二の巻「薄紅葉」3


by 戸田采女


 十月。立冬が過ぎ、江戸郊外の山々が錦に色付く季節となった。
秋空に鰯雲が浮び、穏やかな日射しが差していた。

 櫻田右近は主の結城惣一郎に従い、王子・滝の川へ紅葉狩に来ていた。巣鴨の御薬園を過ぎたあたりで惣一郎は乗り物を降り、右近や供の者たちと並んで田舎道を歩いた。

 百姓家の軒には白い粉を吹いた干し柿が下がり、稲架には黄金色の穂が並ぶ。のどかな風景を楽しみながら、一行はまず王子権現へお参りに向かった。

 供回りはいたって少人数で、乗り物をかつぐ六尺、警護の若党二名、小姓の仙之丞、荷物持ちの下男、そして用人の右近だけであった。十万石クラスの若殿にしては随分身軽なお出かけだが、中屋敷に移ってからの惣一郎は仰々しいことを嫌い、家臣も使用人も必要最低限の人数、自分の気にいった者だけを身近においた。

 お参りを済ませた後、右近はかねてから手配しておいた料理屋へ惣一郎を案内した。石神井川のほとり、飛鳥橋に近い『扇屋』である。道中、のんびりと歩いてきたため、時刻は九ッ半(午後一時)を過ぎ、遅い中食となった。六尺や若党らは近くの茶店で休み、惣一郎、仙之丞、右近は扇屋のニ階へ上がった。

 座敷からの眺望は素晴らしく、眼前には紅葉の飛鳥山が広がっていた。十四歳の小姓、仙之丞は初めての遠出が嬉しくて仕方ないらしい。窓から身を乗り出して、眼下を流れる渓流を眺め、感歎の声をあげた。右近はまだ入り口のあたりで、惣一郎が差料を外すのを手伝っていた。

「若殿! ほれ、あのように川がきらきらと!」
「ん?」
「早うこちらへおいでなされませ!」
何がそんなに珍しいのか、かん高い声で促す仙之丞に苦笑しながら、惣一郎は窓辺に歩み寄った。

「ほう…」
思わず惣一郎が嘆息した。

 二人の後ろから、右近も窓の外を見下ろした。時折吹く風に揺らされ、艶やかな紅葉葉がはらはらと渓流に散り落ちる。晩秋の弱い日射しに照らされ、水面に浮ぶ紅や黄の葉が儚げに煌めいた。惣一郎はしばし目を細めて景色に見入っていた。

(やはり血は争えないものだな…)

 確かに絵心をそそる風景だ。信輝公ならすぐにも矢立てと画帳を所望するだろう。惣一郎様も描いてみたいのだろうな、と右近は心の中で呟いた。もはや成人して何年も経つのだから、お牧の方に憚ることもなかろうに…。

 何もかも与えられているように見え、その実、この男は真に欲するものを、一度も手にしたことがないのかもしれない…。ふとそんな思念が湧き、右近は惣一郎の横顔を無言で見つめた。


 ほどなく、女将と仲居が膳部を捧げ持って現れた。この時期、落鮎が最盛期を迎え、油の乗った塩焼きが旨そうな匂いをたてている。他にも茸や栗など山の幸が膳を飾っていた。

 惣一郎と仙之丞は野趣あふれる献立が気に入った様子だ。右近は二人の愉しげな様子を眺めて、ほっと息をついた。

 しかし、久方ぶりに山道を歩いて疲れたのだろうか? 膳には好物が並んでいるにもかかわらず、右近自身は箸が進まなかった。王子権現に参った頃から妙に身体がだるかったが、料理屋へついて座敷に腰を降ろした途端、腕をあげるのも億劫になった。膳を囲んで座る惣一郎と仙之丞の会話が、どこか遠くから聞こえてくるようだ。

「いかがした? 右近」
名を呼ばれて、右近は反射的に主を見やった。
「顔色が悪いぞ?」
「…少し疲れたようですが…大事ありませぬ」
「…食欲もないようじゃの」
「最近、剣術の稽古をさぼっておりましたので…身体がなまりましたか…面目ない」

 取り繕いながらも、右近は身体の不調をはっきり自覚していた。悪寒も酷くなってくる。惣一郎は箸を置くと、立ち上がって右近の傍らに歩み寄り、片膝をついた。仙之丞も惣一郎の後から心配そうに覗き込んでいる。

「どれ」
いきなり額に手を当てられ、右近は思わず身をこわばらせた。
「熱があるではないか」
「…大事ありませぬ!」
右近は顔を背けるようにして惣一郎の手を外そうとしたが、今度は大きな掌で頬を包まれた。
「意地を張るな…」
初めて惣一郎の瞳を間近で見た。
右近は何か言おうと口を動かしたが、さらりと乾いた掌が心地よく、それ以上逆らう気になれなかった。
「仙之丞、女将を呼んでまいれ」
「はい、若殿」

 惣一郎は女将に命じて続き部屋に床をとらせた。右近は命じられるまま、仮眠をとるべく夜具の上に横たわった。惣一郎はかいまきを右近の胸までかけてやりながら、女将に話しかけた。

「女将、ここが宿屋ではないのは存じておるが…、
できれば、この者だけでも一晩泊めてやってはもらえぬか?」
「…ようございます。急な御病気では致し方ありませんもの。おまかせ下さりませ」
「かたじけない。雑作をかける」
一つ返事で承知した女将に惣一郎は感謝した。
「…惣一郎様、私だけ残るとは…?」
一刻ほど休んで供に帰るつもりだった右近は、二人の会話に慌てて身を起こそうとした。
「いいから黙って寝ておれ」
片手で制されて、右近は再び力なく敷布に身を横たえた。
「その様子では今日帰るのは無理であろう。一晩こちらで休ませてもらうがよい」
「しかし、それでは…帰りのお供が…」
「構わん。護衛なら、ほれここに仙之丞がおる」
「……」
嫌味なほど間をおいて、右近が溜息まじりに吐き出した。
「話になりませぬ」
後ろに控える仙之丞は憮然とした面持ちだった。
しかし、太刀が重いからと、脇差しか携えていない少年に反論の余地はなかった。
仙之丞に限らず、太平の世の小姓とはそんなものである。
 
 惣一郎は可笑しそうに笑うと、
「それとも、そなた、ひとり残されるのが寂しいのか?」
と、からかうように右近の目をのぞきこんだ。
間髪を入れず、右近の瞳が剣呑な色を帯びた。
「気分が悪くて臥せっているのに、くだらぬことを申されるな」と、いわんばかりである。
黙ってやりとりを聞いていた女将が忍び笑いを洩らす。
「後ほど、熱冷ましのお薬湯をお持ちしましょう」と、言い残し座敷を出ていった。

 結局、惣一郎は仙之丞や供のものたちを先に帰し、明日の昼頃迎えにくるように申しつけた。右近に付き添って、扇屋に一晩厄介になるという。
扇屋の者たちは、
「御用人様はともかく、若様にお使いいただける夜具などござりませぬ」とひどく慌てていたが、惣一郎は一向に意に介さず、そのまま居座ってしまった。


 やがて茜色の西日がさす時刻になったが、右近の具合は一向に良くならなかった。主の惣一郎が、いかなる酔狂で病人の自分に付き添っているのか…。気にはなったが、朦朧とする頭で深く考えることはできなかった。




 惣一郎は右近の枕元に胡座をかき、女将に借りた黄表紙本を退屈しのぎに眺めていた。
「…御迷惑をおかけして、申し訳ござりませぬ」
弱々しい病人の呟きに、惣一郎は労るような笑みで応えた。
「引っ越し以来、多忙であったからな…。
何から何までそなたに任せきりで、疲れがたまっておったのだろう。
いま少し、藩邸から人を連れてくるべきだったな…」

右近がかすかに首を横に振った。

 熱のせいで膜がはったように潤んだ瞳が、ぼんやりと惣一郎を見上げた。常日頃、張り詰めたような硬質の美しさを漂わせている右近とは別人のようだ。どこか人恋しげな眼差しが、惣一郎の胸を突いた。

(御用煩多で疲れただけではあるまい。)

 誠之進が国許へ帰って以来、外目には右近は温和になった。舌鋒鋭く他人を批判することもなくなり、 道場で稽古をつける際も、以前の激しさは影を潜めていた。黙々と務めに励み、無駄口をきかなくなった。

 だが、惣一郎には仮面の下の涙が見えていた。余人にはわかるまい。中屋敷に右近を伴ったのは、側仕えとして有能だというのもあるが、人の多い藩邸内で孤独感を深める様子を見ていられなかったからだ。

 右近が初めて江戸へやってきた十八の春。花の香が匂い立つような美しさに、二十一歳の惣一郎は一目で虜になった。

   田安の伯父に十八で吉原へ連れて行かれて以来、かれこれもう四年。百戦錬磨といかぬまでも、色事にかけてはいっぱしの経験を積んだつもりだった。今さら男に惹かれてどうする…。初めは気の迷いと笑い飛ばした。

   しかし一一。
『この麗しい生き物を魂ごと手に入れたい』
季節が巡るうちに、気がつけばそう渇望する自分がいた。

 そして、右近の姿を目で追いかけるうちに、惣一郎はある日卒然と悟った。

 溢れる想いを巧妙に隠しながら、深い光を放つ漆黒の双眸が、片時も離れず見つめる先を。

(誠之進でのうてはだめなのか…)

 惣一郎は右近のかたわらに膝をつくと、屈み込むように顔を近づけた。優美な曲線を描く眉の下、閉じた瞼はがかすかに震え、桜色の唇からは浅い息が洩れている。右近は再び眠りに落ちたようだった。

(どれほどの時間を供にしようと…誠之進は決してそなたを理解せぬ。…苦しいだけの想いではないか。そのようなものに振り回されるな…右近)

 息がかかるほど近くに頬を寄せた。細い頤(おとがい)を二本の指で捕らえた。かすめとるように触れ合わせた唇は乾いて熱かった。

 白い首筋から鎖骨へと戯れるように唇で辿る。着物の袷に右手を忍ばせると、なめらかな皮膚の下に籠る熱を感じた。誘い込まれるように懐の奥深く肌をまさぐった。吸い付くような手触りに軽い酩酊を覚える。下腹に湧きおこった不埒な衝動に惣一郎は眉をしかめた。

(熱で弱っている時に手を出したとあっては……軽蔑するであろうな)

 このまま無理矢理にでも肌を合わせてしまいたかったが、自分に向けられる冷たく美しい眸が、侮蔑に染まるのは見たくない。

 禁欲的で強情な右近のことだ…。今を逃せば触れる機会など簡単には巡ってこないだろう。

 楽にしてやりたいと思う。傷が深くならないうちに、誠之進への不毛な想いから解放してやりたい、と。 強引に奪ってしまえば右近の中で何かが変わるのだろうか、と。

 しかし、一方で、追い詰められ、傷つき、この潔癖な魂が砕け散ったとき…。右近が自分から縋りついてくる瞬間を思い描くだけで、暗い悦びが身体中を満たした。




 いずれ、必ずこちらを向かせてみせる…。

 胸の中で呟きながらも、手は名残り惜し気に右近の膚の上をさまよっていた。惣一郎は苦笑する。熱っぽく乾いた唇の感触をいま一度味わい、惣一郎は右近から身を離した。襟元をつくろい、上掛けを胸元まで引き揚げてやる。透き通るほど儚げな右近の寝顔に、惣一郎は静かに語りかけた。

「そなたの想いの行きつく先。見届けてやるゆえ…今はゆるりと休むがよい」

 飛鳥山に夕闇が迫っていた。弱々しい茜色の残照が山の彼方に吸い込まれていく。

 灯りを運んできた女の軽い足音が廊下に響いた。


薄紅葉 了






薄紅葉2 | 早春賦

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