三の巻「早春賦」

この巻の主な登場人物


by 戸田采女


 庭先から漂う仄かな梅の香に、長い冬の終りを感ずる。
木々の枝に残る雪も、早春の光りに照らされ白々と眩しい。

 明和二年、鶯がのどかに鳴く弥生のある日、上席家老の溝口主膳が、藩主三男、三郎信尭の館を訪なった。主膳は三郎の守役、誠之進の父である。

 今年、十三歳になった三郎は、ゆえあって九歳まで母方の里、関川宿本陣『加賀屋』で育った。城に引き取られ誠之進が守役となってから、はや四年の月日が過ぎていた。
 当初、武家のしきたりに戸惑いを見せていた三郎も、愛情を持って献身的に仕える誠之進や乳母のお福、乳兄弟の源蔵らに支えられ、徐々に城での暮らしに慣れていった。

 気がつけば、若君と呼ばれることに慣れ、父親の藩主、結城因幡守の背中を見ながら、
臣下に対する身の処し方を自然と身につけていった。堂々としながらも町家育ちの気取らない性格は残り、それが周囲の者たちの心を掴んだ。

 雪に閉ざされた冬の間、戸外で遊ぶこともできず、三郎と乳兄弟の源蔵は退屈しきっていた。誠之進はこれも良い機会と、正月から四書の解釈と茶の湯の作法をみっちり教えこんだのである。おかげでなんとか薄茶の作法を身につけた三郎が、今日は初めて客の前で茶を点てる。
庭に面した書院では、既に正客の席に主膳、隣に誠之進、末席には緊張した面持ちの源蔵が正座して、亭主が現れるのを待っていた。

 やがて、茶道具を携えた三郎が静かに襖を開けて入室した。
誠之進は教えた自分のほうが試されているような気分で、妙に落ち着かない。
一見穏やかな笑みの下、主膳の鋭い眸子が三郎の一挙一投足を追っている。

(…そのように吟味するがごとく見つめては、三郎ぎみが緊張するではないか…)

 誠之進は父親の横顔にちらりと抗議の視線を送ったが、
主膳はつゆほども反応せず、視線を三郎にひたと当てたままだ。

 三郎はごく自然な足さばきで、無事、点前座に辿りついた。
茶道具を教えられた場所に並べると、客のほうへ向き直り手をついて一礼した。
 点前を始めた頃には誠之進も大分安心して見ていられるようになった。三郎は利発な少年だが、慣れない茶の湯の所作を身体で覚えるには、それなりの時間が必要だった。

 しかし冬中稽古した介あって、なかなか堂に入ったものである。
手指の先まで神経の行き届いた美しい動きに、さすが三郎ぎみ、と誠之進は満足気にうなずいた。

 三郎が点てた茶を主膳が味わう。
飲み終わった茶腕を畳のへり外に戻すと、
「結構なお点前でした」
それまで厳しい顔つきで座っていた主膳の目元がふっと緩んだ。
 三郎は片手で礼を受けると、落ち着いた動きで次客、末客のために茶を点て始めた。
守役の面目をほどこした誠之進は、端座したままほっと肩の力を抜いた。


 点前を披露してお役ご免となった三郎は、源蔵を引き連れて待ちかねたように庭へ飛び出した。
深(しん)と静まり返っていた庭先に、ほどなく二人の歓声と木太刀を打ち合う音が響き始めた。
背丈はとうに五尺を超えたが、こういう所はまだまだ子供である。

 どうせ雪と泥でぐちゃぐちゃになって帰ってくるのだろう。
後で湯殿におつれしなければ、と誠之進は微苦笑を洩らした。




 三郎たちが庭へ出た後、誠之進と主膳はそのまま書院に残って親子水入らずで語りあっていた。溝口家の屋敷は城の西側、堀を渡ってすぐの所だが、西の丸の三郎の館で暮らす誠之進は、足繁く実家に帰るわけではない。城中においては家老の父と顔をあわせることも多かったが、このように二人きりになるのは久方ぶりだった。

「早いものだな。あれから四年か…。其許(そこもと)もすっかり守役が板についたな?」
「お陰さまを持ちまして、無事、お役目勤めております…」
「お役熱心のあまり、近頃、悪所に足を伸ばす暇もないとか…」
誠之進は一瞬言葉に詰まった。
どうせまた弟の慶次郎あたりが余計なことを父上に一一。
「……面白がっておいでですね、父上」
憮然とした面持ちの誠之進に向かい、主膳は豪快に笑った。
「何を言うか。誉めておるのじゃ」
「…では、そういうことにしておきましょう…」
誠之進は小さく咳払いをすると、きまり悪そうに居住まいを正した。
『武芸にせいを出した上は、その余力で遊芸することは勝手次第』
というのが溝口家の家訓である。
 悪所通いが遊芸にあたるかどうかは疑問だが、たまに足を運ぶくらいのことに別段目くじらたてる主膳ではなかった。

「ところで…誠之進」
「はい」
「殿からお許しが出たとはいえ、三郎ぎみを本気で藩校に入学させるつもりなのか?」
主膳が今日、三郎の館に誠之進を訪なったもう一つの理由だった。
「はい。一般の子弟と同じ日割ではありませんが、四書五経、兵学、歴史、詩文、それと剣術、弓術、馬術はぜひとも…。そろそろ私ひとりの手には負えなくなってきました」
誠之進は苦笑したが、三郎の成長を喜ぶ気持が声に滲みでている。

 一方、主膳はしかつめらしい表情を崩さない。
「…本来なら、適当な指南役を選んでつければよいことではないか?」
「父上はご反対なのですか?」
「…仮にも藩主のご三男であるぞ。臣下のものと軽々しく交わってよいものかどうか…」
「私は…、他の優秀な子弟と机を並べるのは、三郎ぎみにとって良い刺激になると思います」
主膳は増々眉間にしわを寄せて黙りこんだ。
「…誠之進、武術はともかく、三郎ぎみの勉学は教養程度で十分ではないか? むしろ、茶の湯や歌舞音曲などをお習いいただいたほうが、三郎ぎみのおためであるぞ」
「それは…いかなる?」
誠之進は思わず気色ばんだ。
「ああいう気さくなお方ゆえ…藩士の子弟たちと交われば、巷の声が何かと三郎ぎみのお耳に入るだろう」
「…何か差し障りがござりましょうか?」
「下手に藩政にご興味をもたれぬほうが良いということだ」
「父上! それはあまりな申されようでは…」
思わず腰を浮かせた誠之進を、主膳は目で制した。

「…誠之進」
「…はい」
「三郎ぎみは、そういうお立場なのだ」
誠之進は一瞬驚きとも非難ともつかぬ視線を主膳に向けたが、
「…いずれは他国へ養子にいく身ゆえ…」
目を逸らして苦々しく呟いた。
「…藩政には口を出すなということですね」
「いかにも」
「…下手な知恵をつけるなとおっしゃりたい…」
誠之進はらしくない冷笑を口元に浮かべた。
自分に向けられる非難も批判も、正面から受け止めるがごとく、
主膳は誠之進から視線をそらさない。
しばし、納得いかぬ表情で父を見つめていた誠之進だが、
「わかりました。学問は古典を中心に私が日割りを決めましょう」
鈍い溜息とともに言った。
「それがよかろう…」
「交友関係にも目を配ります。藩政研究会のような所へは、足をお運びにならぬよう気をつければよろしいのですね…」

 誠之進は自分でも声音がささくれだっていくのを感じていた。
主膳は端座したまま、ただ黙って息子の言葉に耳を傾けた。




「どうせお世継ぎではないのだから」

「成人するまで、少しくらいの勝手気侭は許されてもいいではないか?」

 信輝公がいかに三郎を寵愛しようと、主膳はお家の安泰のため嫡子相続を主張している。
このままいけば、三郎が成人する頃には惣一郎が家督を継いで藩主になっているだろう。
三郎は他藩へ養子という筋書きは誠之進とて承知している。
 
 惣一郎が藩主となったあかつきには、惣一郎はともかく、お牧の方様の手前、何かと窮屈で制約の多い生活が三郎を待っている。わかっているからこそ、せめて元服までは同年代の子弟と友情を育み、自由に伸び伸び過ごさせてやりたい、と誠之進は願わずにはいられなかった。

「たったそれだけのことに、父上はかくも神経を尖らせるのか?」

 誠之進の不満はそれだけではなかった。

   こういっては親ばかならぬ、守役バカかもしれないが、三郎ぎみは賢い。
世の中のことに関心が深く、知的好奇心も旺盛だ。
 確か遠乗りで遊びがてら御領内を見て回った時も、あれこれと民百姓の暮らしぶりに興味を示され、誠之進は質問ぜめにあった。
 話題は百姓の日々の暮らしから、はては治水利水のことにまで及び、たった十三歳の少年の洞察力に感服したものだった。

「これが藩主になる身なら、いかにも名君の資質ありと褒めそやされようものを。『御控』とはいえ部屋住みの弟君ゆえ、出過ぎた真似をせぬよう目配りせよというわけか」

 誠之進は正直口惜しかった。

 これは守役なら誰しも陥りがちな落とし穴なのだろうか?
気付かぬうちに、二つの矛盾する感情が誠之進の中に芽生えていた。

 世嗣ではないのだから、格式にとらわれず気楽に暮らして構わぬではないか。
そう主張する一方、心の中では思うのだ。
お世継ぎにふさわしい器量を持つのは、自分のお仕えする若君のほうではないか、と。




 いつの間にか主膳との会話は途切れ、誠之進はひとり沈思に落ちていた。 

 庭に響き渡っていた木太刀の音が止み、三郎の少年ながら覇気のある楽しげな声が聞こえてきた。誠之進は声に誘われるように庭のほうを見やった。

「源蔵!もう息があがっておるのか?
おまえ、それでは藩校の道場で皆についていけぬぞ。しっかりせぬか!」
「そんなことを仰られても……だいたい若と私では勝負になりませぬ…」
源蔵の声は、へなへなと腹にまったく力が入っていなかった。
小太りというほどでもないが、ぽっちゃり型の源蔵には十分過ぎる運動だったのだろう。
母親のお福と笑えるほど体型が良く似ている。
「なんじゃ、ふがいない。せっかく雪も溶けてきたのに…。つまらん奴だな」
「はいはい、私ではどうせ役不足でござりましょう。もう十分にお相手したではありませぬか。後は誠之進様に遊んでもらいなされ…」

 誠之進の座る場所から二人の姿は見えないが、三郎が拗ねたように上目遣いに見上げる様子が目に浮び、思わず頬が緩んだ。

「それはそうと若、腹が空きましたな。母のぼた餅がそろそろ出来ている頃ではありませぬか?」
「おお、そうであった。…茶の湯の菓子はうまいのだが…どうも上品すぎて腹にたまらぬのがいかんな…」
「仰せの通りにございます! さ、早う参りましょう」
陽気な笑い声に続き、二人が木太刀をほうり出して、ばたばたと台所へ向かう足音が聞こえた。

 足音が遠ざかるまで、誠之進は柔らかい笑み浮かべたまま庭をぼんやり眺めていた。

 
 晴れ渡った空から寒雀(ふくらずずめ)が舞い降り、梅が枝を揺らした。
芳香があたりに漂い鼻腔を心地よくくすぐった。
 
 さて、どうせ三郎に着替えも出してやらねばなるまいし、自分も台所へ顔を出すかな、と誠之進はひとりごちた。
 
 ふと脇に父の視線を感じて振り向けば、
濃い一文字の眉の下、問うような瞳が見つめていた。
「父上…?」
「…いや、よいのだ」
首を小さく左右に振りながらも、視線はやはり物言いたげだ。
誠之進が訝しげに見つめ返すと、主膳はようやく目元を和ませて口調を変えた。

「藩校の件…あれこれ申したが、殿がお許しになったのでは仕方あるまい…。其許もなるべく顔を出して、万事遺漏なく目配りするように…」

 先程の厳しい様子はもはやなく、主膳は声はどこまでも穏やかだった。
誠之進も反論の刃を鞘に納めて言葉を返す。

「はい、そのつもりでございます。役付きの若い藩士もお役のない日には講議をうけるべし、とのお達しですから…」
「其許も少しは自分の時間が持てるな」
「…左様でございますな。学問では櫻田右近にすっかり遅れをとってしまいました」
誠之進は照れ臭そうに笑ってうなずいた。

 さて、と主膳は言葉を切った。
「今日はこれにて失礼する。…誠之進、たまには母上にも顔を見せにまいれ」
「…はい。近い内に必ず」
軽く頭を下げた誠之進にゆっくり頷いてみせると、主膳は立ち上がって座敷を辞した。

 
 父に少し遅れて、誠之進も座敷から濡れ縁に出た。
のんびりと伸びをして庭を見渡す。
一刻(二時間)ほど前よりさらに雪が溶け、松が枝から時折水滴が滴り落ちている。
先程の寒雀のいる白梅の枝に、もう一羽が空から加わった。
凛とした佇まいを見せる花の合間で、二羽がちゅんちゅんと鳴き交わしている。

 先程、はからずも右近の名前が口に出た。
最近文が来ないが、この六月には殿に随行して国許に帰る予定だ。
「息災であろうか…」
日々の忙しさにかまけて、自分も便りを怠りがちであった。

 梅というよりは、桜の艶やかさを持つ友のかんばせが、一瞬、誠之進の脳裡に鮮やかに浮んだ。


おわり



壁紙は『kigen』さんからお借りしています。

 
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