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午後、誠之進が櫻田邸から城に戻ると、本丸表に面した稽古所から気合いの入ったかけ声が洩れ聞こえていた。
三郎の馬廻り頭を勤める吉田小兵太は、誠之進とは幼い頃から二十年来の付き合いだ。直心影流・酒井道場の師範代でもある小兵太を、剣の腕と男気のある性格を見込んで、誠之進が馬廻りに抜擢した。冷や飯食いの次男坊としては、棚ぼたのような出世である。
この太平の世、警護担当の馬廻りははっきりいって暇だ。事あらば藩主やその家族を身体を張って守らねばならないが、平時においては詰所に顔を出して、ひがな一日、鼻毛を抜いたり噂話に興じながら時間を潰すだけなのだ。
小兵太がそんな生活に飽き足りるわけもなく、主の三郎の許しを得て、藩校や城下の酒井道場で忙しく後進の指導にあたっていた。
近頃では本丸の稽古所でも時々若い藩士たちにも稽古をつけている。誠之進たちの藩校時代は武芸もさかんで、多くの遣い手もでたが、近年、いささか柔弱に傾きつつあるとのことで、上席家老・溝口主膳をはじめ、重臣たちもふたたび武芸の鍛錬を奨励している。
心に迷いがあるときは、道場で無心に汗を流すに限るやもしれぬ。
誠之進は西の丸に向っていたのを引き返し、稽古所へと足を向けた。
*
文字どおり、一汗もふた汗もかいた後、誠之進と小兵太は西の丸へ戻り、裏手の井戸端で汗を流していた。小兵太はともかく、誠之進が下帯一枚になって井戸端で水を被っている姿など、最近では滅多にみられない。
おしゃべりな下女たちが、台所の裏口からちらちらと顔をのぞかせてはしゃいでいた。
「誠之進、おぬし、最近ろくに竹刀も振ってないくせに、俺様から一本とるとはこしゃくな奴め!」
誠之進はからりと笑い、
「もはや昔のようなわけにはいかぬな。(藩校時代は誠之進のほうが強かったのですう:作者)おぬし、修行を怠らんだけあって、見事なものよ。さすが師範代じゃ」
「おうっ! 今頃わかったか」
小兵太は胸をそびやかして応じると、最後にもう一度、景気良く頭から水をぶちまけた。
はかったような間合いで、裏口から源蔵が手拭いと着替えをもって現れた。
「おなかもお空きでしょう? 母のおはぎがありますよ、中でお茶でもいかがです?」
「おっと、気がきくじゃねえか。だが、どっちかというと、源蔵、おめえの塩辛で一杯やりたい気分だなあ…」
「ちょっと…まだ陽が高いんですよ」
「なんでえ…どうせ明日は節句で休みじゃねえか」
「誠之進さまあ…」
この飲んだくれをどうにかしてくれ、とばかりに、源蔵が誠之進を見上げた。
誠之進は苦笑すると、
「せっかくのお福の心づくしだ、私の部屋で食すゆえ、ふたり分運んできてくれ」
「はい、かしこまりました」
誠之進は手拭いで身体をふきふき、
「そういえば、志保はもう帰ったのか?」
源蔵に問いかけた。
「はい…とっくに」
源蔵は誠之進に向かっては普通にうなずいたが、ちらりと小兵太を横目で意味ありげに見た。
「…小兵太さん、志保様からお預かりしたもの、お長屋のほうに置いておきましたよ♪」
「…ん?」
何の話だ、と誠之進が怪訝そうに小兵太を見る。
小兵太はばつが悪そうに顔を歪めながら、荒っぽく身体を拭き終わると、長着をばさりと羽織って帯を結ぶ。
「おい…?」
ぶっきらぼうな、照れているような仕草に、いよいよ誠之進は好奇心をかき立てられた。
「おい、小兵太…?」
「…着物、着物だ!」
「は?」
「布が余ったから何かこさえてくれたんだろ? いつものこった…。だいたいが三郎かおぬしの着物の端切れで作った、半纏とか稽古着とか…」
焦りまくる小兵太の陰で、源蔵の満月のような顔が笑いをかみ殺した。
「源蔵!余計なことくっちゃべってねえで、さっさと食い物もってきな!」
源蔵の前髪のあたりを拳でぽかりとやると、小兵太は先に立って離れの方へいってしまった。
「いい年をして照れなくたって…ねえ?」
源蔵は痛そうに額をなでながらも、おかしくて堪らぬ様子だ。
「源蔵…、その、志保は小兵太に着物など縫って届けておるのか?」
「はい…そのようで」
「いつからだ?」
「えー? 小兵太さんがここへ来たときにはもう…」
「源蔵!…そのまさか、ふたりは?」
「それは何とも…」
源蔵はうーんとうなって首をかしげた。
「…こう言っては何ですが、初めは志保様のひとり相撲だったようですよ。小兵太さん、いらないってつっぱねてたんですが、最近まんざらでもない様子で…」
「ふむ…」
今度は誠之進がうなった。
では二年前、妹の志保が右近との縁組みを断った時、
『私には心に決めたお方がござります』
と言ったのは…、小兵太のことだったのか?
「なるほどな…」
驚いたものの、妙に納得できる部分があった。
小兵太は右近のような美形ではないが、それなりの男前だし、気は優しくて力持ちだ。惚れるに足る男だ。
ただ…、縁組云々となると…。
(なかなか父上がうんと言うまいな…)
他人の恋を心配している余裕はなかったが、小兵太に惚れた志保は、なかなか男を見る目があると思う。兄としては暖かく見守ってやりたい気持ちだった。
*
甘いものもいける両刀の小兵太は、お福のおはぎをしこたま食べた後、しばらく誠之進の居室でくつろいでいた。
「…それはそうと、三郎は? 今朝から姿を見かけねえけど」
「ああ。朝から本丸で父君と過ごされておる」
「ふん、なるほどな。いや、別行動も珍しいと思って」
「…私とて御用繁多なのだ。始終三郎ぎみに貼り付いているわけではないぞ」
誠之進は小さく咳払いをすると、小兵太がにやりと笑ってみせた。
「ところで誠之進…」
ふと思い出したように、小兵太が真顔に戻った。
「この前の日曜…、おまえの留守中に右近がきたんだが…」
「何だと?!」
思わず気色ばんだ誠之進。小兵太が驚いたように見つめた。
「いや…あん時から、ちょっと具合が悪そうだったんだ。さっき稽古所で勘定方の奴らから聞いてな。今週はずっと休みだったそうだ」
(日曜に…訪ねてきただと?)
誠之進は先刻の右近とのやりとりを思い出し、眉根を寄せた。
「…さきほど、見舞いにいってきたところだ」
「なに?」
「私も今朝、志保から聞いてな。すぐに屋敷を訪ねたのだが…」
誠之進が言いよどむと、
「…あんま良くなさそうなのか?」
小兵太がひきとった。
誠之進は黙ってうなずくしかなかった。
「…相当疲れてたんだろうな…。あいつ、武芸で鍛えてはいるが、あんな細身だし、母親を見てもやっぱ蒲柳の質の家系だろ…」
「父上や私のために無理をさせてしもうた…合わす顔がない」
「…まあ、そう自分を責めるなって」
「…じゃあ、あの後すぐ寝込んじまったんだな」
「あの後?」
「ああ、日曜の昼前、お前に話があるといって城へ来たんだぜ。三郎と『遠乗り』に出かけたから晩まで帰らねえって言ったら…あ、しまった…」
誠之進は色を失った。
(それを右近に告げたのか?!)
「…訪ねてきたこと、おぬしに伝えてくれと言われておったのだ。すっかり忘れてた…」
「小兵太!」
誠之進は血相を変えて叫んだ。
「す、すまん…。俺がさっさと話してれば、もっと早く見舞いにいってやれたのに」
誠之進の形相に恐れをなしたか、小兵太は両手を合わせて拝み倒していた。
内藤帯刀から聞いて、花心亭のことを知っていた右近。小兵太から「遠乗り」に出たと聞かされ…。
もしや後を追ってきたのか?
まさか…茶室での逢瀬を見られたのか?
内藤から話を聞いただけなら、右近は信じなかったかもしれない。
だがもし現実に己の目で見たのだとすれば…。
何もかもが符丁のように一致した。
右近は…花心亭にやってきた。そして、己の目で見たのだ…。
『これが、十年来信頼してきた男かと思うと…情けのうて…涙も出ぬわ』
数時間前、右近に投げ付けられた言葉が、誠之進の頭の中で割れ鐘のように響いた。
衝撃だったに違いない。
男同士で契ることを、昔からあれほど厭うていた右近だ。
自分と三郎ぎみの睦みあう姿を、さぞかし穢らわしいと思っただろう。
(もはや完璧に…見限られてしもうたか…)
鉛を呑み込んだように、誠之進は押し黙った。
「誠之進…おぬし、右近と何かあったのか?」
小兵太がおずおずと問いかけた。
誠之進はそれには答えず、
「…小兵太、おぬしも一度右近を見舞ってやってくれ」
「ああ、言われなくてもそうするつもりだ。明日にでもいってくらあ…」
「そうしてやってくれ…」
誠之進は目を閉じてうなずいた。
もはや小兵太の存在は忘れたかのように、深く己の想いに埋没した。
小兵太はしばらく黙って付き合っていたが、やがて重い腰をあげた。
「…じゃ、俺はこれで…」
立ちあがりかけたところへ、渡り廊下のほうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
木戸を開けて源蔵が次の間に飛び込んできた。
「誠之進様!」
「何だ?」
中腰になった小兵太の肩ごしに、誠之進は源蔵をみやった。
「溝口家から遣いの方が。御家老がお呼びだそうで、至急、お屋敷へお戻りくださいとのことです…何やら火急の用件とか」
「父上が…?」
誠之進ははたと膝をうった。
田村の女の件だ。女と対面すべく、今朝早く黒井宿へ向かった父が戻ったのだろう。
「あいわかった。今からすぐ行くと伝えよ」
「かしこまりました」
源蔵は素早く一礼すると、ふたたび母屋のほうへ戻っていった。
「小兵太、すまぬが…」
「うむ…」
「あとで三郎ぎみが戻られたら、溝口の屋敷へいったと伝えてくれぬか? 今宵は少々遅うなるやもしれぬ」
「わかった…」
おそらくは役目がらみの大事な話なのだろう。空気を読んだ小兵太も唇をひき結んでうなずいた。
誠之進は衣桁から羽織を取って身に付け、大小を帯びると、緊迫した表情で居室を後にした。
つづく
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