えて、米の買い付けに船を出してくれる北前問屋を募りたい。今回協力してくれたものには、今後藩としても手厚い保護を加えるゆえ、是非名乗りをあげてくれ…」
「そういうことなら、私どもも喜んで。早場米の採れる作柄のよさそうな地域へ向かえばよろしいのですね」
流石、老舗の余裕で中村屋がぽんと胸を叩いた。
「天候不順は越前から北の日本海沿岸の諸藩のみと聞き及びます。全国的な飢饉ではありませんから、最悪の場合大坂へいけば、多少高くついても手に入らぬことはないでしょう」
「うむ…そうしてくれ」
誠之進はひとつ返事で名乗りでた中村屋に、感謝をこめて大きくうなずいた。


「恐れながら溝口様…」
末席から控えめに声がかかった。島崎屋大番頭、寅三郎である。
「今年の旱魃を見越し、米の手配なら、すでに主人・島崎屋宗七が大坂の蔵にて済ませております」

「なに…?」

 「御心配なさらずとも、飢饉の恐れが出た場合に備え、市中に流す米、『救い米』用の米、すでに島崎屋の大坂の蔵に蓄えておりまする。今年の作柄が絶望的となれば、すぐにでも大坂を出港する手はずになっております」
寅三郎の声が先程より一段と高くなり、朗々と座敷に響いた。

(やられた…)

 右近は誠之進と思わず顔を見合わせた。二人の間で瞬時に了解がなった。

 寅三郎は二人の様子を面白そうに伺っている。右近は忸怩たる思いで奥歯を噛みしめた。他の商人たちも思わぬ展開を息を詰めて見守っていた。

(誠之進、いかがする…?!)

 島崎屋が内藤帯刀の指示で動いたのは間違いない。早々と密かに米の手配を済ませ、主膳らに一泡ふかせるつもりだったのか…? 家老・中老の閣議で米の手配を巡って議論していた時も、慌てふためく重臣たちを腹の内ではせせら笑っていたのやもしれぬ。

 いよいよ飢饉かというとき、くだんの『千石船』に米を満載して、大坂から凱旋する気なのだろうか? 皆が飢えに苦しむとき、斯様な真似をすればたちまち英雄扱いだ。誰も千石船の金の出所など問題にせぬだろう。独断で藩金流用して作った船を、ぬけぬけと『御用船』とでも言うつもりではなかろうな…。

(おのれ…内藤め…!)

 旱魃までもが内藤に味方するか?!

 なぜもっと早く斯様な筋書きを見抜けなかった?
この数カ月、よそ事に気をとられ、勘が鈍くなっていた我が身が情けない。

 気がつけば、掌のじっとりと汗をかいている。右近は内藤に出し抜かれた衝撃で、うまく頭が働かない。

 誠之進も眉根を寄せ考えこんでいたが、
「さすが商人だな。武士よりも余程目端がきく…。恐れ入った」
さして動じた様子もなく、商人一同をずいと見回すと、感心したように大きくうなずいた。

(誠之進…?)

 寅三郎は首を垂れながらも、してやったりと唇の端で笑っている。
誠之進は真摯な眸で続けた。
「しかも、武士と違って行動が速い。我らも見習わねばならぬ…」
「もったいないお言葉にございます」
「で、『救い米』を手配したと申したからには、島崎屋、そのほうら藩に米を献上してくれるつもりだったのだな…」
「は……」
寅三郎が薄笑いを浮かべたまま固まった。

(誠之進…やるではないか…)

 寅三郎は懐から手拭いを取り出し額の汗を拭った。
「そ、それは藩にお買い上げいただこうと、手前どもが用意していた米でして…」
「なれど、悲しいかな藩庫は空っぽじゃ。御用金の上乗せじゃとおもうて、ここはひと肌脱いでくれ」
誠之進は傲慢でもなく、卑屈でもなく、居並ぶ商人たちの前でごく自然に頭を下げた。

「溝口様に見込まれるだけあって…さすがは島崎屋さんだ。我々とは出来が違う…」
角屋が間髪を入れず、大袈裟な身ぶりで誠之進に同意した。老舗の北前問屋は、最近のしあがってきた島崎屋が目障りなのだろう。他の商人も似たり寄ったりの表情を浮かべて首肯した。

 誠之進の島崎屋への反撃は、あっさりと面打ちを決めるかのような小気味良さがあった。右近は洩れそうになる笑みを堪えて真顔を保った。

 血の気を失いかけていた右近の頬に生気が戻ってくる。心にも少し余裕が生まれた。
「島崎屋、主人に申し伝えよ。献上の米、ありがたく頂戴すると。加えて、近頃羽振りの良い島崎屋には御用金・五千両を申し付けるよう、上席家老・溝口主膳様から承ってきたのだが…」

「こ、米を献上した上に、五千両ですと…?」
先程の得意満面はどこへやら。寅三郎の声は上ずり、額に脂汗が浮んでいた。主人・宗七に後でこっぴどく絞られるのは間違いない。

 右近は桜色の唇を綻ばせ、菩薩のような笑みを浮かべて言った
「いかにも。まこと島崎屋は商人の鑑。我ら城の武士も今町に足を向けては寝られぬのう、誠之進殿?」
「うむ。拙者からも殿や父・溝口主膳に、島崎屋の見上げた心がけ、しかと伝えておくぞ。殿より褒美の品を下賜されるやもしれぬ。楽しみに待っておれ」
誠之進が爽やかな笑みを浮かべて加勢した。
右近は淡々と寅三郎に言い渡した。
「改めて主人・宗七と面談したおり、御用金の件を申し渡す。今日のところはこれにて帰れ。寅三郎とやら、御苦労であった」

 殿様の名まで出されては、もはや逃げ場はない。寅三郎は声もなく平伏した。


つづく


写真は『moonlit』さんからお借りしています。

 
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