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六ッ半(夜七時)を過ぎ、深まる闇に月が輝きを増した頃、お牧の方、奥方付き お年寄の藤江、田安慶久とその用人が中屋敷に到着した。
右近は玄関で小姓たちとともに客を出迎えた。過日の一件もあり、慶久と顔を合わせるのは正直ごめんこうむりたかったが、己の立場を考えれば取りあえず礼は尽くさねばなるまい。右近は式台の床に正座し深々と頭を下げ、出迎えの口上を述べた。
お牧の方とお年寄の藤江は、右近を見て満足気にうなずいた。二人とも年老いたとはいえ、やはり女である。見目麗しい若侍に迎えられて、嫌な気はしないだろう。
小姓に手伝わせて、まず慶久が、続いてお牧の方が履物を脱いであがった。
お牧の方は式台に端座して控える右近に微笑みかけた。
「右近、相変わらず憎らしいほどの美しさじゃが……」
苦笑する右近をひたと見つめていたが、やがて気づかうような声音で、
「そなた少し痩せたのではないか? 頬のあたりが…のお?」
と、相手の顔をのぞきこんだ。
「お引っ越し以来、何かと多忙でしたから…。
なれどもう落ち着きましたゆえ、ご心配には及びません」
右近が艶やかな笑みを浮かべて答えると、お牧の方も一応納得してうなずいた。
「ならばよいが…あまり無理をするでないぞ」
「ありがたきお言葉…かたじけのうございます」
小姓に案内され、無言で先に立っていこうとしていた慶久が、一瞬、肩ごしに右近を振り返った。慶久は五十を超えても壮健で、鬢にもわずかに霜の混じる程度だ。決して大柄ではなく右近と似たような背格好だが、相対すると何故か圧迫感を覚えた。
格上の相手に対峙したときの威圧感とは違う。右近は慶久に尊敬のかけらも抱いていない。この圧迫感の正体は、右近を値踏みするかのような慶久の湿り気を帯びた視線だった。今もそれが、右近の項のあたりにまとわりついている。右近は不快げに眉を寄せながらも低く頭(こうべ)を垂れ、客人たちの足音が遠ざかるのを待った.
*
ごく内輪だけの月見の宴は和やかに進み、右近が手配した能役者による舞も、客人たちに喜んで迎えられた。酒が入って上機嫌の慶久は、手ずから舞手に祝儀を渡している。
(ともあれ…ご機嫌麗しくて何よりだ…)
右近はほっと肩の力を抜いた。惣一郎も気を使っているのだろう。話題が政治向きの事には及ばず、右近もまめまめしく立ち働くことで、無駄な衝突は避けられたように見えた。
宴もお開きとなり、中屋敷に泊るお牧の方と藤江は寝所にひきとり、屋敷に戻る慶久を惣一郎や側仕えの者たちが玄関先まで見送った。
漆の乗り物と六尺がすでに待機している。右近は乗り物まで慶久に付き添ったが、
乗り込む寸前、慶久はふと立ち止まって耳打ちした。
「そなた…そういえば田沼の崇拝者であったな」
やはり来たか、と右近は身構えた。
「いえ、某は別に崇拝者などというわけでは…」
過日とは異なり、今日は心の準備ができている。
右近はあたりさわりのない受け答えに徹するつもりでいた。
「来月、田沼の私邸で江戸市中の剣豪を集めて仕合が行われる」
「…左様でございますか」
噂には聞いたことがあった。
「上様もご覧になるそうな。身供も招待を受けておる」
「上様もおなりとは…それはまた大がかりなことですな…」
慶久はふと好色な笑みを浮かべて呟いた。
「会わせてやろうか?」
相手の意を計りかねたように右近は慶久を見つめた。
「…引き合わせてやってもよいぞ、田沼意次に」
(それは、まことにござりますか?!)
喉まででかかった叫びを右近はかろうじておし止めた。この男がただの親切心で斯様なことをいうはずがない。しかし、一瞬にして生気を帯びた右近の瞳が、言葉よりも先に語ってしまった。
慶久は目を細めて、右近の耳もとに囁いた。
「…一晩、私の閨に侍れば、の話だが」
右近は湧きあがった吐き気を全身で堪えた。田沼に会ってみたいのは、経済政策について教えを乞いたいからだ。許されるなら質問をなげかけ、議論をたたかわせてみたかった。幕臣であれば彼の下で働きたいところだが、陪臣という立場ではそれも叶わぬ。自分の純粋な向学心が、下衆な下心で踏みにじられたような気がした。
今にも身震いしそうだったが、ここでひるんでは後々までなめられる。右近は丹田に力を込め、相手の目をしかと見据えて言った。
「…慶久様、御酒を少し過ごされましたか…。聞かなかったことにしておきましょう…」
「残念じゃな…」
慶久はわざとらしく溜息をついた。
「そなた、寒いのか? 震えておるぞ」
右近は我知らず奥歯を噛み締めていた。
「夜風にあたらぬうちに、早く中へ戻るがよい…」
慶久は口元に冷笑を浮かべ、悠然と乗り物に乗った。
供の提灯に囲まれ去っていく乗り物を見届けると、惣一郎が右近に歩み寄ってきた。
「いかがした、右近?」
「いえ、何でもありませぬ」
「顔色が悪いぞ、伯父上にまた苛められたか?」
「…苛められたなどと…。子供ではあるまいし…」
馬鹿をおっしゃいますな、と右近は惣一郎を見上げてかすかに微笑んだ。
「ならばよいが…」
なお心配そうに見つめる惣一郎に、
「さ、大分冷えて参りましたな。早う中へ入りましょう…」
と、右近が促した。
「右近…」
呼び掛けて、惣一郎は一旦言葉を切った。
「…今日は御苦労であった」
ふわりと背中から抱きしめるような声音が、懐かしい友の声と重なる。
「お役目ですから」
目を伏せて淡々と答えながらも、泡立つ心は容易に鎮まりそうにない…。
*
惣一郎は江戸生まれの江戸育ち。
御三卿の田安家を後ろ楯に持つ、譜代の名門、結城家の嫡男として、望みうる最高の教育を受けてきた。文化的素養も、大名家の子息として申し分ないものを身につけている。若君、若君とまわりからちやほやされ、奥で多少甘やかされて育ったものの、信輝公に似て生来温和な気性の惣一郎は、素直で愛らしい少年だった。
しかし、九年前、国許で信輝公が側室を迎え、その後まもなく弟の犬千代が病を得て夭折して以来、もともと仲睦まじいとは言えない藩主夫婦の溝はますます深まった。お牧の方の関心は、おのずと惣一郎一人だけに向けられるようになった。
大名家では表と奥が厳密に隔てられている。普段、男女が雑居するようなことはない。夫婦の間にしても、よそよそしいのが普通であったかもしれない。
だが、惣一郎は父が母を疎んじていることを敏感に感じ取っていた。子供ごごろにそれが悲しかった。母に憚り大きな声では言えぬものの、惣一郎は父のことを嫌いではなかった。子供の頃、父が江戸在府のおり、よく遊んでもらった記憶がある。自分や弟に向けられた穏やかで深い眼差しを忘れてはいない。
美しいものを好む惣一郎は父の画才を秘かに尊敬していた。どちらかといえば保守的な画風だったが、透明な美しさをたたえた父の絵に惣一郎は強く惹かれた。
自分も父に習って絵を始めてみようと意気込んだが、ある日、描きためたものを母に見とがめられ、
「父上もそなたも、揃いも揃って下賤な絵師の真似事をするか!」
と激しく叱責された。
母の期待を裏切って申し訳ないというよりは、鬼面のような母の顔を二度と見たくなくて、惣一郎は絵筆を手放した。
以来、何事にも執着せず、風にしなう柳のように、惣一郎は流れにまかせて生きてきた。無難に物事をこなしていれば、儀式の折、登城しても大失敗することはない。いずれ藩主になっても、藩政は家老にまかせておけば万事よろしくやってくれる…。下手に手出しをせぬほうがよいのだ、と、惣一郎は齢十八歳にして悟っていた。
それでも空虚さは癒しがたかったのだろう。長じて生活の場が奥から表へ移り、母の干渉がなくなると、惣一郎は芝居見物や吉原での遊蕩に慰めを求めた。
「随分と金のかかる退屈しのぎよ…」
周囲の耳目をそばだてながら、そんな暮らしが三年近く続いていた。
*
神田明神の祭礼も終わり、めっきり朝夕が冷え込んできた。
きょうも秋時雨といいたげな薄曇りの日、国許の溝口誠之進から右近に文が届いた。
誠之進は藩主三男、三郎信尭の守役を仰せつかり、現在高山城の西の丸で暮らしている。溝口家の屋敷は堀を渡ってすぐのところにあり、屋敷から城へ通えばよさそうなものだが、誠之進は三郎を城へ迎えてまもなく、事実上、西の丸の館に移り住んでしまった。
守役など勤まるだろうかと、最初は腰がひけていた誠之進だったが、随分な力の入れようである。不器用といえば語弊があるが、昔から、これと思い定めた事には一途に打ち込むところがあった。誠之進からの文は毎月のように届いていたが、話題は三郎のことばかり。
最初は苦笑しながらも、お役に励む誠之進を応援してやりたい気分だったが、半年が過ぎた今、右近は心の中に微妙にざらつく何かを抱え始めていた。
右近は午前中の執務を終え、自室に戻り火鉢に炭を入れると、端座して懐から文を取り出した。
誠之進の伸びやかな文字をしばし目で追った。
『八月の終わりに三郎ぎみを馬市にお連れした。かねてから御自分の馬が欲しいとおっしゃっていたが、よい具合に気性の穏やかな栗毛の若い雌を手に入れた。遠乗りに出かけるのを楽しみになさっている。まだお小さいのであまり遠出はできぬが、そのうち直江津港へでも連れていってさしあげようと思う。まだ海を見たことがないのだそうだ…』
十代の夏、右近は誠之進と二人で見た、越後の海、荒々しい波と深い水の色を、瞼の裏に描いた。浜辺の廃屋となった番小屋で、はからずも誠之進と二人で夜明かしした。
打ち寄せる波の音を彼方に聞きながら、友の穏やかな寝息に耳をすませた。明け方の肌寒い空気の中、背中に寄り添ったぬくもりが、今でも切なさを伴ってはっきりと蘇る…。
『…何しろ、素読も剣術も私ひとりで教えているのだ。忙しくて叶わない。剣術はともかく、学問はいずれ専門の教授をつけるなりせねばなるまい。三郎ぎみの剣はなかなか筋が良い。教えがいがある。始めたばかりで型も何もできておらぬが、動きの鋭さにこちらがはっとする時がある…』
誠之進との初めての仕合を思い出した。自分の迅い剣がかろうじて誠之進の膂力に勝った。しかし、勝負に負けたとはいえ、正面から力で向かってくる誠之進の剣に右近は圧倒された。骨細な身体ゆえ、技に頼らざるを得ない己の剣の限界を予感した。
『しかし、この夏、三郎ぎみが麻疹に罹られた時は肝を冷やしたぞ。弟や妹の時は、大事にならずに済んだが、麻疹は子供の命定めともいうではないか。お熱がなかなか下がらず、一時はどうなることかと思ったが、下女のお福がもらってきた神社のお札が効いたのか、半月ほどで床上げすることができた…』
三郎の枕元に控え、寝ずに看病する姿が目に浮ぶ。
氷嚢を作り、病人の汗を拭いてやる。
着物を着替えさせ、手ずから粥を食べさせたのだろう…。
誠之進はそういう男だった。
文の終わりのほうで、誠之進は江戸の様子をたずねていた。まだ、右近が惣一郎の側用人に昇格し、供に中屋敷に移り住んだことは知らせていない。
右近は読み終わった文をたたみ、しばし端座したまま虚空を見つめていた。
「たかが九歳の子供相手に、私は一体何を…。愚かな…」
苦々しく呟くと、おもむろに文を炭の上にかざした。
炎が立ちのぼり、細長い紙片を舐めとるように燃やし尽すと、
細かい火の粉となって赤々と燃える炭の上に散り落ちていった。
断じて言葉に出して認めたくはない。
だが、右近は胃の腑に重くのしかかる『腫れ物』の正体を知っていた。
これは……悋気だ。
濁った感情のベクトルは間違いなく三郎に対して向けられていた。
誠之進の献身と愛情を、当然のごとく独り占めしている幼い主人…。
今一度、誠之進の文を読み返せば、右近は三郎に憎しみすら抱きそうだった。
そんな自分を深く嫌悪した。
目を閉じて深く息をつく。
部屋の中、炭のはぜる音だけが時おり静寂を破る。
右近は膝の上の拳を握りしめ、時が止まったかのようにじっと座り続けた。
つづく
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