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誠之進が辞した後、右近は放心したように夜具の上に座りこんでいた。
いつ来たのか、孫作がじっと右近の枕元に座り、時折洟をすすっている。
「孫作か…何を泣いている」
ようやく老僕の存在に気付いた右近が声をかけた。
「し、白菊丸様…っ」
孫作は膝の上で拳を握りしめ、嗚咽をかみ殺している。
「誠之進との話、聞いていたのか?」
「申し訳ござりませぬ」
「よいのだ、気にするな…」
「爺は…、爺は…っ」
「聞いていたのなら、わかったろう…? そういうことなのだ」
右近はふっと力なく微笑んだ。
「白菊丸様の真心を踏みにじり、他のお方と契るとは…。誠之進様は大うつけじゃ。見損ないましてござりまする」
ふたたび孫作が洟をすすった。
右近はうつむいたまま、ちいさく首を振った。
「別に踏みにじったわけではない。誠之進は…」
一旦言葉を切ると、右近は胸の奥から息をついた。
「もうよい…孫作」
右近は忠義な老僕を見つめ、さびしく笑った。
「疲れたゆえ…横になる。しばらくひとりにしてくれ」
孫作は懸命に慰めの言葉を探しているようだったが、右近の諦めきった表情に、結局は口をつぐんでうなだれた。
「……心得まして、ござります」
やっとそれだけ呟くと、右近の枕元で低く頭を垂れ、摺り足で部屋を後にした。
*
夜露がしっとりと庭先を濡らしていた。五つを過ぎた頃には、すでに大分冷え込んでいたので、右近は女中を呼んで雨戸を閉めさせた。泣き弱った蟋蟀(こおろぎ)の声が、雨戸の向うからかすかに聞こえる以外、あたりはひっそりと静まり返っていた。
右近は申し訳程度におもゆを食べた後、早々に床に戻り、うつらうつら天井を見上げていた。
なぜ…誠之進の前に出ると、心と裏腹な強がりばかり口にするのだろう。そんなことだから…三郎に、鳶に油揚をさらわれてしまうのだ。
恋を打ち明けて誠之進に拒まれるのが恐くて、十年もぐずぐずした挙句…あのような子供にしてやられるとは…。まったく笑止千万。
わかっているのだ。今、打ち明けたところで…勝ち目はない。
想いを打ち明けて誠之進を困らせたくない、というのとは少し違う。結局、自分は負け戦をしたくないのだ。己を捨ててぶつかることができぬ、小心者にすぎぬ。
闇の中、右近の独白に割って入る声があった。
『別にそなたひとりが悪いのではない。うまく行かぬのは、誠之進にそなたの心を読む度量がないからよ』
惣一郎…様?
『申したであろう? 誠之進は決してそなたを理解せぬ。そなたが誠之進に惹かれる気持ちはわかる。だが、どんなに想うても、そなたと誠之進は噛み合わぬのだ…』
な、何故にござりますか?
『さてな…。だが、誠之進への執着を断ち切れぬ限り…そなた、幸せにはなれぬぞ』
幸せ…?
『心の臓が弱るほど、食事も喉を通らぬほど苦しいのであろう?』
それは…。
『そうまでして、何故想い続けるのだ?』
わ、わかりませぬ。
『右近…江戸へ戻ってまいれ』
惣一郎様…。
『そなたの居場所は…身供の側にある』
私は…若殿のお心を踏みにじって国許へ帰りました。どの面さげてふたたびお目にかかることができましょう…?
『父上の命ゆえ、帰国は致し方ないことであった…』
なれど…、私は!
『そなたの吟味役としての仕事は終わったのであろう?』
そ、それは…。
『江戸は今、なかなか面白いことになっておるぞ。相良侯もとうとう側用人の地位につかれ、辣腕をふるっておられる。老中昇格も間近ともっぱらの噂だ』
なんと…田沼様を餌に、私を呼び戻そうというわけにござりますか?
『…そう簡単にはあきらめんと申したはずじゃ』
しつこいお方にござりますな。
『ほれ、その調子じゃ。やっとそなたらしゅうなってきたな』
私をからかって楽しゅうござりますか?
『ああ、楽しくてたまらぬ! そなたにちょっかいを出すのは身供の生き甲斐だからな』
…あなた様こそ、三十に手が届こうというのに。駄々っ子のようなところ、ちっともお変わりになりませぬ。
『つべこべ申さず、早う戻ってこい。待っているぞ…右近』
惣一郎様…。
『待っているぞ…』
*
夢の中で懐かしい声を聞いた。
からかうような声音の中に潜む、包み込むような優しさに、右近は眠りながらうっとりと笑みを浮かべていた。微笑みながら、涙で頬を濡らした。
まことに、江戸へ帰ってしまおうか…。
万一、もはや藩邸に居場所がなくなっていても…、江戸へいけば剣友の佐久間もいる。学問所で知り合った知己も多い。
最悪の場合、市井に下っても、剣客なり学者として、糊口をしのぐ手はあるだろう。
このまま城下に、誠之進の側に留まっていては、
自分はいつか三郎を…。
距離と時間をおけば、この憎しみは消えるのだろうか。
誠之進を奪い、我らの友誼すら引き裂いた…三郎信尭。無邪気に笑う顔が、誠之進を慕う姿が…私をどうしようもなく追い詰める。江戸へ逃れれば、この病んだ魂も救われるのだろうか?
されど…母上をいかがする。
最近はお身体の調子もよくなられたとはいえ、孫作に押し付けてひとり江戸へ出るなど…。あまりに身勝手ではないか。
だが藩金流用の件は一両日中にも殿の耳に入る。家中にこの一件が明かされ内藤が処分を受ければ、すぐにも私が惣一郎様の伽をしていたことが巷の噂となるだろう。
焦ってみても始まらぬな…。私を生かすも殺すも内藤次第ということか。…まあ、いい。何が起ころうと、もはやこれ以上落ち込むこともあるまい。
今は吟味役として最後の仕事を淡々とこなすまでだ。
明日は重陽の節句か…。そういえば、中屋敷の菊は見事であったな。惣一郎様が上屋敷に戻ったのち、誰ぞちゃんと手入れをしておるのだろうか。打ち捨てられているとすれば、はてさて惜しいことよ…。
飛鳥山の紅葉、中屋敷の月見の宴。
惣一郎や仙之丞との秋の思い出が、尽きることなく右近の脳裡に浮かんだ。
胸を熱くする懐かしさに慰撫されながら、右近は久方ぶりの安らかな眠りに落ちていった。
寒露 了
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