|
高山藩校『宗道館』は城の東南、『けやき平』と呼ばれる丘陵地帯に建っていた。
銀杏並木のなだらかな坂道を四半刻(三十分)ほど登ると、長屋門の正門が見えてくる。
正門をくぐると、右手に武術棟、左手に文教棟と別れており、武術棟には剣術、柔術、槍術、弓術の稽古所、文教棟は講堂、教室、文庫、教授方控え室、役所などが連なっている。
白砂をしきつめた校庭の中央には孔子を祭った霊廟もあり、武術棟の裏手には馬場があり、文教棟の裏には雑木林が広がる。木立の中には水練用の池もあった。
転封になった松平家の後をうけ、結城家がこの地に入府したのは、二代前の亨保年間。
もともと好学の気風があった結城家の初代が、近隣の諸藩に先駆けて藩校を設立した。
ニ代藩主、結城越中守信政の時代に規模を拡大し、現在の姿となる。
かつて誠之進や右近もここで少年期を過ごした。
藩士の子弟は八歳から入学が許される。
二十歳をすぎても役付きでない者は藩校に通うのが望ましいとされている。
また、上士の子弟は幼い頃から自費で私塾に通うものも多かったため、十三、四歳の素読吟味に合格した時点で藩校に入学する選択枝もあった。
中級藩士の家に生まれた右近は初めから藩校で、誠之進は十四歳まで城下の儒学者、佐伯羅山の私塾で学んでいた。
それまで右近の噂は城下で耳にしていたし、町ですれ違ったことくらいはあったが、友人として付き合い始めたのは誠之進が藩校に入学してからだった。
弥生の末に三郎が藩校に入学して以来、週に三日ほど、誠之進も懐かしい銀杏並木の下を歩くこととなった。最初は三郎の付き添いという名目だったが、三郎も藩校生活に慣れた今、どちらかというと、誠之進は自分の勉学のために講議に通い始めた。
その日、高山城下の空は蒼々と澄み渡り、ひときわ爽やかな風がけやき平を吹き抜けていた。
誠之進は昼からの兵学の講議に出るため、中食をすませてから出かけた。
足早に坂を上ること四半時、額にうっすらと汗が滲んだ頃、宗道館に到着した。
正門をくぐり文教棟の入口に向かうと、裏手の林から愉しげな笑い声が聞こえてきた。
声のする方向に目を凝らせば、楡の木陰で車座になって握り飯をほおばる一団がいる。
木漏れ日が降り注ぐ、きらきらした光の輪の中に三郎がいた。
周りを囲むのはいつもの友人たち。
乳兄弟の源蔵、勘定方、筧半十郎の次男・松之助、徒歩(かち)組、神原大輔の嫡男・倫太郎である。
松之助は齢十二歳と年下ながら、既に三郎同様、素読吟味に合格しているので「年長」組で学んでいる。
頭脳の明晰さでは「櫻田右近」の再来との呼び声が高いが、容貌のほうは残念ながら似ても似つかない。
しかし、賢しげな小動物のような、愛嬌のある松之助は、幼年組の者の勉強を見てやったり、面倒見のいいことで誰からも好かれた。
倫太郎の家はどちらかというと武芸に熱心な家風で、倫太郎は三郎より一つ年上の十四歳。
宗道館の麒麟児とも呼ばれ、年少組の剣術の紅白試合では常に大将を努めている。
膚の色も浅黒く、多少無骨な風貌ではあるが、上背も高く、なかなかの好男子だ。
しかし、学問のほうは今ひとつで、未だ素読吟味 には合格しておらず、乳兄弟の源蔵と同じく「年少」組である。
組分けは一応年齢別に、「成人」十八歳以上、「年長」十五歳以上、「年少」十二から十四歳くらい、「幼年」十一歳以下、とおおまかに別れているが、能力別の要素も加味される。
素読吟味合格が「年少」と「年長」の分水嶺で、年がいくつであろうと合格しなければ「年少」組に入れられてしまう。
倫太郎も源蔵も心して勉学に励まなければ、この先ずっと声変わり前の子供らと机を並べるという、いささかみっともない事態に陥るわけだ。
誠之進は少年達の輪を遠くから感慨深げに眺めた。
(良い友人を選ばれましたな…)
松之助、倫太郎とも、文武の能力もさることながら、心根の優しい、まっすぐな気性の少年たちだ。
これから研鑽を積み、おそらくは藩の将来を担う立派な人材に育っていくだろう。
三郎の将来に彼らがどのように関わってくるのか…?
今は全く未知数だが、藩校での出会いが三郎にとって吉と出るよう、誠之進は願ってやまなかった。
*
「源蔵、握り飯はもうないのか?」
「はい。さっき召し上がったのが最後です…」
源蔵は申し訳なさそうに頭を下げた。
「…そう…か」
腹のあたりを押えながら、三郎はいかにも食い足りない顔でつぶやいた。
「今度はもう少し多めに作るよう、お福に言っておいてくれ。午後は武術の稽古もあるし、倫太郎だってこれでは足りぬだろう?」
大柄な倫太郎は図星をさされ、照れ臭さそう頷いた。
「お福どのの握り飯はうまいからなあ。この、中に入っているかつお梅が絶品じゃ…」
「お誉めいただいてどうも。母にもよく言っておきます…しかし…」
脱力したように源蔵が溜息を洩らす。
「なんだ、源蔵?」
「三郎ぎみ、最近、呆れるくらい食べますねえ…」
松之助がすかさずぷっと吹き出した。
「は、腹が減るのだから仕方ないだろう?!」
頬を赤らめ、むきになって反論する三郎に、
「近頃、ぐんぐん背が伸びておられますからね。成長期なんですよ。腹が減るのは自然の摂理です」
と、松之助がにこにこと賢しげに言った。
「そういうお前は、いつになったら背が伸びるんだ? 栄養はみんな脳みそにいっちまったのか?」
倫太郎が横から茶々を入れた。
「わ、私は…!」
松之助は思わず腰を浮かせたが、再び座り直すと小さく咳ばらいをした。
「私は…どうせ武芸ではお役にたてませぬから、ちいさくとも良いのです」
「まあ確かになあ…。おお、そう言えば、昼からはおぬしの得意な槍の稽古ではなかったか?」
哀れ、松之助は返す言葉もなくうつむいた。
神童といわれる松之助も武術の時間はたいそう肩身が狭い。
教授陣も、はてどう指導すればよいかと頭を抱えるほど…体力も筋力もない。
とことん武芸には向いていないのである。
さも気の毒そうに、倫太郎が松之助の頭をかいぐりかいぐりと撫でた。
「…まあ、小さくとも良いことはあります。食べる量も少ないですから、部屋住みの次男でも『穀潰し』のなんのと言われずにすみます」
「ふむ…」
曖昧にうなずく倫太郎に、松之助がにっこり笑いかけた。
「よかったですねえ、倫太郎さん、嫡男で」
思わず吹き出した三郎と源蔵の傍らで、倫太郎本人はぼんやりと松之助を見ている。
栗鼠のような目がいたずらっぽく光り、松之助の逆襲は続いた。
「どんな大喰らいでも、嫡男なら肩身の狭いことなんかないでしょう」
「どういう意味だ?」
「いずれは一家を背負って立つ身です。責任重大なのだから、長兄どののおかずが一品多くても弟たちは文句は言いません」
「おうっ」
胸をはる倫太郎に、松之助がわざとらしく溜息をついた。
「しかし大変ですよねえ…嫡男は」
「よくわかっておるではないか…」
お気楽な次三男とは違うのだと大きくうなずく倫太郎に、松之助がとどめを差した。
「素読吟味に合格せねば、家督を継がせてもらえぬのですから…」
「ま、松之助…おのれ!」
『素読吟味』と言われて、ようやく松之助の意図を悟った倫太郎であった。
木立の間をコマネズミのように逃げ回る松之助を、倫太郎がさんざん追い回し、とうとう息の切れた松之助が三郎になきついた。
「倫太郎、まあそのくらいで勘弁してやれ」
にこにこととりなす三郎に、倫太郎も顔を真っ赤にしながら渋々うなずいた。
草むらにどかりと腰を降ろすと、
「くそっ。今にみておれ、松之助。素読吟味くらいこの秋にもうかってみせるわ!」
と豪語した。
「その意気じゃ。源蔵も見習わねば…な」
「わ、わたしもですかあ…」
思わぬとばっちりに源蔵は眉を八の字に下げ、へらへらと頭をかいた。
「わたしは三郎ぎみの身の回りのお世話が仕事ですから…。学問より料理、裁縫と髪結いが上手なほうがいいですよね?!」
「…はて、料理裁縫は近習の仕事なのか?」
冷たく一瞥する三郎を、源蔵は信じられないように見つめ返した。
「下男ならともかく、素読吟味も通らぬものを、近習として側に置くのはいかがなものか…。
父上もお許しになるまい」
「さ、三郎ぎみ…」
源蔵が半べそをかいて、三郎の腕にとりすがった。
そんな薄情なと、お福に良く似た丸い顔が訴えていた。
三郎は凛とした横顔を晒して、あらぬ方を見つめていたが、やがて堪えきれずにくすくすと笑い始めた。
「まあ、今年とは言わぬから、元服までにはなんとかすることだな」
少年たちの間からどっと笑いがおこった。
*
笑いの渦と馬鹿騒ぎがようやく収まった頃、文庫の裏手に人影が現れた。
顔見知りの年少組の少年が、頭一つ背の高い、眉目整った少年と何やら真剣な顔で語りあっている。
「あの小さいほう…脇坂の千代丸じゃないか?」
「知ってるのか、松之助?」
興味をひかれた三郎が尋ねた。
「はい…脇坂の家も勘定方で、家が近所なのです」
二人の様子にただならぬものを感じた。
出ていくことが憚られた四人は、下生えの草の間に身を隠すようにして息を潜めた。
文庫からここまでは距離があるので、話の内容はよく聞き取れない。
年上の少年が千代丸の両肩に手をおいて、なにやら熱心にかきくどいているようだ。
千代丸はうつむいてもじもじしている。
それでも年上の少年は粘り強く語りかけている。
やがて千代丸がためらいがちに小さく頷くと、相手の頬に安堵の笑みが広がった。
二人は目を見交わすと、懐から何か取り出して交換している。
「何をしておるのだ?」
三郎が不思議そうに呟くと、横から源蔵が袖をひっぱって黙らせた。
二人は交換したものを大事そうに懐にしまうと、感極まったように見つめ合っている。
年長の少年が周囲に人気のないのを確かめると、千代丸をふわりと包み込むように抱きしめた。
(あっ…)
はからずも、四人の喉がごくりとなった。
やがて文庫裏の二人は抱擁を解くと、名残り惜し気に左右に別れて去っていった。
草の間から這い出た四人は、二人の去って行った方向をそれぞれに見つめた。
「源蔵、さっきのあれは何だ?」
「…え、えーっとあれはですね…」
「やっぱり三郎ぎみは…御存知ないのですね」
松之助が頬を赤らめて尋ねた。
「何だ、おまえたちは知ってるのか?」
三郎は松之助と倫太郎の顔を交互に見た。
「…藩校ではよくある事です」
「だから何なのだ?」
詰め寄る三郎に、三人は口ごもったまま答えない。
(源蔵、乳兄弟なんだから、おまえが説明しろよ)
(いやですよ、そんなの)
(俺だって、いやだからな)
源蔵、松之助、倫太郎の間で無言の攻防が繰り広げられていた。
「…そなたたち、何ゆえ隠すのだ?」
焦れる三郎を前に三人はどうしたものか困り果てていたが、昼からの授業に集ってきた生徒で周囲がざわつき始めた。
渡りに船とばかり、
「あ、じゃあ、ぼくは槍の稽古があるから…」
「お、おれも、着替えなきゃなんないし…」
倫太郎と松之助はさっさと逃げを決め込んだ。
逃げ遅れまいとして源蔵が咳き込むように言った。
「わ、私も屋敷に戻って薪割りをせねば…」
「源蔵!」
早くもきびすを返した源蔵の背に三郎が鋭く呼びかけた。
「さ、三郎ぎみも早く道場に行かれませぬと。十太夫先生に叱られますよ」
「その手にはのらぬぞ。さっきのは何なのだ?!」
三郎は気になったらとことん解決せねばすまない性格だった。
「源蔵! 答えねば、屋敷に帰ること許さぬぞ!」
三郎の顔が大写しで迫ってきた。
「…わ、私より…そうだ!」
「ん?」
「誠之進様に聞きなされ!」
それだけ言い捨てると、源蔵は脱兎のごとく走り去った。
小太りのくせに逃げ足は迅い。
「おのれ源蔵…。帰ったらとっちめてやる」
三郎は袴についた埃を乱暴に払うと、渋々剣術所へと向かった。
文庫裏の二人が何をしていたのか、気になって仕方ない。
だが、悔しかったのは、少年達の間の秘密から自分が除け物にされたことだった。
三郎は藩校生活を心から楽しんでいたが、時折、ふと疎外感を感じることがある。
今回の件に限らず、武術の時間も皆遠慮して、本気で三郎を負かそうとかかってこない。
そもそも、若君が藩校へ来ていること自体が異例だ。
三郎よりも戸惑っていたのは藩士の子弟たちのほうだろう。
武術の稽古中とはいえ、もし三郎に怪我でもさせれば一大事…と一歩、二歩、引いてしまう気持もわからぬではない。
城と町を隔てる堀のごとく、友人たちとの間の決して埋まらない、埋めることを許されない距離が、三郎にはもどかしかった。
幼い頃、関川の宿で、日がな一日権太たちと山に分け入り、泥まみれになって遊んだ日々を思う。
もう後戻りすることはできないが、母の実家『加賀屋』で育った頃の懐かしい思い出が、かすかな痛みを伴って三郎の胸に蘇るのだった。
つづく
|