二十の巻「寒露」1

主な登場人物


by 戸田采女


『惣一郎様!』

 いずこから飛んできたのだろう? 
光の矢のごとく、悲痛な叫びが惣一郎の胸を貫いた。
(右近…?!)
声が…聞こえたような気がした。


 高山藩江戸屋敷。九月にはいったばかりの宵のことだった。

 奥へ向かう途中とつぜん歩みを止めた惣一郎を、先導する御年寄の藤江が振り返った。
「若様、いかがなされました?」
惣一郎は指先であごをさすりながら、思案げに宙を見つめている。
「若様?」
「…悪いが、今宵は奥へはわたらぬ」
「若様?!」
「済まぬ…その気が失せた」
惣一郎は言葉少なに言い捨てると、きびすを返し、御鈴口(奥と表をつなぐ殿様専用の通路)を表へと戻っていった。そうはさせじと藤江が打ち掛けの裾を翻して追いすがる。
「惣一郎様、なりませぬぞ。今宵はぜひともお渡りくだされと、お牧の方様が…」
惣一郎は立ち止まると、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「…いくら母上とはいえ、身供の閨のことまで口出しは無用と伝えよ」
再び大股で歩き出した惣一郎に、藤江はなおもとりすがった。
「ならば、早うお世継ぎをこしらえなされませ。さすれば、お方様も何もおっしゃいますまい!」
惣一郎はつかまれた袖を振払い、
「…人の顔を見れば、ふたことめには世継ぎ世継ぎと…」
「それが嫡男の務めにござります」
「私に子ができずともお家断絶の憂いはない。ほれ、国許に立派な直系の男子がおるではないか…?」
惣一郎は唇の端に皮肉っぽい笑みを浮かべて藤江を見た。惣一郎の意図を察した藤江がさっと顔色を変えた。
「…惣一郎様、お方様の前で、それだけは口が裂けてもおっしゃいますな…」
惣一郎は鼻を鳴らすと、
「ともかく、今宵は気分がのらぬ。綾(惣一郎の正室)の寝所へ行ったところで身供のものは役にたたぬぞ」
「若様!」
老女とはいえ一応女である。あまりにあけすけな惣一郎の物言いに、藤江は袂で顔を覆った。
その隙に惣一郎は早足で御鈴口を引き返すと、小姓に迎えられて表へ戻ってしまった。
「惣一郎様…」

 今宵も奥方様のもとへお連れすることができなんだ…。またしても使命を果たせなかった御年寄、藤江のため息が鈍くただよった。藤江はしぶしぶ先ほど預かったばかりの御剣を表勤めの小姓に返し、悄然と奥に向かって御鈴口を引き返していった。


***


 花心亭の衝撃から一週間が過ぎた。

 あの日、夕暮れ近くになってようやく意識を取り戻した右近は、なんとか荒井宿まで自力で戻った。己ひとりなら、のたれ死のうが、どうにでもなれという心境だったが、気がついたとき、愛馬の吹雪が心配そうに右近に鼻を寄せてきた。そういえば、昼前に高山を出たきり餌どころか水もやっていない。
「よしよし…悪かったな…」
右近は馬の眉間をなでてやると、力を振り絞って吹雪にまたがった。
日没までに荒井にたどり着き、吹雪を休ませてやらねば…。

 愛馬に対する責任感だけが右近を支えていた。




 秋も深まり、菊の香が武家屋敷のあちこちから漂いはじめた。
重陽の節句を明日にひかえ、城下は島崎屋の噂でもちきりだった。近日中に米を満載した船が今町へ入港するらしい。

「予定より少し遅れたが、島崎屋の千石船がとうとう大坂からやってくるそうじゃ」
「島崎屋は今回米を献上しただけでなく、御用金も五千両ほど出したと聞くぞ?」
「六、七年前にはしがない味噌問屋だったそうだ。北前問屋とは斯様に儲かる商売なのかのう…」
「だが、板一枚の下は地獄というではないか。命をかけて商売しておるのだ。それくらいの儲けがないとやっておれぬだろう」
「何やら、男としては羨ましい気もするの…」
「ああ、武士といえども、太平の世では血わき肉おどるようなことには出会わぬからなあ…」

 城下を歩く下級藩士たちも、島崎屋の千石船到来の噂に興奮ぎみのようである。

 「ともあれ、これで来年は何とか食いつなげるな」
「ああ、いくら倹約してももう限界だったからな。まったく島崎屋さまさまじゃ」

 藩士たちはこれで年末に無事、俸禄がもらえる。夏まではあわや飢饉かと戦々兢々としていただけに、喜びもひとしおだった。


***


 一方、右近は花心亭のあの日から、病を理由に出仕していない。

 日曜に馬で出かけたきり、月曜の昼まで右近は屋敷に戻らず、孫作は生きた心地がしなかった。ようやく右近が戻ったとき、ほっと胸をなで下ろしたものの、明らかに主の様子がおかしかった。疲れたから仮眠をとりたいといって横になったきり、右近は夕方になっても起き上がれなかった。

 ただでさえ最近食が落ちていたところへ、熱まで出したとあっては孫作も黙っていられない。翌日、御帳部屋に欠勤届けを出し、右近の母の主治医、桂庵を若党に呼びにいかせた。

 昼前に往診にやってきた桂庵は、脈をみたり、胸の音をきいたり、ひととおりの診察をすませると、
「少々、御脈が乱れておりますな。心の臓がかなりお疲れのようです。最近、御用繁多でございましたか?」
右近は寝巻を元に戻しながら、無言でうなずいた。
「お体の疲れもですが、何かお心にかかることがございますのか?」
枕元に付き添う、母・結衣と孫作が心配そうに右近の目をのぞきこんだ。
右近はふたりとは目を合わさず、鼻先で軽く笑うと、
「勘定吟味役は何かと人の恨みを買う役目ゆえ…心にかかることは山ほどある」
「心身とも休ませてやる必要がござりますな…」
「……」
右近は何とも答えず、ふたたび夜具の上に身を横たえた。

「お熱のほうは、この熱冷ましを飲めばすぐにも下がりましょうが、しばらくは御勤めを休んで、静養されるがよいと存じます。滋養のあるものを食べ、十分な睡眠をとられることです」
「わかりました…本日はどうも、ありがとうございました」
結衣と孫作は深々と頭を下げて礼を言った。
桂庵は軽く会釈すると、孫作に見送られて玄関へと向かった。


 ほれ、どうせ月並みなことしか言わぬではないか。
医師など呼んでも無駄だと申したのに。私はどこも悪くはない。

 言われなくとも、しばらく休ませてもらう。
何のために、ここまで粉骨砕身働いてきたとおもう…。誠之進を次の上席家老にするためだ。だが、もはやその気も失せた。三郎の色香に迷った誠之進のことなど…もう私は知らぬ。

 あれほど忠告したのに…。
あれほど三郎と一緒にいてはならぬと言ったのに…。

 貴公はすっかりあの淫売の虜だ。
もはや私が何をいっても聞かぬのであろう?
…ならば好きにするがよい。

 貴公のために我が身を危険に曝すのはやめた…。
内藤の藩金流用のことも、これ以上は私の知ったことではない。監査はすませ、不正の証拠は押さえたのだ。あとは貴公とご家老でいかようにも利用するがよい。吟味役としての私の仕事は終わったのだ…。

 なれど、田村の女の件だけは片付けねばなるまい…。田村の残した証拠を押さえたら…それでお役御免にしていただこう。


 右近はだるい身体を起こすと、上席家老・溝口主膳あてに書状をしたためるべく、文机の前に正座して、硯で墨をすりはじめた。普段なら墨を摺っていると心が落ち着くものだが、今は…。

 全身に広がった鈍い痛みが、絶え間なく右近を苛む。何をしていても脳裏に浮かび上がるのは、仲睦まじい誠之進と三郎の姿。見交わす目と目。絡み合う姿態…。
 
 あの日曜、誠之進に想いを打ち明けようと、決心して西の丸に向かった。死ぬほどの勇気を振り絞って行動を起こしたが、何もかもが遅すぎた。

『誠之進…。なぜ…三郎なのだ?!

三郎の何がそれほどに貴公をとらえて離さぬのか?

なぜ…私では駄目だったのだ?』

一心に墨を摺る右近の手の甲に、熱い雫がひとつ、こぼれ落ちた。


つづく





壁紙は『十五夜』さんからお借りしています。




 
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