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溝口邸。
奥の書院で誠之進は父・主膳と向き合っていた。
行灯の灯心を起こして手もとを明るくし、誠之進は田村の遺した帳面を、息を詰めて読み進んでいた。やがてひととおり目を通すと、帳面を膝上に戻して重い吐息をついた。
「よくここまで綿密に記したものですな…」
「うむ…。博打などに手を出すとは、だらけた男だとばかり思っていたが、元来田村は几帳面な奴だったのかもしれぬ。田村もやはり勘定方の人間だったのだな…」
「三十すぎてかかる病は重いと申しますが…、田村も博打にさえ手を出さねば…」
「…哀れなものだな」
「はい…」
それまでの堅い人生が、ふとした気の迷いで道を踏み外す。世の中、どこに落とし穴が転がっているか、わからぬものだ。
右近から聞き及んでいた通り、主膳は今朝夜明けとともに黒井宿へ向かい、覚心寺という寺で田村とねんごろになっていた飯盛り女と対面した。田村に万一のことあらば、上席家老・溝口主膳に手渡すようにと託されていた包みには、宝暦九年から明和二年の春まで、藩庫の金がいつ、どんな名目で流用されたか克明に記されていた。
田村の記録と右近が押さえている勘定方の記録の内容が一致すれば、不正を告発する十分な証拠となる。田村は帳簿の改ざんを誰の命で行ったかも、血判を押した書状に記していた。
田村はこれをもとに内藤帯刀を脅し、まとまった金をゆすり取り、女と逐電するつもりだったらしい。
「して、父上、この煙草入れは?」
誠之進は帳面を畳の上に戻すと、田村の遺した革の煙草入れを手にとった。ふたをあけ、中の匂いを嗅ぐ。
「まだわからぬが…薬の類いのようであろう?」
「はい…どう見ても煙草ではありませぬな」
「城のお医師に見せてもよいが…内藤の息がかかっていては一大事。どこぞに信用できる医師はおらぬか?」
誠之進は思案顔でうなった。
「…医師でもよろしいですが、生薬屋ではいかがでしょう?」
「なに、心当たりでもあるのか?」
「ええ、城下の『笹屋』という生薬屋です」
「おお、儂も名前は聞いたことがある」
「右近の母上の人参を求めているのですが、あそこの主人は知識も豊富なうえ信用できる人柄かと思います」
「よかろう。そなたから鑑定を頼んでくれ」
「かしこまりました」
「抜け荷に…関わりのある品やもしれぬ」
「私も…そのような気がいたします」
主膳と誠之進は顔を見あわせてうなずいた。
「父上、田村の遺した証拠をどうお使いになるのです?」
主膳は腕組みをしたまま、きっぱりと言った。
「もはや目付を通す必要もなかろう。殿に直接お話申し上げる。もともと、右近を勘定吟味役として呼び戻したい、と殿にお願いした時点で、横領の可能性については示唆しておいた。内藤の名前は出しておらぬが、その後も使途不明金の額など、おおまかなことは御報告してある」
「ご裁可は殿に一任されるのですか?」
「…私はともかく、小栗や他の中老たちは、同僚を糾弾するのは腰がひけるのではないか?」
「…たしかに。殿にお任せするのがよろしいでしょう…」
「うむ…」
「誠之進…、右近はまことによく働いてくれた」
「はい…」
誠之進は首肯しながらも、複雑な思いを噛み締めていた。
「昨日、田村の件を報告に参ってな」
「…存じております。本日、見舞いにいってまいりました」
「左様か…」
主膳は重い吐息をついた。
「昨日は病身をおして、直に報告に参ったのだ…責任感の強い男ゆえ…」
誠之進は憔悴した右近の姿を思い出し、胸をつまらせた。
「そなたに何度も言われていたのに…申し訳ないことをした。しばらくゆっくり休ませてやろうと思う」
「ぜひ、そうしてくださりませ」
「今回の目覚ましい働きぶり、殿にもよくご報告して、櫻田家に加増を願いでようと思うておる」
「加増…でござりますか?」
御借上を実施しているこの時期に、加増というのは他の藩士の妬みを買いはしないか。誠之進は一瞬不安に思った。
主膳は息子の心を読んだかのように、
「案ずるな。御借上がなくなってからの話だ。」
厳しい目元をふわりと和ませてうなずいた。
「…今はまず養生させることだ。其許からご母堂と右近、二人分の人参を届けてやれ。文吉(溝口家の下男)からも、何か精のつくものを届けさせよう」
「…父上、かたじけのうござります」
誠之進は素直に頭を下げた。
「誠之進、これで一気に内藤をたたき潰すぞ。この一件が落着したら、儂は早い時期に引退しようと思う」
「父上?!」
「其許(そこもと)も来年で二十七。早々に室を迎え、儂の跡を襲う心構えをしておけ」
「な、なれど、三郎ぎみ元服までは守役の仕事が…」
「…三郎ぎみはご立派に成長なされた。もはや守役の役目は終わったと心得よ」
「父上っ…」
「よいな。しかと申しつけたぞ」
誠之進は否とも諾とも答えられぬまま、ただ無言で首を垂れた。
*
溝口邸を出たのは四つ(午後十時)を過ぎていた。誠之進は提灯を片手に西の丸に近い城門を目指していた。
武士といえども夜道の一人歩きは物騒だ。溝口家では郎党をふたりほどつけようとしたが、十分もかからぬ距離だからと断り、誠之進はひとり堀割り沿いの道を歩いていた。
夜風に柳の枝がたなびいている。かすかな葉ずれの音に混じって、誠之進は背後になにやらただならぬ気配を感じた。
(もしや、つけられているのか…?)
懐には主膳から預かった煙草入れが入っている。内藤の手の者が屋敷周辺をうかがっているのは、十分あり得る話だった。
西の門はもう目と鼻の先だ。城門に入る前に仕掛けてくるか…? 誠之進は深く息を吸うと、同じ歩幅で歩みながら、左手の親指をゆっくりと大刀の柄にかけた。
そのまま神経を背中に集中しつつ、城門へ向かって歩く。いよいよ堀にかかる橋の手前まで来たとき、背後の空気が動いた。稲妻のごとく、影が誠之進に肉迫した。
「何奴?!」
誠之進は提灯を放り投げ、振り向き様に抜き打ちで相手の胴を薙ぎ払った。影は誠之進の剣をひらりとかわし、怪鳥のように武家屋敷の塀に飛び上がった。
地面に投げ出された提灯がめらめらと燃えている。炎が尽きるとあたりは深い闇に包まれた。誠之進は気配のする方向に目を凝らした。
「…先程から某の後をつけておったな。何者だ?」
誰何の声には答えず、影は塀の上から誠之進を見下ろすようにして言った。
「…存外速い太刀筋だな。若君との火遊びに忙しゅうて、腕がなまっておるだろうと思いきや…さすが『宗道館の竜虎』と呼ばれただけはある…腐っても鯛というわけか」
(内藤の配下の者か…だがこの身のこなし、武士ではないな。忍びか…?)
「戯れ言を聞いている暇はない。用件を言え…」
今日、右近から話を聞いていなければ、もっとうろたえたかもしれない。すでに三郎とのことを内藤に知られていると、わかっていたおかげで誠之進は冷静になれた。
「いや、べつに用件などない。殿様から養育を任された若君を、閨で組み強いている男の顔が見たかっただけよ」
影は塀の上から冷笑を浴びせた。
「この暗さでは顔など見えぬだろう。残念だったな」
斯様な揺さぶりに動じたりはせぬ、と誠之進は心の中で吐き捨てた。
「ほう…青二才と聞いていたが…なかなかに図太い」
生暖かい笑いが闇に木霊した。
不快極まりない男だったが、これ以上しかけてきそうな殺気は感じられない。状況を見切った誠之進は、もはや時間の無駄と大刀を鞘に納め、城門にかかる橋へ足を向けた。去り際、誠之進は肩ごしに言い捨てた。
「…飼い主殿によしなに伝えよ」
「ふふっ…。近いうちに、またお会いしましょうぞ…」
漆黒の闇に高笑いが響いた。
影はふたたび身を踊らせて、屋敷の築地塀の向うへと消えていった。
「いよいよ…戦か…」
誠之進は苦々しく呟くと、足早に橋を渡っていった。
つづく
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