二十の巻「寒露」2

by 戸田采女


「白菊丸様」
だるい身体にむち打って墨を摺り終えたとき、障子戸の向うから孫作の声がした。
「孫作か、入れ」
障子戸が開き、孫作が白髪頭をのぞかせた。
「筧真之介様がお見舞いに…。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「うむ…」
人に会いたい気分ではなかったが、真之介の用向きはわかっている。

(そろそろ来る頃とは思っていたが…)

 田村の女の件である。最初に部下の之介から知らせを聞いてほぼ二週間。もはや主膳に知らせぬわけにはいかない。主膳が動けば内藤の藩金流用が世間の知るところとなる。右近はいよいよ内藤の報復を覚悟した。

(今さら…私が惣一郎様の閨に侍っていたこと…知られたからどうだというのだ。誠之進が妬いてくれるとでも思ったか…)

 右近は文机の前で自嘲的な笑みを洩らし、溜息をついた。
「私が座敷に出よう。孫作、着替えを手伝ってくれ」
「…かしこまりました」

 紬の袷に羽織をはおって右近は座敷に出向いた。既に案内され、茶を喫していた真之介は右近の姿を見るなり、深々と一礼した。
「右近様、お加減は…いかがでしょうか?」
尋ねながら真之介の瞳が早くも曇った。聞いたことを後悔しているのがわかる。それほど自分は憔悴して見えるのだろうか。

 右近はさびしく笑った。
「面目ないが…御覧の通りだ。…この大事な時期に誠に申し訳ない」
「いいえ、これまでの激務を考えれば、お元気でおられるほうが不思議なくらいでした。ここはゆっくり養生なさって下さい」
右近は答えず無言で睫を伏せた。
「して…用向きは。見舞いだけではなかろう?」
何の話かはわかっている。本来なら自分のほうから真之介に指示を出さねばならぬ立場なのに…。右近は情けない気持ちでいっぱいになった。

 真之介も右近の心中を察したのか、苦しげに眉根を寄せた。
「では…申し上げます。右近様、田村の女の件、もはや一刻の猶予もなりませぬ。勘助が身辺を警護しておりますが、内藤側の者に居場所を嗅ぎ付けられるのも時間の問題かと…」
「そなたの言う通りだ…」
真之介は言いにくそうに続けた。
「右近様、恐れながら…そのお身体では、忍びの者たちを束ねて指示を出すのは…ご無理かと」
右近は真之介に向かって力なく微笑むと、
「許せ、真之介…。この土壇場へ来て何の役にも立たぬとは情けない」
と、静かに頭を垂れた。
「決して左様なことは!」
真之介は激しく頭を振って否定した。

(真之介…そなたは私の本性を知らぬゆえ、どこまでも私をたててくれるのだな。私は恋が破れて腑抜けになっているだけの大うつけだ。内藤嶺次郎以下の愚か物だ。そなたの尊敬には値せぬ…)

「真之介、そなたが中心になって進めてくれ。ご家老にも直接報告するように。私を通す必要はないゆえ、思うように采配をふるえ」
「…心得ましてござります」
首肯しながらも、右近を外すのは不本意だと言わんばかりに、真之介は苦しげに息を吐き出した。
「ちょうど今、御家老に宛てた書状を書こうとしていたのだ…。田村の遺品を押さえた時点で藩金流用の探索は終了、私はお役御免を願いでるつもりだ…」
「右近様…?」
お役御免と聞き、真之介はさすがに驚いたようだ。
「吟味役をお辞めになると…?」
「いかにも」
「そんな…、ご快癒されたあかつきに、復帰すればよろしいのでは? 何故辞めるなどと…」
「…その話はまたにしよう、真之介」
右近はやんわりとこれ以上の詮索を拒絶した。
「御家老への書状をしたためるゆえ、しばらくここで待て。よいな」
「右近様…」
納得できぬ様子の真之介を座敷に残し、右近は主膳への書状をしたためるため、ふたたび自室へと戻っていった。




 真之介に探索を仕切らせるため、とりあえずその旨を記した書状を持たせたものの、主膳に挨拶なしでは済むまい。右近は明日にでも溝口邸を訪問するつもりであった。

 右近は真之介が辞して後、ふたたび寝巻に着替えて横になった。




 夕方から曇り空が広がっていたが、とうとう降り出したようだ。雨戸がかすかに鳴り、庭土をぴしゃぴしゃと叩く雨音が、外の暗さを思わせた。

 あれから一週間、誠之進のほうからは何の音沙汰もない。右近が欠勤していることを知らないのか?小兵太は、あの日右近が誠之進を訪ねたことを、伝えてくれたのか?

 なぜ来ない…誠之進?

 なぜ来てくれぬのだ…。

 もはや、三郎のこと以外眼中にないのか…。

 ばかな…こんな思いをしてまで、まだ誠之進に逢いたいというのか?

 …なれど、このままではあきらめきれぬ。

 誠之進…!



***



 西の丸。三郎の館。

 重陽の節句の前日、誠之進の妹・志保が訪ねてきた。離れの誠之進の居室で、茶菓子を運んできた源蔵も交えて、兄と妹はお互いの近況を語り合った。

「珍しいな、そなたのほうから訪ねてくるとは」
久しぶりに会う妹に、誠之進はにこやかに語りかけた。
「あれえ、志保様はしょっちゅう来ておいでですよ。誠之進様がたまたまいらっしゃらないだけです」
ぼたもちを頬張りながら、源蔵がいたずらっぽい眼差しで、誠之進と志保を交互に見た。

「お休みといえば、茸狩りだ遠乗りだって、三郎ぎみと出かけてばっかですからねえ…」

 満月のような顔をほころばせ、源蔵はからかうように小首をかしげた。誠之進は小さく咳払いをすると話題を変えた。

「ところで志保、本日はいかがした?」
「お兄様と三郎ぎみに、母上とふたりで縫った着物を届けに参りましたの。そろそろ綿入れが恋しい季節かと思いまして…」
「おお、それはかたじけない。母上にもよう礼を言うておいてくれ」
志保は口元に薄い笑みを浮かべると、
「ところで兄上、右近様のお見舞いには参られましたの?」
「見舞い…?」
「あらいやだ、ご存じなかったのですか?」
「右近が…ふせっているのか?」
「今週は御帳部屋にも出仕されず、寝込んでおられたようです。それが、昨日、大切なお話があるといって父上様を訪ねてこられたのですが、何やらひどくおやつれのご様子で…。母上とも案じておりましたのよ」
「それはまことか…」
目を見開いて問い返すと、志保は瞳を曇らせてうなずいた。

 今週に入ってから、誠之進は信輝公の命を受け、領内の各地へ視察に行き、最終的な作柄を調べて回っていた。予想通り今年の米の収穫は激減し、当初言われていた二割をわずかに超える程度であった。

 信輝公に面謁して報告する以外、本丸には滅多に顔を出さなかったので、右近が欠勤していることなど知らなかったのだ。
「…志保、で、右近は何用でわざわざ父上を訪ねてきたのだ?」
「さあ…。私たちには何も」
「どんな様子だった?」
「よほど大事なお話だったのでしょう…。父上も右近様も何やら緊迫した御様子で…」
「父上は何故私に知らせてくれぬのだ…」
誠之進は苛立たしげに呟いた。
「父上は今朝早くおでかけになりました」
「いったいどちらへ?」
「それもわかりませぬ…。何やらお忍びの様子で頭巾など被られて、駕篭にのってゆかれました」
「おひとりでか?」
「いえ、右近様の部下で、筧様とおっしゃる方と、郎党二名ばかりを従えて…」

 誠之進は腕組みをして黙り込んでしまった。

(藩金流用の探索に絡んで、何か動きがあったのだろうか? いや、それもだが、まずは右近だ…)

「志保、せっかく来てくれたのに済まぬが、これから右近の屋敷に見舞いに行ってくる…」
志保はうなずくと
「そうなされませ。私のことならおかまいなく」
「志保様、小兵太さん、今日は藩校休みだから本丸の稽古所にいるよ。あとで寄っていかれたら…」
「源蔵殿…!」
志保は小声で鋭く言うと、何やら源蔵に目配せしている。
「何じゃ…ふたりでこそこそと?」
「いいからお兄様は早くゆかれませ!」
志保は誠之進のほうへ向き直ると、とってつけたような笑顔で誠之進を促した。訝しくは思ったが、今は志保に言われるまでもなく、右近の屋敷へと急ぎたかった。
「ではこれにて。志保、皆によろしくな」
「はい…いってらっしゃいませ」
妹は殊勝に畳に手をついて兄を送り出した。

 誠之進が離れを出て木戸の向うに消えると、志保のたおやかな手がおしゃべりな源蔵の頭をぴしりと叩いた。


***


 早足で大手門を出た誠之進は、折よく通りかかった辻駕篭を拾い、番丁の櫻田邸へ急いだ。使いもやらずにいきなり訪うのは非礼だったが、長年の付き合いもあるし、病というなら今は非常時だ。多少のことは許されるだろう。

駕篭に揺られながら、誠之進は夏以来の右近の様子を思い返していた。
今町湊に行った頃から疲労の色が濃く、案じた誠之進は父・主膳にも、右近の負担を軽くしてくれるよう願いでていた。




 八月の終わり、一度父と膝を詰めて話し合うため、溝口邸に帰った。

「父上、藩金流用の件につきましては、改ざんされた帳簿、その他内藤の不正の証拠はそろったのでござりましょう?」
「確かに、過去数年間の改ざんの跡が見られる勘定方の記録はすべて押さえた。なれど、肝心なのは『誰』の命でそれが行われたかだ。生証人の田村が消されてしまったゆえ、あとは田村の遺した証拠の探索もしくは、あらたな生証人を見つけるしかないのだ。誠之進…、詰めの作業はこれからなのだぞ」
「なれど…、父上もお気付きではありませぬか? 決して弱音をはかぬ男ゆえ、口に出しては申しませんが、右近はもう心身ともに疲れ果てております。今町での商人との会合の折も、肝を冷やした一幕がありましたぞ」
「…探索を始めて二年になるからな。まことに目覚ましい働きぶりだ。藩の機密ゆえ少人数で動かざるを得ないのだが、儂とて右近の手腕には感心しておるのだ。江戸から呼び戻した介があったというものじゃ」
「父上…」
「誠之進、あと一歩なのじゃ。どの程度決め手となるかわからぬが、田村の遺品を手に入れれば、探索もひとつの峠を超える。…ここは右近にも、もう一踏ん張りしてもらわねば…」
「ならば、父上は右近に倒れるまで働けと申されるのですか?」
「何も左様なことは言うておらぬ!」
「同じことです…」
「されど、誠之進。米の手配の一件で株を上げた内藤は、今後かさにかかって増長してくるぞ。今のうちに叩いておかねば…」
「父上…焦っておられるのですか?」
「…其許こそ、なにを呑気に構えておる!内藤が力をつければ、いずれ其許を脅かすことになるのだぞ!」
「右近は…私との友誼のため、江戸留学を信輝公に進言してくれた父上への義理のため、無理を重ねているのです」
「わかっておる…」
「…わかっていてなお、お命じになるのですか」
「…あと一息なのだ、誠之進」
「父上…、酷なことを申される」


「…ひとつお尋ねしてよろしいでしょうか?」
「何じゃ。申してみよ」
「閣議にもかけず、独断で藩金を流用して千石船を造る…、島崎屋という海商を援助して育てる…。確かに目的はどうあれ、横領は罪でしょう。独断専行も甚だしい。されど…、今回、島崎屋がおらねば我が藩は…」
「それを言ってはならぬ、誠之進」
「戦国の世ではあるまいし、たまたま結果が公の益になったからといって、斯様な不正を許しては、政(まつりごと)はなりたたぬ。微塵も依怙の沙汰なく、不正者には謹厳な仕置きがなされねばならぬ」
「…正論ではござりますが」
「誠之進…、そなたも斯様なことで判断に迷うようでは、上席家老はつとまらぬぞ。心しておけ…」
「…お言葉、しかと心に留め置きまする」




 父・主膳との会話を反芻しているうちに、駕篭は早くも番丁に到着した。城の東側のこの一帯には中・下級藩士の屋敷が軒を列ねている。

 櫻田邸で門番に訪いを告げ、しばらく玄関で待っていると、ほどなく用人の池田孫作がまろぶように廊下をやってきた。

「誠之進様! ようお越しくださりました!」
嗄れ声で叫ぶと、誠之進の手を握らんばかりに感謝した。
「突然お訪ねしては非礼かとも思ったが、右近が一週間も出仕しておらぬこと、今朝、妹から聞いてな。今週は御領内の視察に出ていたため、見舞いが遅れてしもうた…まことに申し訳ない」
「左様でござりましたか。実はこちらから、一度誠之進様にお知らせにいこうかと考えておりました矢先で…。ともあれ、お上がりくださりませ。白菊丸様に知らせて参ります。座敷のほうでお待ちくださりませ」
「うむ。では上がらせてもらうぞ。差し支えなければ、先に結衣殿にご挨拶したいのだが」
「奥方様でしたら、最近はお加減もよろしく、床も払っておられますゆえ…。座敷のほうへお呼びいたしましょう」

 孫作は手を打って女中を呼び、結衣の部屋へ誠之進の訪いを知らせにいかせ、自分は右近の居室へと急いだ。


つづく





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