十九の巻「花心亭」2

by 戸田采女


 九月に入った非番の日曜、右近はある決心を胸に西の丸を訪なった。

 玄関で応対した近習の者に用向きを告げていると、藩校時代からの友人、吉田小兵太が前を通りかかった。
「よお、右近」
聞き慣れた友の声に振り向けば、小兵太が釣り竿片手に立っていた。
「小兵太、おまえも今日は非番か?」
右近が軽く顎をしゃくって釣り竿をさすと、
「まあな」
小兵太は陽に焼けた顔を歪めて、悪童のような笑顔を見せた。
一応『馬廻り頭』と言う肩書きだが、藩校でも剣術指南を勤めたり、小兵太はかなりの自由を許されている。この男は自分が決めた時が非番なのだろうなと、右近は内心苦笑した。

「ところでおぬし、今日は何用で?」
右近は一瞬口ごもったが、
「誠之進に少し話があってな…」
小声ぽつりと呟いた。
「そりゃ気の毒だったな。誠之進たちは今朝早くに出かけちまっ…」
小兵太は言いかけてあっと口元を押さえていた。
「誠之進…たち?」
右近は自分でもこめかみがひきつるのがわかった。小兵太も何か感じたのだろう。気まずそうに続けた。
「あ、いや、誠之進と三郎ぎみは…今朝方、遠乗りに出かけた。日暮れまでは戻らないぜ」
小兵太は隠すわけにもいかず、渋々説明した。

 『遠乗り』という言葉に右近は過敏なまでに反応した。胸の鼓動が急激に高まり、軽い吐き気すらこみあげてきた。
「おい…どうした? 気分でも悪いのか?」
心配そうに右近の顔を覗き込む小兵太に、
「なんでもない。誠之進にまた出直すと伝えておいてくれ」
右近は感情を殺した声音で答えようとした。
「…おまえ、ほんとに顔色悪いぞ?」
「今日はこれにて失礼する…」
「何だったら駕篭でも呼んでやろうか?」
「心配無用…」
「おい、右近…!」

 右近は案ずる小兵太を振り切って、逃げるように西の丸をあとにした。




 右近は一旦屋敷に戻るとまっすぐに厩舎へ向かった。下男と一緒に馬の世話をしていた孫作が、帰りの早すぎる主を訝しげに見上げた。
「おや白菊丸様、お城へ行かれたはずでは…? 誠之進様にはお会いできなんだのですか?」
右近は答えず、
「吹雪に鞍をつけよ」
有無を言わせぬ口調で下男に命じた。

 右近はひらりと栗毛の愛馬にまたがり、手綱をとると無言で屋敷を出ていこうとした。
「白菊丸様、どちらへ参られるので?」
不安にかられて追いすがる孫作に、
「遠乗りじゃ。孫作、危ないから下がっておれ!」
一声鋭く叫ぶと、門番に屋敷の門をあけさせた。

「白菊丸様!」
孫作のしわがれた叫びが背後で聞こえた。
右近はもはや振り返りもせず、愛馬の脾腹を蹴ると、一路荒井宿を目指した。

 『花心亭』

 内藤帯刀の言ったことがまことなら、ふたりはそこへ向かったに違いない。どんな残酷な現実が待っていようと、右近は己が目で確かめずにはいられなかった。




 一方、昼前に荒井に到着した三郎・誠之進主従は、いったん花心亭に入り井戸水で喉を潤した。携帯用の竹筒に水を満たし、手桶に水をくんで門前につないだ馬にも飲ませてやった。

 正門は閉め切ったままになっており、馬を中に入れることはできない。誠之進はいつものように近くの雑木林で木に馬をつないだ。

 ふたりは馬の背から竹駕篭を降ろすと、仲良く林に分け入っていった。今日の目的は茸狩りだった。二、三日前、雨が降ったこともあり、林のあちこちに様々な色や形の茸がこんもりと群生していた。

「若! おもしろいように採れますなあ!」
茸狩りなど、子供の頃に下男の文吉に連れられていったきりだ。誠之進は昔にかえったように、柄にもなく嬉々とした声をあげた。
「お、こちらにも立派な茸が…」
落ち葉の間から、傘の径は三寸、高さ五、六寸の大ぶりな茸がすっくとのびていた。近寄って見れば、茎の根元が大きく卵型にふくらんでいる。茎の上部にはつばのような部分があった。傘の色はねずみ色、裏のひだは白っぽい色をしている。

 一本でやたら存在感のある茸だった。

(松茸のように少し焙って醤油をたらして…。うむ、小兵太と一杯やるのによさそうだ)

 誠之進は茎をむずっと掴んで引き抜くと、
「三郎ぎみ、御覧下され! 斯様に立派なものがございましたぞ!」
主に向かって嬉しそうに茸を振り回した。

「どれ…」
少し離れた場所で、三郎は倒木に群生する小型の茸を採っていた。呼び声に振り返ると、駕篭をその場に残し、下草を踏みしめながら誠之進のもとへやってきた。

「ほれ、いかがです?」
誠之進は親指と人さし指で茸の茎をつまみ、得意げに三郎の眼前に差し出した。
目を凝らした三郎が血相を変えた。
「誠之進、それを早う捨てよ!」
「は…?」
不思議そうに首をかしげる誠之進の手から、三郎はじれたように茸をはたき落とした。
「何をなさいます!」
「ばかもの、それは毒茸じゃ!」
「なんと…」
「それもかなりの猛毒だ…。早う手を洗いにいかねば!」
三郎は誠之進の肘をとると、有無を言わせず小川のそばへとひっぱっていった。

 三郎は自分と誠之進の手をごしごしと流水で洗い、やっと安堵のため息をついた。呆気にとられて三郎のなすがままになっていた誠之進だが、
「若はようご存じなのですね‥」
「うん? 茸のことか?」
三郎は立ち上がると、懐から手ぬぐいを出して拭っている。誠之進もそれに倣い、
「どこで斯様なことを学ばれましたか?」
感心したように尋ねた。
三郎はふと遠い目をして微笑んだ。
「子供の頃、おじじ様や権太とよく山へ入った…春は山菜、秋は茸に栗拾い…」
「…なるほど、そうでしたか」
穏やかな笑みを浮かべ、誠之進はうなずいた。

 三郎は九歳まで、母親の里である山あいの宿場町、関川で町人の子として育った。城にいては身につかない知識はこうして今も生きている。誠之進はそのことをむしろ微笑ましく思った。
「毒茸の見分け方は久右衛門殿(三郎の祖父)に?」
「うむ。あのように茎につばがあるものは大抵あやしいぞ」
「左様でござりましたか…」
「誠之進、そなたはなるべく群生しているシメジやナラタケを探せ」
「はい…」
「妙なものに手を出すでないぞ」
得意げに胸をはる三郎の前で、誠之進は情けなさそうにうなだれた。


***


 誠之進が花心亭のことを聞き及んだのはほんの偶然だった。

 七夕に近いある日、信輝公の側用人、青木忠座右衛門と今年の鷹狩りについて話していたときだ。『半知御借上』を実施し、藩士に倹約を奨励している手前、やはり今年は見合わせるべしということで、ふたりの意見は一致した。
「去年に引き続き今年も中止とは、なんとも寂しい限りですなあ…」
「残念ですがいた仕方ありませぬ。ですが青木様、今年の凶作を乗り切れば、また藩にとってもよき年が訪れましょう…その時に盛大に催せばよいのではありませぬか?」
「貴殿のいう通りじゃ。なれど、その頃までに某は隠居しておるやもしれぬな…」
「何を仰せかと思えば…青木様はまだそのようなお年では‥」
「殿が隠居されるとき、某も一緒にお暇をいただくつもりなのじゃ」
「…左様にござりましたか」
青木はまだまだ壮健だったが、主と供に引退というのは十分納得できた。

「じゃが、花心亭をあのままにしておくのはもったいないのう…」
「花心亭?」
「ほれ、荒井の近くにある信輝公の別邸よ。貴殿、行ったことはないのか?」
「さて…」
幼い頃、もしかすると父に連れられて行ったことがあるかもしれない。だが物心ついてから訪れた記憶はなかった。
「昔は鷹狩りのとき宿舎にお使いになったり、賓客や著名な文人が高山を訪れたときには花心亭でもてなしたものじゃ…」
「左様にござりましたか」
「それがもう何年も門を閉ざしたままなのだ…。井戸だけは毎年浚わせているが、名水が湧き、茶室もあるというに…利用されぬままというのは残念なことじゃ」
「まことに…」
昔日の華やかさを懐かしむ青木に同意しながら、誠之進はふと閃いたものがあった。

 数日後、花心亭の掃除を買って出た誠之進は、青木の許可を得て、お福と源蔵をつれて花心亭へ赴いた。井戸と同じく、庭園も年に一度は手を入れているので、思ったほど荒れてはいなかった。茶室脇の井戸はさすがに名水の名に恥じず、水の柔らかさは絶品であった。

 以来、『遠乗り』と称して、誠之進と三郎は月に二度ほど花心亭を訪れるようになった。青木から通用門の鍵を預かり、井戸の使用許可もとってある。

 誠之進が目をつけたのは茶室だった。母屋のほうは雨戸がたてきってあり、大掃除のとき以外、勝手に入るのはためらわれたが、おあつらえ向きに庭に六畳の茶室があった。夜具を敷いたりはできないが、小体な空間はふたりが忍び逢うには格好の場所だった。


***


 ふたつの駕篭がいっぱいになるほど茸が採れた.。夢中で採っていたので時を忘れたが、陽はすでに中天にあり、誠之進と三郎はにわかに空腹を覚えた。朝早く高山を出立し馬で駆けてきたのだ。腹がへって当然だろう。

 誠之進と三郎は駕篭を抱えて明神池を目指した。木立の中の小道をゆけば、突然視界がひらけ、清い水をたたえた池が姿をあらわした。

 秋の日差しを受け、水面が白金色にきらめいている。日陰では池はまた違った顔を見せ、周りを囲む雑木林の樹影が、深い緑のよどみとなって水面に映っていた。

 ふたりは林を出たところで駕篭を地面に置き、釣り舟が舫いである船着き場に向かった。舟に乗り込むと、誠之進が櫂を握って漕ぎ出した。吹き抜ける秋風がふたりの頬を心地よくなでる。誠之進が力強く櫂を動かし、舟はまもなく池の中程に達した。

「さわやかだな…」
「まことに、きょうは良い天気になりました…」
木々の間から聞こえる小鳥のさえずり以外、物音ひとつしなかった。池の周囲には明るい静寂が満ちていた。
「さあ、午飯にしましょう」
誠之進は背に負った小さな風呂敷包みをおろすと、中から竹皮に包んだ握り飯を取り出した。お福が今朝、暗いうちから飯を炊いて作ってくれたのだ。

 腹がへっていたふたりは、旺盛な食欲で握り飯を平らげていった。
「いまさらだが、お福の握り飯は最高だな」
「はい、具も旨いですが、飯の塩梅がなんとも…」
「源蔵が握るとまだまだこうはいかぬ」
「お福が隠居するまでには、ぜひとも覚えさせねばなりませぬな」
誠之進と三郎は、老婆になったお福と中年の源蔵の顔を、それぞれの脳裏に描いた。顔を見合わせて可笑しそうに喉を鳴らした。

 飯を食べ終えたふたりは、竹筒の水で喉を潤した。
こうして誰もいない場所で三郎とふたりきりの時間が持てる…。誠之進にとって望外の幸せだった。ぼんやりと幸せを噛みしめていると、突然背後で大きな羽音がした。
「誠之進、鴨じゃ!」
三郎の指さすほうを振り返ってみれば、つがいの鴨が池に舞い降りていた。すいすいと気持ちよさそうに釣り舟のまわりを泳いでいる。
「かわいいなあ…」
三郎が鴨たちを目で追いながら口元を綻ばせた。

 その三郎を、誠之進も目を細めて愛しげに見つめていた。

 三郎は今度は水面下をのぞき、感嘆の声をあげた。
「誠之進、見よ、魚がたくさんいるぞ!」
誠之進も船べりから身を乗り出してのぞいてみた。
「お、これは岩魚ですぞ」
「大きいのがあのようにたくさん…。誠之進、岩魚はそなたの好物であったな」
「はい。鮎も好きですが、岩魚の焼き物には目がありません」
「ならば、次は釣りだな」

 『次と言ってしまってから三郎の頬がかすかに染まったのを、誠之進は見逃さなかった。

「では、今度は釣り竿を持って参りましょう…」

 うなずく三郎の頬がさらに色をはいた。

 三郎とて、ここまで遠乗りにくるわけは承知している。

 沈黙が流れたところで、水面を渡る風が一瞬強く吹いた。ふたりを乗せた舟がふわりと揺れ、水面にさざ波がたった。

「そろそろ、花心亭にかえりましょうか」
誠之進の意図を察した三郎が、恥じらうように睫を伏せてうなずいた。

 誠之進はふたたび櫂を手にとると、岸にむかって滑るように舟を漕ぎ出していった。


***


 ふたりの後を追うように、右近は北国街道を南へと下った。風を分けて吹雪が走る。高山の次の宿場町、荒井を過ぎ、花心亭や明神池のある里山への道へと入った。花心亭を訪れるのは右近も初めてだったが、一本道のようで場所はすぐにわかった。

 花心亭への坂道をあがっていくと、屋敷近くの雑木林に三郎と誠之進の馬がつながれていた。正門は閉ざされていたが、横手の通用口に錠がかかっていない。人が入った証拠だ。

 右近は屋敷をすぎ、もう少し坂を登ったところで、林に分け入り馬を隠した。徒歩で花心亭に戻ってくると、坂道の下手から門を目指してやってくる声がした。

 右近は慌てて敷地の角まで戻り、黒板塀の陰からそっと様子をうかがった。

 竹駕篭を両手に抱えた主従が、談笑しながら坂を登ってくる。
「斯様にたくさん採れるとは思いませなんだな」
「うん、お福に塩漬けを作ってもらおう。さすれば冬の間中楽しめるぞ」
「茸狩りも面白いものですな。もっと早う来ればよかった…」
「毒茸の見分けかたも覚えたしな!」
可笑しそうに笑う三郎に、誠之進が照れたような笑みで応えた。
「誠之進、春の山菜採りも楽しいぞ。わらびにぜんまい、たらの芽…」
「ええ、小兵太などはよく山に入って採ってくるようです」
「来年の春は皆でゆこう…」
「ぜひ参りましょう…」
ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。

(誠之進…)

 幸せを絵に描いたような二人の姿に、右近の胸は錐で突かれたように痛んだ。

 通用口から屋敷内に入るふたり。右近は息を詰めて後を追った。ふたりは一度正面に回ると、畳石と苔に覆われた小径に入っていった。小径の先には茅葺きの小体な茶室が現れた。誠之進と三郎は茶室横の井戸端に竹駕篭をおくと、つくばいで手を洗ってにじり口から中へ入った。

(いかがする…)

 しばらく躊躇ったのち、右近は意を決して茶室に向かった。畳み石の上を足音を忍ばせて近付く。茶室の側までくると、下地窓からかすかな話し声が洩れ聞こえてきた。

 右近は息を殺して下地窓の際に立った。心の臓の音が一拍ごとに大きさを増した。

 しばらくすると話し声が止み、茶室の中がしんと静まりかえった。

 永遠に続くかと思われる静寂の中、右近は感覚を研ぎすませて、どんな小さな音も聴き逃すまいとしていた。

 茶室の中から衣擦れと帯の鳴る音が聞こえてきた。着物が畳の上に滑り落ちる音…。

 やがて、洩れ聞こえてきたのは密やかな喘ぎだった。

 右近は両手の指を関節が白くなるほど握りしめていた。音だけで中の様子は十分わかった。

(もうよかろう…。これ以上ここにいても惨めになるだけだ。早う立ち去れ…)

 内なる声が右近を諭した。だが、右近の脚はその場に釘付けになったように動かない。ためらい、迷った挙げ句、とうとう右近は震える手で下地窓の外にかかるすだれを持ち上げた。

(中をのぞいてどうするのだ。睦みあうふたりの姿など、見てしまえば正気ではいられぬぞ!)

 下地窓の内側、障子戸が半分開いていた。葦で編んだ格子の隙間から室内の一角が見えた。

(何故、己を奈落の底まで突き落とすような真似をする? 見てはならぬ、やめておけ…!)

 心の声の制止を振り切って、右近は茶室の中に目を凝らした。室内には、目眩がするほど濃密な空気が満ちていた。


つづく


 

「花心亭」1 | 「花心亭」3

下弦の月 目次



Copyright © 2003 戸田采女
All rights reserved.