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『文庫裏の二人』に気を取られてもたもたしている間に、剣術の稽古開始時間はとっくに過ぎていた。三郎がやってきた頃には、皆、着替えを済ませて道場へ出ていった後で、武道場控室はもぬけの空だった。
道場からは既に激しく竹刀を打ち合う音が聞こえてくる。完全に遅刻だ。
三郎は舌打ちしながら刺し子の稽古着に急いで着替えていると、入口の引き戸が勢いよく開いた。
「お! 遅れてきた不届き者がいるな?!」
場違いなほど明るい声に振り向けば、開けた戸に片手をつっばるようにして、稽古着姿の若い男が寄り掛かっていた。月代も剃らず、牢人者のような風体だ。
見慣れない顔に三郎が不審そうな目を向けると、男は傍若無人に顎をしゃくって尋ねた。
「おまえ、名は何と言う?」
「…三郎」
三郎は一応返事はしつつ、上目使いに男を軽く睨んだ。
「どこの三郎だ。さむれえなら名字があるだろう?」
こやつ、人をからかっておるのか、と三郎はいよいよ不快を露にした。
「結城三郎信尭だ。そういうおぬしは?」
男は片眉を吊り上げて笑うと、
「おまえ、年長者に向かって『おぬし』はないだろう。せめて、『お手前は』くらい言ってみたらどうでえ?」
「大きなお世話じゃ…」
聞こえぬように呟いたつもりだったが、相手は地獄耳だった。
「何か態度のでかい奴だなあ…。おまえ、重臣の子かなんかか?『ゆうき』ねえ…?家老三家の名前じゃねえし…」
無精髭だらけの顎を撫でさすりながら、男は首をかしげた。
三郎は付き合いきれぬ、とばかりに男を無視すると、手早く着替えをすませる。
無言で男の脇をすり抜けて道場へ向かおうとした。
「ちょっと待て!」
「まだ何か用か?」
「師範代の前を通る時は、礼くらいしていけ…三郎」
(このふざけた奴が師範代?!)
呆れ顔で見つめ返す三郎に、酒井十太夫の高弟、師範代の吉田小兵太は不敵に笑いかけた。
*
清清しい風が吹き抜けた昼間とはうってかわって、夕刻になると、妙に空気が生暖かく湿り気を帯びてきた。
案の定、陽が落ちて間もなく、かすかな雨音が樋を叩き始めた。
やがて雨は糸垂れのようにまっすぐ落ちてきて、樹木や下草を濡らした。
生茂る緑と雨の匂いが混ざり合い、障子戸の内側にも仄かに漂ってくる。
夕餉の後、三郎は誠之進の部屋を訪れ、膏薬を塗ってもらっていた。
「うっ…」
三郎は薬の冷たさに反射的に身を捩り、眉をしかめた。
「大分こっぴどくやられましたな…」
かすかに笑いを含んだ声で誠之進が応じた。
三郎の脇腹のあたりに青痣ができている。
竹刀で思いきり胴を払われたのだろう。見るからに痛そうであった。
夕餉を一緒にとりながら、三郎に道場での一件を聞かされ、誠之進は思わず目を見はった。元服後、剣術修行の旅と称して諸国を放浪していた友人、吉田小兵太が高山へ戻ってきたという。それも、いきなり藩校の剣術所に師範代として現れたというから、驚くではないか? ふらっと姿を消し、何の挨拶もなく戻ってくるあたり、吉田らしいと言えば言えるのだが…。
(十太夫先生も一言教えてくださればよろしいものを…)
苦笑しながらも、誠之進は小兵太の帰郷を喜んでいた。
早速三郎の相手をしてくれたらしい。
しかもこの傷の具合からするに、かなり激しく打ち合ったようだ。
日頃、「誰も彼も手加減してばかりで、本気で対戦してくれぬ!」
と、不満を洩らしていた三郎だ。
今日はさぞかし充実した稽古になったろう。
小兵太ならこれからも三郎の良い師匠というか、遊び相手になってくれようぞ…。
誠之進は何やら楽しげな様子で、膏薬を塗り終えた。
「さ、これでよろしかろう」
三郎に向かってうなずくと、誠之進は薬箱を片付け始めた。
「なあ、誠之進…」
諸肌脱ぎになっていた着物を直しながら、三郎が呼び掛けた。
誠之進は片付けの手はそのままに、目で問うと、
「誠之進も今の私くらいの年には、藩校に通っていたのだろう?」
「はい。十四で入学しました。元服して江戸へ出るまで毎日のように通いましたよ」
「ふうん…」
三郎はうなずくと、一旦黙ってしまった。
「どうかなさいましたか? 何か気になることでも?」
微笑んで先を促す誠之進に、
「う、うん…」
三郎は口籠りながら、ふっと睫を伏せた。
(おやおや…一体どうなされたのだ?)
いつもの子供子供した表情は影を潜め、かすかに色を刷いた目元は艶さえ感じさせた。これは何か色っぽい話題でも出るのかと、誠之進は身構えた。
「実はな、誠之進。ちょっと聞きたいことがあるのだ…」
「はい…何なりと?」
「誠之進は…誰かと、その…『持ち物』を交換したことはあるのか?」
「持ち物を換える…ですか?」
一瞬話が見えなかった誠之進だが、少年時代の記憶を辿れば、はたと思いあたるものがあった。
「ああ、あのことですか?」
片手で膝をぽんと叩いてうなずけば、三郎は頬を染めて俯いている。
(何だ、この恥じらうような風情は…?)
まさか…?!
嫌な予感にかられた誠之進は、思わず前のめりになって尋ねた。
「三郎ぎみ! 誰ぞに契ってくれと迫られたのですか?!」
「わ、私ではない!」
慌ててかぶりを振る三郎を穴のあくほど見つめると、誠之進はほっと肩で息をついた。三郎は誠之進の反応を不思議そうに眺めていたが、やがておずおずと切り出した。
「今日、文庫の裏で見たのだ…」
(な、何をご覧になったのだ)
「懐から何か出して交換しておった…」
誠之進はほっとしたように息をついた。
「ああ…それなら多分手拭いでしょう…」
『見た』ものがその程度でよかった、と安堵する誠之進だった。
三郎はなるほどと頷く。
「あれは…手拭いだったのだな。だが、いったいどんな意味があるのだ?」
流石の誠之進も三郎に面と向かって問われると、何やら気恥ずかしくて即答しかねた。
「松之助も倫太郎も、源蔵でさえ知っているのに、誰も教えてくれぬのだ」
悲しげに呟く三郎が哀れだったが、三人の気持もよくわかる。
逃げた三人に代わって自分が貧乏くじを引かされた気もするが、これも守役の勤めと、誠之進は諦めて口を開いた。
「わかりました。お話しましょう」
「うん!」
三郎が目を輝かせた。
「手拭いや鉢巻きのように、お互いの身につけるものを交換するのは…一種の証なのです」
「それは?」
「つまり…『念友』として契りを交わしたという意味なのです」
「ねんゆう?」
三郎が小首をかしげた。
(三郎ぎみに念友の意味から説明せねばならぬのか?)
答えようとしない誠之進を、黒目がちの瞳がひたと見つめる。
(勘弁してくれ…)
誠之進は思わず頭を抱えた。
(何の因果で三郎ぎみと膝突き合わせて、斯様な話をせねばならぬのだ…)
眉間に皺を寄せて押し黙っていると、とうとう三郎が遠慮がちに尋ねた。
「…つまり…あの二人は好き合っているということなのか?」
「い、いかにも…」
とりあえず大きく頷く誠之進だった。
「友情の証なのだな?」
「そ、それは少し趣きが違いまするが…まあ、似たようなものでしょうか…」
誠之進は涼しい顔を装いつつ、手のひらにはじっとりと汗をかいていた。
(ま、まあ今日のところは無理に誤解を解かずとも…)
さて、いかにしてこの話を切り上げようかと思案していると、三郎が無邪気に問いかけた。
「ところで誠之進、さっきの質問にまだ答えておらぬぞ?」
「は?」
「そなたには藩校時代、『契り交わした相手』はおらなんだのか?」
いきなり面打ちをくらったような気分だった。
端座したまま思わず背筋が伸びた。
「わ、わたくしの事などどうでもよいではありませぬか?!」
笑って誤魔化そうとしたが、三郎の寂しげな視線にぶつかった。
「…そなたの話が聞きたいのだ」
「…?」
「…毎日一緒に暮らしておるのに、誠之進は自分のことを何も話してくれぬ」
「若…」
「あの新しい師範代、そなたの友だと言っていたぞ?」
「はい。吉田は同い年で、子供の頃から直心影流酒井道場でずっと一緒でした」
「長年のつきあいなのだな…」
「しかし、鉢巻きや手拭いを交換するような仲ではござりませぬ」
にこやかに微笑みながらも、
(小兵太と契るなぞ、冗談ではないわ)
と、誠之進は内心鳥肌をたてていた。
「では他には?」
三郎は是が非でも誠之進の交友関係を聞き出すつもりらしい。
相変わらず好奇心の強いお方だと苦笑しながらも、誠之進は正直に語った。
「吉田の他にも、櫻田、佐久間という親しい者がおりました。皆、剣友、学友で、切磋琢磨してきた仲です。尊敬に値する優れた男たちだと思っています。ですが…」
誠之進は一度言葉を切って破顔した。
「二人とも『念友』ではござりませぬ。それに、あれはどちらかというと、少し年の離れた者同士で交わす、義兄弟の契りのようなものです」
「なるほど…そうなのか」
黒目がちの瞳が何やら安心したように誠之進を見上げた。
結局、三郎が『念友』の意をどこまで悟ったのか、誠之進は計りかねたが、三郎は誠之進の答えにある程度満足したらしく、それ以上食い下がろうとはしなかった。
行燈の火影(ほかげ)を挟んで、二人はしばし心地よい沈黙に落ちた。
ぼんやりと雨音に耳を傾けていると、庇を叩く規則正しい音がふいに乱れた。
「風が出てきましたな。雨戸を閉めて参ります」
誠之進は立ち上がると、背中に三郎の視線を感じながら縁側へ歩み寄った。
慕わしげに追いかけてくる眼差しは、三郎が子供の時も今も変わらない。
いつしかそれに慣れた誠之進は、羽毛がまといつくような甘やかな感覚に、しばし幸福な気分を味わう。
雨戸を閉めながら、誠之進が天を仰いで言った。
「このぶんだと、明日の馬術練は中止ですな…」
三郎が背後で残念そうにうなずく気配がした。
空には星ひとつない。
深い闇の中、誠之進は雨風が梢を揺らす音に、しばし耳をすませた。
薫風 了
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