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(はなからこれが目的だったのだな…。ふたりで私を辱める気か?!)
丸腰でさえなければ、何とか切り抜けてみせるものを…。右近は奥歯をぎりっと噛み締めた。だがここは茶屋だ。茶屋の座敷とは芸者の唄や踊りを楽しみ、歓談する場所である。遊女を呼んで寝る場所でもなければ、男女が密会する出会茶屋でもない。普通なら座敷で色事におよぶなど、茶屋の主がいい顔はしない。
だが相手は次席家老の内藤帯刀だ。茶屋の主ごときが逆らえる相手ではなかった。
右近は帯刀に羽交い締めにされながらも、必死で考えを巡らせた。
不思議なことに嶺次郎が座敷に入ると、帯刀から肉食獣のようなぎらつきが消えた。弟が来たことで妙に和んでいるのだ。帯刀の弟贔屓は城下でも有名だった。あんなろくでなしを何故あそこまで面倒みるのかと、家中でも陰口を叩かれているほどだ。
だが帯刀が内藤家に婿に入ったてん末を知れば、うなずける部分もあった。帯刀は婿入りの時、部屋住みの実弟・嶺次郎を一緒につれて本家に入った。親戚とはいえ他家に入ったのだ。まことの身内は嶺次郎ただひとり。やはり、血を分けた弟を頼みとする部分が大きかったのだろう。
一度は惣一郎とのことを知られ動揺した右近だが、
(慌てるな。何も現場を見られたわけではなし…知らぬ顔を決め込んでいればよかろう…)
相変わらず片腕で右近を押さえ込み、空いた手で執拗に胸を撫で回しているが、下半身にはまったく触れてこない。もしかすると本気で右近を抱く気はないのかもしれない。右近に脅しをかけるつもりか、弟のために斯様は茶番劇を仕組んだのか…?
いずれにせよ、わざわざお膳立てして弟を呼んでやるあたり、兄馬鹿もここに極まれりということか。
(愚かな…)
そう考えると右近の心は嘘のように落ち着いた。しばらく相手の好きにさせ、様子を伺うことにした。
「しかし、その枕絵の小姓、ほんにそなたによう似ておるのう…。相手役が誠之進に生き写しというのも面白うてな…ほれ、嶺次郎、他の絵も見せてやれ」
弟をけしかけながら、帯刀は戯れに右近の胸の突起を弄くった。
「…儂は衆道の趣味はなかったが、そなたに触れていると、何やら妙な気分になってくるのう…。嶺次郎が執着する気持ちがわからんでもない」
右近の耳朶に触れんばかりに帯刀が囁いた。太い指が間断なく胸への愛撫を続ける。
猛烈な嫌悪感の裏側で、久しく忘れていた感覚が躯の奥から蘇った。右近は内心舌打ちしたが、かすかな疼きはまだ十分理性で押さえ込める程度のものだった。
兄に命じられるまま、嶺次郎は薄笑いを浮かべて画集をぱらぱらとめくった。
「これなどいかがじゃ? 一度そなたにこんな格好をさせてみたいものよ」
絵の中で、若侍が小姓の足を肩に担ぎ上げて挑みかかっている。目を覆いたくなるような痴態に右近は思わず顔を背けた。
帯刀は右近の反応を見て、さも可笑しそうに喉をならした。
「右近、生娘のようなふりをしても騙されぬぞ。そなた…江戸では惣一郎様に随分とかわいがられたそうだな」
「右近が伽をするようになってから、惣一郎様は吉原へはぴたりとゆかれなくなったそうです」
嶺次郎はしたり顔で語ると、右近の前ににじり寄った。
「さあ、どんな風に惣一郎様を歓ばせたのか…、我等にも見せてもらおうか」
嶺次郎ははだけられた右近の胸に視線を落とした。淡い薄紅色の突起の周りを、帯刀の太い指が円を描くように動いている。嶺次郎の喉が音をたてて鳴り、目は指の動きに釘付けになっていた。
「…今日こそは逃さぬぞ、右近」
嶺次郎は期待にうち震えながら右近の袴の紐に手をかけた。
「触るな」
右近が低く呟いた。氷室の風が吹き抜けるような声音に嶺次郎が一瞬ひるんだ。右近は相手を見ようともしなかった。
右近は藩校時代から嶺次郎を軽蔑しきっている。
弟がひるんだのを察し、帯刀が助け舟を出した。
「嶺次郎、いかがした! 夢にまでみた右近との逢瀬、今ここで果たしてみせよ!」
「ふふっ…」
右近の桜色の唇から嘲笑が洩れた。
上半身を裸にむかれ、背中から帯刀の胸に抱き込まれている。不利な体勢にあることは否めないが、嶺次郎にたいして右近はあくまで高圧的な態度を崩さなかった。
「おぬしは昔から、数をたのまねば夜這いもかけられぬ臆病ものよ…‥」
「黙れ!」
嶺次郎が膝立ちになって手をあげた。鈍い音で右近の頬が鳴る。右近は声ひとつ洩らさず、ちいさく鼻で笑った。
「いくつになっても度しがたい愚か者め」
「おのれ…目にもの見せてやる!」
頭に血が昇った嶺次郎は、引きちぎらんばかりに右近の袴の紐をひっぱった。
「兄上とふたりで、腰が立たぬようになるまで嬲ってやるわ…!」
(ふん…腰が立たぬようになるのは貴様のほうだ…ほれ、もっとその馬鹿面で近寄ってこい…)
相手が袴を脱がそうと身をかがめてきたとき、
(くらえ!)
右近は下半身をするどく捻って、膝頭を嶺次郎の股間にめり込ませた。どすっと鈍い音に続き、苦悶の呻きが洩れた。
「くうっ…」
嶺次郎は両手で股間を押さえ、どうと音をたてて仰向けにひっくりかえった。
「嶺次郎!」
慌てた帯刀が一瞬力を緩めたすきに、右近は戒めから逃れた。
「嶺次郎、しっかりいたせ!」
白目を剥いて天井を見上げる弟を帯刀がゆさゆさと揺すった。
右近は素早く襖の近くへ逃れると、小袖と襦袢を元に戻して、袴の紐をざっと結び直した。
呻き苦しむ嶺次郎を介抱しながら、帯刀が右近を振り返った。
「おのれ右近…よくもわが弟を…」
「はて。乱暴を働こうとしたのはどちらにござります? 世間に知れて物笑いの種になるのは嶺次郎殿のほうではござりませぬか」
右近はわずかに乱れた鬢を指先で整えつつ、傲然と言い放った。
「ほざきおったな…」
「…早う、医者に見せたほうがよろしいのでは。大事なものがつぶれておるやも知れませぬ」
「貴様…」
地を這うような声音で帯刀が右近をにらみ上げた。さすがに一言多かったかと思ったが、もはや謝罪する気などおきなかった。右近は長居は無用と襖を半分ほど開けた。目の端で廊下をうかがえば、階段を昇りきったあたりで孫作とさっきの半玉が不安げにこちらを見ている。
「白菊丸様!」
小声で鋭く呼びかけた孫作に、右近は大事ない、とうなずいてみせた。
「では某はこれにて」
右近は一礼して座敷を出ようとした。
「…待て」
「まだ何か?」
嶺次郎をこけにされ、一度は怒髪天をついた帯刀だったが、ふたたび瞳に落ち着きを取り戻していた。落ち着きというよりは、何かたくらんでいる目だった。
「そなたに良いことを教えてやろう…」
右近は左足を廊下に踏み出したまま、目の隅でうっとおしそうに帯刀を振り返った。帯刀は自信ありげに薄い笑みを浮かべている。
「…そなた、誠之進に肩入れしても無駄じゃ」
「な…」
「あの男は早晩失脚する」
「…?」
「殿から三郎ぎみの養育を任されながら…。ふっ…何を教えているかと思えば…」
思い出し笑いに帯刀の頬が緩んだ。
黒々とした不安が突如雨雲のごとく広がった。右近は胸に異様な圧迫感を覚えた。気がつけば肩で浅く息をついていた。
「殿のお耳に入れば、ただでは済まされぬぞ」
「どういう…ことだ?」
右近は声の震えを隠しきれない。
「知りたいか?」
喉が鳴る。
「知りたくば、『花心亭』をのぞいてみよ」
「花心亭?」
「そなたも聞いたことはあるだろう? 藩公の別邸だ。数年前までは鷹狩りのときによく利用された。名水の湧く井戸があり、茶室も作ってあったものを…近頃では倹約のため、門を閉ざして誰も使うてはおらぬ」
「それが…」
「誠之進と三郎ぎみが遠乗りに出かけるとき、そこで『休息』をとっているようじゃ」
右近はさっき帯刀が言った言葉を反芻していた。
『奴は奴でお楽しみだからな…』
口の中がからからに渇いていた。
「それが…何だというのです?」
右近はかすれた声でようやく聞き返した。
「…行ってみればわかる」
「……」
「そなたに見る勇気があればの話だが…」
(この男…一体何を言っている?)
「守役殿の忠勤ぶり、己が目でしかと確かめてくるがよかろう…」
帯刀の言葉が右近の頭の中で割れ鐘のように響いていた。
「どうあっても嶺次郎に情けをかける気はいようだが…。まあその儀は目をつぶってやってもよい。玉の肌も捨てがたいが、儂は何よりそなたの頭脳を買っておる。藩政の今後については、石頭の主膳などより儂とそなたのほうが余程意見が合うのではないか?」
右近の混乱した頭では何を言われているのかわからなかった。
「惣一郎様とのことも…、そなたが妙な動きをせぬかぎり、この帯刀の胸の中に納めておいてやろう。勘定吟味役が二十歳を過ぎて尻奉公をしていたとなれば…そなた、周りのものに示しがつかぬであろう? 嶺次郎にも決して口外させぬ」
「そ、そのような戯れ言…っ」
「誠之進に愛想がつきたら、いつでも儂のもとへ参れ…悪いようにはいたさぬ」
帯刀は残酷なまでに優しい口調で右近を誘った。
うすら寒いような敗北感が右近を包んだ。
右近はもはや帯刀を振り返らず、茫洋とした眼差しで座敷を辞した。魂の抜けた人形のように、おぼつかない足取りで茶屋の廊下を歩く。
「白菊丸様! お、お怪我は?!」
孫作がまろぶように廊下をやってきた。
「大事ない」
「な、なれど、お召し物が…」
孫作は襟元と袴の紐の乱れに気付いたようだ。右近をものにしようとした輩を何度も退けてきた孫作だ。些細なことでもすぐに気付いてしまう。
「…孫作、案ずるな。何もされておらぬ」
老僕を安心させたい一心で、右近は懸命に笑みを作った。
***
孫作や若党を連れ、右近が駕篭で屋敷に帰りついたのは五ッ半(午後九時)を過ぎていた。
「内藤様といったいどんなお話をなされたのですか?」
右近の居室で着替えの手伝いをしながら、孫作がしきりに尋ねてくる。やはり主人の尋常でない様子を案じているのだろう。
「御用金や渡海免許の話しじゃ…」
右近が言葉すくなに答えると、
「いいえ、それだけではござりませぬでしょう? お顔の色が真っ青です。白菊丸様、この爺にはお話いただけませぬのか…?」
「役目の話じゃと申しておるであろう」
「ならば、何ゆえ、あのうつけの嶺次郎が同席しておったのです? 彼奴が帳場で話しているのを聞き付けたときには、生きた心地がしませんでしたぞ。半玉どのに座敷の様子をさぐってくれと、頼んでおったところでした。…あの大うつけ、まさか性懲りもなく白菊丸様に…」
「だから、何もされておらぬと申したであろう?」
しつこく食い下がる孫作に、右近は申し訳ないと思いつつも苛立ちを隠せなかった。
「孫作。今宵はもう用はない。下がって休むがよい」
「白菊丸様!」
「…私も疲れているのだ。悪いがひとりにしてくれ…」
そう言われては、家来の分際でこれ以上さしでた口はきけない。孫作は悄然として右近の居室をあとにした。
*
孫作を下がらせて後、着流し姿の右近は縁側でひとり月を見上げていた。
明月が初秋の庭を皓々と照らす。薄の穂がさわさわと夜風に揺れていた。いつもは耳に心地よい虫の音も、今夜はどこか物悲しく聞こえた。
縁側に座り、たてた片膝を抱き込むようにして、右近は沈思に落ちていた。
内藤に江戸でのことを知られていた。惣一郎の寵愛を受け、二十歳をとうに過ぎた自分が伽をしていたこともすべて知られていた。今宵の招待の目的は、右近に脅しをかけることだった…。勘定方内部の不正を告発しようという主膳の意図など、内藤はとっくに見抜いていたはず。こちらが探索をすすめている間、むこうも溝口家や右近の身辺を探っていたに違いない。そして帯刀は、うつけの嶺次郎を江戸へやったことが奏功し、まんまと右近の弱味を握った。
惣一郎の伽をしていたことを、役所の人間もだが、母と誠之進だけには断じて知られたくなかった。内藤はこのことを最大限に利用するつもりだろう。
そして誠之進に対しては…。
右近のもっとも恐れていたこと、あれほど誠之進に忠告した筋書きが、すでに現実のものになっているという。
(ばかな…あれは私と溝口家の間に亀裂を入れるための、内藤の策略だ。のせられてはならぬ…)
誠之進と三郎が抜き差しならぬ仲だと、帯刀は仄めかした。忍びでも使って調べさせたのだろうか。まるで己の目で見てきたかのような口ぶりであった。
夜がふけ、十五夜の月はいよいよ明るさを増した。誠之進も今宵は城で月見か…。
西の丸では源蔵や小兵太も交えて主従楽しく宴を開いているのだろうか。それとも三郎が本丸に父君を訪ない、誠之進もそれに付き従っていったのか。
それとも…。
誠之進と三郎はいずこかへ出向き、二人きりで月を愛でているのだろうか?
寄り添って月を眺めるふたりの姿が右近の脳裡に浮かんだ。その映像のなまめかしさに右近は苦し気に息をつくと、立てた膝に額を強く押し付けた。
『男同士で手ぬぐいを換えるなどばからしい。女人のほうがずっといいに決まってる』
まるで護符か何かのように、右近は誠之進の藩校時代の言葉にすがりついていた。三郎がどんなに慕わし気に誠之進を見つめても、ふたりが片時も離れず寄り添っていても、すべてはお役目熱心ゆえだと、懸命に自分に言い聞かせてきた。
だがその一方で…。右近は心のどこかで気付いていた。十年前から、ずっと誠之進だけを見つめてきたのだ。愛しいものの変化に気付かぬわけがない。
誠之進の三郎への傾倒ぶり…。最初は殿や若君への忠義なのだと思った。年の離れた弟を慈しむような、肉親のごとき愛なのだと自分にいいきかせた。だが、去年の秋頃から…三郎を見つめる鳶色の瞳に、それだけではない熱っぽいものが混ざりはじめた。
羽織りを背中から着せかける仕種、物を手渡すとき、かすかに触れるふたりの指先…、そっと見交わす目と目…。誠之進の一挙一投足を追っていれば、濃やかなふたりの様子は嫌でも目に入ってきた。何気ない日々のやりとりの中に、主従の枠を越えた危ういものが煌めきこぼれていたのだ。
(誠之進が三郎に惹かれている…?)
認めたくはなかった。誠之進は男に恋などしない人種、いずれ妻を迎え、よき父親となる人間だ。そう信じたからこそ、命がけの想いを胸の内に秘め、右近は今日の日まで生きてきたのだった。
それを根底から覆すような内藤の一撃だった。
内藤はあの忌わしい枕絵同様、事実を右近の前に広げてみせただけなのかもしれない。
(…だから、一日も早く三郎を養子に出してしまいたかったのだ。邪魔ものは一刻も早く排除したかったのに…。時すでに遅しというわけか)
もはや身を起こしているのも辛くなった右近は、室内に戻り、疲れた躯を畳の上に横たえた。横臥したまま、月明かりにぼうっと浮かび上がる萩や薄を見つめた。
(しかし、よくもあれだけ誠之進を前に御託を並べられたものだな。もっともらしい理屈をつけ、三郎への忠儀を政治的に利用されぬよう気をつけよ、とかなんとか…我ながら呆れ返る雄弁だ)
気がつけば視界がぼやけ、涙が頬をつたっていた。
(何のことはない。藩校設立以来の秀才の正体は、ただの嫉妬にかられた大うつけよ…)
一度流れ出した涙はもはや止めようがなかった。右近は胎児のように体を丸め、懸命に嗚咽をかみ殺した。
まことに、もはやどうにもならぬことなのか?
このまま黙って三郎に誠之進をくれてやるのか?
藩校時代からすっと想い続けたこと、誠之進に打ち明けずに終わるのか?
このまま口をつぐんで誠之進の友でいられるのか?
「それは…できまい」
愛し合うふたりの側になどいられない。
ならば、せめて誠之進に想いを打ち明けたい。打ち明けたら最後、誠之進との友誼は終わるかもしれない。
それでも、どうせ終わるものならば、いっそ…。
乱蝶 了
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