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「白菊丸様、爺が作りました炒り卵、もう一口だけでもお召し上がりになりませぬか?」
熱心に勧める孫作が気の毒で、右近はうなずいてあと少しだけ口にした。だが胸がつかえてそれ以上は無理だった。
「孫作、うまかったぞ」
右近は力なく微笑むと静かに箸をおいた。
ここ数日、櫻田邸では食事の膳を囲むたびに、孫作と右近の間でこんなやりとりがなされていた。右近はもともと健啖家ではなかったが、ここまで食が細ると母・結衣もさすがに心配になってきた。
「右近殿、具合が悪いのなら、しばらく出仕を控えてはいかがです? 近頃のそなたの顔色は尋常ではありませぬ」
「母上…」
「明日、医師の桂庵先生がお越しになりますから、そなたも見てもらいなさい」
右近は薄い笑みを浮かべると、黙って首を振った。
「またそのような聞き分けのないことを。…ならば、せめてそなたも人参を煎じて飲みなさい」
「あれは母上のお薬にござります」
「私は最近調子がよいのです。そんな青い顔をして…これではどちらが病人かわかりませぬ」
「母上、大事ありませぬ。おそらく夏の疲れが出たのでしょう。あと少しで調査中の一件もめどが立ちますゆえ…ご心配にはおよびませぬ」
「右近…」
「母上のほうこそ、しっかり養生していただかねばなりませぬ。母上がお元気になられれば、私の疲れなど、すぐにも吹き飛んでしまいますぞ」
朗らかに笑みを見せようとする右近だったが、目の下の隈は隠しようもなかった。孫作と結衣は不安げに目を見交わした。
***
気鬱の病は十五夜の夜から始まった。右近は次席家老・内藤帯刀にひとり茶屋へ呼び出された。
帯刀は例の枕絵を手に入れ、江戸詰めの頃、右近が惣一郎の伽をしていたことまで調べあげていた。
『このことを、誠之進は存じておるのか?』
帯刀の藩金流用の事実が公になれば、報復として右近と惣一郎の関係も世間の噂となるだろう。勘定吟味役が二年前まで若殿の伽をしていたなど…お笑いぐさである。家中の者に知れれば、尻奉公と陰口をたたかれるだろう。ただ、相手は何といっても若殿だ。主の寵愛を受けただけの右近が腹を切る必要はない。
右近の不安はもっと別のところにあった。己の面子もだが、世間の噂によって母が傷付くこと。何よりも誠之進に知られることを右近は恐れていた。帯刀は憎らしいほどに右近の弱点を心得ていた。
『そなた、誠之進に肩入れしても無駄だぞ…』
『奴は奴でお楽しみだからな…』
『…花心亭をのぞいてみよ。…そなたに見る勇気があれば、の話しだが』
帯刀は追い打ちをかけるように、誠之進と三郎がすでに恋仲だと仄めかした。右近の恐れていた筋書きが現実のものになっているという。そういう噂が流れただけでも貴公の立場が危ない、と誠之進に忠告した右近だったが、あろうことか内藤帯刀に尻尾をつかまれているのだ。誠之進はこれで喉頸を押さえられたも同然だった。帯刀は必ずや政争に利用してくるだろう。
喉頸を押さえられたは自分も同じ…。島崎屋と内藤帯刀を仲たがいさせようなどと考えていた矢先、逆に向うから仕掛けられてしまった。
『誠之進に愛想がつきたら、いつでも儂のもとへ来い。…悪いようにはいたさぬ』
長年の付き合いのある右近と溝口家の間にくさびを打ち、右近を己の陣営に引き入れようとは。敵ながらあっぱれな図太さである。
だが、右近にはもはや政治的なかけひきなど二の次だった。千々に乱れた心は、右近から明晰な思考力を奪いとっていた。
勘定方の御帳部屋には毎日顔を出しているが、仕事に集中できない。他のものに気付かれるようなへまはしないが、部下の筧真之介は明かに調子の悪そうな右近を気づかっている。自分で処理できる案件はあえて右近に報告してこない。内藤帯刀を脅し、逆に口封じにあった下級官吏・田村蓑助の遺品の探索も、右近が特に指図せずとも真之介が配下のものを動かしてくれている。
部下に任せきりなのを恥ながらも、今の右近は平静を装い出仕するのが精一杯だった。
爺やの孫作も何とか右近の食欲をさそうべく、あれやこれや手を尽くして食材を調達してくる。しかし、孫作の気遣いをありがたく思いながらも、右近の箸はすすまなかった。
あれから一度、城中の廊下で誠之進と出くわした。顔を合わせた途端、右近は思わず目を逸らせてしまった。怪訝そうに歩みよってくる誠之進…。
「右近、いかがした?」
少し見上げるような位置から降ってくる、暖かく案ずるような声音。
愛しい鳶色の瞳を見たら最後、右近は何を口走るかわからなかった。うつむいたまま、かたくなに目を合わすまいとした。
「何でもない…。先を急ぐ故、御免」
右近は誠之進の脇をすり抜けるようにして、早足でその場をあとにした。
「おい、右近! いかがしたのだ? 貴公、顔色が悪いぞ?!」
追いすがる声を振り切るように、
「夕べ寝不足だっただけだ。心配無用…」
右近はほとんど走りださんばかりに歩みを速めた。
「右近…」
納得がいかぬような呟きを洩らしたが、誠之進はそれ以上右近を追いかけてはこなかった。
(誠之進…!)
自分から逃げておいて、右近は追ってこない誠之進の薄情を恨んだ。
***
八月も下旬に入り、秋の気配が色濃くなってきた頃、ひとつの事件があった。
月曜の朝、御帳部屋に右近が出仕すると、筧真之介が待ちかねたように側へより、耳元に鋭く囁いた。
「右近様、例の件、進展がありましたぞ!」
「…まことか?」
真之介は瞠目する右近の袂をひっぱって御帳部屋を出ると、近くの小部屋に入った。真之介は神経質そうにあたりを見回し、
「間者でも潜んでいては一大事。右近様、お耳を…」
真之介は右近の耳元に口を寄せ、仔細を語りはじめた。
内藤帯刀の藩金流用に加担していた田村蓑助の女は意外な場所にいた。遊女や芸者の類いではなく、今町湊へ行く途中の、馬市で有名な黒井宿の飯盛り女だった。年はまだ十九だという。女は田村が夜道で斬られたことを噂で知り、生きた心地がしなかったという。田村は自分に万一のことがあれば、上席家老の溝口主膳の渡すようにと、風呂敷包みを女に預けていたらしい。そうは言われていても、一介の飯盛り女の身で家老屋敷にのこのこ出かけていくわけにもいかず、女は途方にくれていた。
女を見つけだした草の者から報告をうけ、真之介が会いにいった。真之介の実直な態度が相手を安心させたのか、もはやひとりの胸におさめるのが辛くなったのか。四半刻も田村の思い出話しをするうちに、女は一部始終を真之介に打ち明けた。だが、預かりものは主膳に直接渡すといって聞かぬらしい。
ともあれ、首尾よく女の居場所をつきとめた真之介を右近は手放しでほめた。
「でかしたぞ、真之介!」
「いえ、私の手柄ではござりませぬ。褒美なら勘助(草の者の名)にたっぷりやってくださいませ」
真之介は月代のあたりを掻きながら苦笑した。
「して、女をいつ御家老と対面させますか?」
「そうだな…」
右近は一瞬ためらった。
事は一刻を争う。それなのに、はっきりしない右近を真之介が訝しげに見た。
「…近頃、監視の目がきつうなってな。内藤の手のものが私や誠之進の周囲をうろうろし始めた。御家老との接触も時と場所を選ばねばならぬ」
まるきり嘘ではなかったが、右近は苦し紛れにそういった。
まだ内藤と対決する決心がついていない。いましばらく考える時間が欲しかった。
眉根を寄せて考え込んだ右近に、真之介が案ずるような声音で言った。
「右近様、最近お疲れのご様子とお見受けしましたが、やはりそういうことでしたか…」
真之介の誤解をこれ幸いと、右近は力強く首肯した。
「心得ました。今まで以上に、私が右近様の手足となって働きますゆえ…どうぞ何なりとお申し付けください」
「…真之介」
「女の身辺は勘助に警護させています。田村の遺品だけでも早くこちらの手に渡してくれるよう、もう一度女を説得してみましょう」
右近は返す言葉もなく無言でうなずいた。
真之介の気配りを申し訳なく思う。自分がふがいないばかりに…。
(許せ…真之介)
心の中で詫びながらも、今、本心を明かすわけにはいかなかった。
***
ふたたび月は欠け、庭先に漆黒の闇が満ちていた。室内のほの明るい行灯が唯一の光源である。
右近は夕餉のあと、自室の縁側でひとり沈思に落ちていた。
袷を着ていても、夜風が身にしみる季節になった。首筋のあたりがうすら寒かったが、夜の澄んだ空気を肺一杯に吸い込めば、頭の冴えも少しは戻ってきそうに思えた。
女を主膳に引き合わせ、田村の遺した証拠を手に入れれば…。藩金流用の探索も一段落。上席家老・溝口主膳にと名指しで言い残したほどだ。田村の残した証拠は内藤にとって相当不利なものと期待していいだろう。誠之進が言ったように、勘定吟味役として監査にあたった右近の役目はここまでのはずだ。右近を登用した主膳に対する義理は果たせたと思う。
肩の荷が下りた安堵と、役目から解放されたいくばくかの寂寥感。
まだ抜け荷の探索が残ってはいるが、証拠をあげるのは現実問題かなり難しい。この先何年もかかるかもしれない。仮に密貿易の証拠を掴んでも、いざとなれば内藤は島崎屋ひとりに罪を帰せ、知らぬ顔を決め込む可能性もある。抜け荷の証拠が上がるまで待って、徹底的に政敵を潰したい主膳の意図はわかるが、やはりここは先送りせずに、藩金流用の件でただちに告発すべきだろう。
もはや証拠はこちらが手に入れたも同然。慎重に時期を選ぶ必要はあるが、内藤をいつ糾弾するかは主膳が決めることだ。無論、事が明るみにでれば、右近に対する内藤の報復は避けられないだろう。だが、それを恐れて責務をまっとうしないわけにはいかない。一度でも内藤の脅しに屈したら、この先いいように利用される。
『公務に私情をはさんではならぬ。私も…腹をくくらねばなるまいな』
すだく虫の音に耳を澄ませながら、右近は闇にむかってつぶやいた。
吟味役としての己の進退は、ほぼ決心がついた。あとは誠之進への想いにどんな形で決着をつけるのか…。
一瞬輝きを取り戻した月がふたたび群雲に覆われるように、右近の思考はまたしても混沌とした情念に支配されつつあった。
*
誠之進と三郎…ふたりはまことにもう契りを交わした仲なのだろうか? もし、今、自分が想いを打ち明けたら…誠之進はいかがするであろう?
少年時代から今日の日まで、誠之進が自分にたいして抱いていたのは、やはり友情だけなのか。
誠之進が男に恋などしないと信じていた頃は、それ以外の答えなど考えもしなかった。だが、もしそうでないのなら、誠之進はこの長い年月のどこかで、自分を愛しく思ってくれた瞬間はなかったのだろうか? 大切にされていたのは間違いない。十代の頃、言い寄る若侍から自分を守ってくれていたのは事実だ。あながち都合のいい妄想というわけでもないだろう。
今町湊のあの夜は?
江戸藩邸で暮らした日々は?
友になろうと手を差し伸べてくれた、最初の出会いのときは?
かくも長い歳月、誠之進のもっとも親しい友として側にいながら、もしかしたら、自分は誠之進の胸のうちなど何一つわかっていなかったのではないか?
なれど−。
それはすべて過去の話。誠之進の心のうちがわかったからといって、今さらどうなるのだ? 誠之進の心が今、三郎のものであるなら、自分が想いを打ち明けたからといって、誠之進が三郎を捨てるわけがない。そんな不実な男ではあるまい。
ならば黙ってこのまま身をひくのか。
それではあまりにも…。
『己が哀れではないか…』
右近は縁側に腰掛けたまま、両手で己が身体を抱きしめた。闇にじっと目を凝らしていると、江戸を発つ前に惣一郎にいわれた言葉がふと脳裡に浮かんだ。
『身供がここまで仕込んでやった躯で、一度誘ってみたらどうだ』
『…男など抱けぬといっていてもわからぬぞ。そなたは特別じゃ。…この膚に触れて勃たねば男ではないわ』
惣一郎様がそこまでおっしゃるのなら…。万に一つくらい、誠之進が私を受け入れてくれることもあるかもしれぬ。
右近の中でふたつの声が言い争う。
『もはや失うものなどないはずだ。想いを打ち明け、誠之進に挑んでみたらどうだ』
「ばかな、己の年を考えろ。前髪立の頃ならともかく、二十六にもなってそのような浅ましいことができるか!」
『なれど惣一郎様はおまえの年など全く意に介されなかったではないか? 三日にあげずお呼びがかかっていたではないか』
「そ、惣一郎様と誠之進とでは違う…」
『何が違うというのだ、同じ男ではないか?』
「私はなにも…誠之進と寝たいのではない…」
『…偽りを申すな』
「…偽りではない。三郎さえいなければ、誠之進の心が、魂が私のものならば、一生契らずとも悔いはない!」
『この期に及んできれいごとはよせ。誠之進と寝たいのであろう? 何度夢に見た? 何度誠之進を思いながら己を慰めた?』
「そ、それは…」
『今、この瞬間も考えているのだろう? 誠之進に逞しいものを己の菊座に迎え入れ…、誠之進に極楽を見せてやるなどわけもない。三郎などより自分のほうがずっと…』
「だ、黙れ、そのような世迷い言!…私は、私は…」
理性と情念。ふたつの相反するものが右近の内部で激しくぶつかり合った。黒々とした海原に荒れ狂う嵐は止まるところをしらない。失いかけて、なお一層燃え上がる誠之進への恋心と、三郎への押さえがたい嫉妬。
生まれつき、容姿、頭脳とも人よりはるかに恵まれていた右近は、他人をねたんだことがなかった。武芸の腕をあげたのは努力のたまものである。己より強い相手に負かされても、次こそはと逆に稽古に励む右近だった。強い相手や優れた技の持ち主に嫉妬を感じることなどなかったのだ。
その右近が生まれて初めて知った『嫉妬』という感情。胸の奥深く潜行して沸々と煮えたぎるかと思えば、突如として紅蓮の炎のように吹き出し、牙を剥いて襲いかかった。
かくも醜い感情が己の中に潜んでいたとは一一。右近にはそれが大きな衝撃だった。このどす黒い感情を制御できねば、自分は夜叉になってしまう…。
気が付けば、血の出るほど唇を噛みしめていた。
心の闇は無月の夜より深い。
つづく
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