二十の巻「寒露」3

by 戸田采女


「…今日は誰にも会いとうない」
「なれど白菊丸様、他でもない誠之進様ですぞ?!」
「誰にも会いとうないと申しておる!」

 右近は寝間着姿で布団の上に端座していた。青白く透き通った膚が、感情を昂らせて色をはいた。膝の上の拳を震えんばかりに握りしめ、右近はかたくなに会うことを拒んだ。

「気分がすぐれぬのだ…。斯様な姿を誠之進に見られとうはない」
「なれど…!」
「せっかくだが帰ってもらってくれ」
「白菊丸様!何故です? なぜ誠之進様にお会いになりませぬ? あれほど…一日千秋の思いで待っておられたのではありませぬか?」

「孫作?!」
竜の逆鱗に触れたかのごとく、右近の形相が変わった。病身とは思えぬ気迫で孫作を叱責した。
「妙なことを申すな! そなたに何がわかる?!」

「白菊丸様…、爺は、爺は…存じておりました…」
枕元に正座した孫作が声を震わせた。
「何を…」
「爺は…ずっと白菊丸様のお心を…」
「ま、孫作…」
今度は右近が声を震わせた。

「赤子の頃から片時も離れずお世話をして参ったのですぞ…。この爺が…誰よりも白菊丸様のお心はわかっております。白菊丸様は…ずっと誠之進様のことを……」」
「…言うな、孫作」
右近は息を詰めてうつむいた。
「おふたりの間に何があったのかは存じませぬ。なれど、先週の日曜、お城に誠之進様を訪ねられてから、白菊丸様はおかしゅうなってしまわれた。いったい何が…?!」

「何もない。会えなかったと申したであろう?」
「あの日、馬でいったいどちらへ参られたのです?」
「そなたには関係ない!」

 孫作は目頭を押さえ、一度おおきく洟をすすった。
「そうやって…何もかもご自分の中に閉じ込めようとなさる…。内藤様に茶屋へ呼び出された時のことも、この日曜のことも…、肝心なことはなにひとつ教えてくださらぬ…」
「爺…」
「この爺はそこらの棒切れと同じでござるか?」
「な、なにもそのようなこと…」
狼狽する右近に向かって、孫作は決然と言った。
「棒切れには棒切れなりの考えもござる。誠之進様をこちらにお連れ申し上げまする」
「孫作?!」
「逃げてはなりませぬ、白菊丸様」
「孫作…」
「お心のうちを包み隠さず伝えるのです。誰よりも信頼し、頼みとするのが誠之進様ならば、斯様な時こそお縋りなされ」
「ま、孫作…」

(そのようなことができれば…!そなたは私にどうしろというのだ…)

「…誠之進様を呼んで参ります」
 孫作は右近の返事を待たずに一礼すると、障子戸をあけて部屋を出ていってしまった。




 誠之進が右近の母・結衣と歓談しているところへ、孫作が眉間に皺を刻んで戻ってきた。
「誠之進様、白菊丸様のお部屋のほうへどうぞ」
「今も横になっておるのか?」
「いえ、夜具は敷いたままにござりますが、お起きになっておられます」
「あいわかった…」
誠之進は孫作に頷くと、結衣のほうへ向き直って一礼した。
「では、某はこれにて。少し多めに人参を届けさせますゆえ、今度は右近と二人で飲んでくださりませ」
「お心づかい痛みいります…。御家老や奥方様にもよしなにお伝えくださいませ」
「ご母堂のお元気な姿が、右近にとって何よりの薬となりましょう…」
結衣の頬に右近に似た、透き通るような笑みが浮かんだ。誠之進は目を細めてうなずくと、立ち上がって座敷をあとにした。




「白菊丸様…」
障子戸の前に座ると、孫作は室内にむかって声をかけた。
「誠之進様をおつれいたしました」
応えはない。
孫作は再び声をかけることなく、意を決したように障子戸を開けた。
「どうぞ…お入りくださりませ」
誠之進に入室するよう促すと、孫作はそのまま一礼して立ち去ろうとする。
「孫作殿…?」
普段と様子の違う孫作に、誠之進は戸惑いを覚えた。だが「いかがなされた?」と唇を動かした途端、孫作はきびすを返して廊下を引き返していってしまった。

 廊下に残された誠之進は訝しげに孫作の後ろ姿を見送ると、室内に目を向けた。右近は夜具の上に寝巻姿で端座している。

「右近…」
声をかけたまま、誠之進はあとが続かなかった。
とりあえず室内に入り障子戸を閉める。黙って枕元に歩み寄り腰を降ろした。

 頬がこけ、憔悴しきった面持ちで、右近は石像のごとく微動だにしなかった。伏目がちに下を向いたまま、誠之進と目を合わそうとしない。

 思い返せば先月の終わり、城中で出会ったときも様子がおかしかった。あの時、もっとしつこく尋ねておけばよかったと誠之進は悔やんだ。

「右近…見舞いが遅れてすまなんだ。貴公がふせっておること、今朝、志保から初めてきいた」
右近は唇の端に力なく笑みを浮かべた。
「よいのだ。貴公も忙しい身ゆえ…」
「…無理をしたのだな。やはり…」
「なに…私がやわなだけだ…。面目ない」
右近は相変わらず誠之進の顔をまともに見ようとはしなかった。
「今町から戻ってのち、父上に藩金流用の探索は目付にゆだねるよう進言したのだ…なれど今回も聞き入れてもらえなんだ…」
誠之進は父を説得できない己のふがいなさに唇をかんだ。
「貴公が気に病むことはない…、誠之進、それにあの件はもうじき片がつく」

 言い終わると、右近がようやく顔を上げた。
「田村の女が見つかった。勘助の手柄だ。貴公のにらんだ通り、自分に万が一のことがあったら、上席家老・溝口主膳に届けよと、証拠の品を女に託してあったのだ。黒井宿の飯盛り女だった」
「なに…、では貴公、昨日病身をおして父上を訪なったのは…」
はたと膝を打つ誠之進に、右近はおおきくうなずいた。
「いかにも」
「それで父上は今朝早く出かけられたのだな…」
「今頃は、黒井の覚心寺という寺で女と対面しておられるはずだ」
「なるほど…そうであったか…」
「誠之進…」
「ん?」
「貴公が案じていたように、やはり私には荷が重すぎたようだった…。医師のみたてでは、過労で心の臓が弱っているらしい。情けない話しよ…」
ふっと自嘲的な笑みを洩らす右近だった。
「不正の調査から運上金制度にいたるまで、あれもこれも背負いこまされていたからな。だが…」
誠之進は安堵したように目元を和ませた。。
「これで、藩金流用の調べは終わりだろう? 貴公の役目は終わったのだ。後のことは父上や目付にまかせて、これからは本来の勘定方の仕事にだけ専念すればよい」
「…どの道、こんな身体では役にたたぬ。昨日、御家老にもお役御免を願い出てきた…」
「なに…吟味役を辞めるというのか?」
右近は静かに首肯した。
「藩金流用の件が片付けば、今の勘定奉行、梶田殿が有能で信頼に足るお人ゆえ、当分監査の必要もないだろう。梶田殿が奉行を勤める限り、勘定方内部の腐敗は心配せずともよい…」
「右近…」

 会話が途切れた。

 庭の柿の木の梢に舞い降りたか、障子戸の向うから、山鳥がちゅんちゅんと鳴き交わす声が聞こえてきた。

ややあって右近がふたたび口を開いた。

「誠之進…」
声の調子が微妙に変わっていた。
「何だ…?」
「長い付き合いだったが…もはや…私は貴公の助けにはなれぬ」
「え…」
何を言い出すのだ、と誠之進は軽く目を見張った。
「…あれほど忠告したのに」
能面のごとく、表情を殺して右近が呟いた。
「なんの…話しだ?」
「貴公の動向…内藤にすべて握られているぞ。『花心亭』のこともな」

 (右近……!)

 白刃をのど元に突き付けられた思いで、誠之進は息を詰めた。

 ふたりの間に沈黙が流れる。

 かたくななまでの右近の沈黙は、誠之進を静かに断罪するかのようだ。言葉を失う誠之進を横目で見ながら、右近は淡々とした声音で続けた。
「…先月の中頃、内藤帯刀に茶屋へ呼び出されてな。話を聞かされたときには…まさかと思ったが…」
「右近…」
喉が干上がってまともに声が出ない。

(よ、よもや…三郎ぎみとのことを?)

 素手で心の臓を鷲掴みにされ、地面にねじ伏せられたがごとく、誠之進は身じろぎひとつできなかった。まだ己の口から話す勇気はなかった。されど、三郎と契ったことを一生隠し通すつもりもなかった。いつかは右近にも知れることと覚悟していたつもりだ。

 なのに、この後ろめたさは何だ?
右近とは遂に恋仲にはならなかったのだ。不義を働いたわけではない。それなのに一一。

 誠之進は突如として己の内にわき起こった感情に戸惑っていた

「貴公が男と契るなど…あり得ぬことと思っていた。十年以上も付き合ってきたのに…親友同士といえども、まことの心の内はわからぬものだな…」

 誠之進は声も出ないまま、右近の漆黒の瞳を凝視した。玻璃玉のような空ろな瞳から、その本音はなかなか読み取れない。

「それとも…」
一瞬、右近の形のよい唇が、歪んだ。
「…三郎ぎみはそんなによかったか?」
「貴公、な、何をいう…?!」
「女人にしか興味がなかった貴公を骨抜きにするくらいだ…。さぞかし…」
「若に向かって無礼なことを言うな!」
誠之進は思わず声を荒げ、掌で畳をたたいた。しかし右近は動じた様子もなく、伏目がちに端座したまま続けた。
「…驚きを率直に言葉にしたまでだ。別に三郎ぎみを貶めるつもりはない」
誠之進は一言もなかった。
 
 右近に三郎との仲を知られてしまった…。それも、おそらくは内藤帯刀の口を通して最悪の形で。どう取り繕ってみても始まらない。右近の湖面のような静けさは軽蔑に他ならないのだと、誠之進はようやく理解した。

「…誠之進、斯様な切り札を握られて、内藤とどう闘う…?」
「それは…」
「勝算はあるのか?」
今、そのようなことを問われても、何とも答えようがなかった。
「…御家老とよく相談することだな。私はもはや…」
「もはや…?」
「我が子同然に育てた若君と、契ってしまう男など…」
右近の声はかすれていた。
「付き合いきれぬ、というわけか」
誠之進が溜め息とともに引き取った。

 右近の青白い瞼が震えていた。けぶるような睫の間から、もうこれ以上は止まれないという風に、涙が一筋こぼれ落ちた。

「これが、十年来信頼してきた男かと思うと…情けのうて…涙も出ぬわ」

 肉の落ちた頬を濡らしながら、右近が絞り出すように言った。

 右近は黙して語らず。誠之進も沈鬱な表情で目を伏せた。


「身体をいとえよ…」
誠之進はそれだけ言い残すと右近の枕元を離れ、障子を開けて廊下に出た。後ろ手に戸を閉めると、瞑目して深く息をついた。

 庭先から漂うゆかしい菊の香が、誠之進の鼻孔をくすぐった。

(ああ、明日は重陽の節句であったな…)

 藩校時代から十年余り、数えきれぬほど訪なった屋敷である。いつかの年、右近の母・結衣がふるまってくれた菊酒の味を、誠之進は懐かしく思い出した。

(なにも…これが永の別れになるわけではない。今は…私の愚かさが許せぬと言うかもしれぬが…、我等の友誼はこんなことで終わりはしないだろう…右近?!)

「また参るゆえ…」

 誠之進は後ろ髪を引かれつつも、静かに右近の居室を後にした。


つづく





壁紙は『十五夜』さんからお借りしています。


 

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