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長い一日であった。
急転直下。田村の遺品が手に入ったことで事態は大きく動きだした。
今朝がた見舞った右近のこと、忘れたわけではない。
『これが、十年来信頼してきた男かと思うと…情けのうて…涙も出ぬわ』
右近の低く押し殺した声音が耳について離れない。無二の親友であり、仮にもかつて愛した相手なのだ。あのような形で傷つけるのは本意ではなかった。
ひと粒だけこぼれ落ちた、あの透き通るような涙の意味は…。
(駄目だ…今宵はもう何もかんがえまい…)
一度に多くのことが押し寄せてきて、さすがの誠之進も混乱していた。内藤のこと、溝口家の家督のこと、何から手をつけてよいかわからない。
自室で畳の上に寝転がり、誠之進は鈍い溜息をついた。
「誠之進様…」
次の間から控えめな声がかかった。
「お福か?」
「はい、大分冷えて参りましたので、手焙りをお持ちしました」
「それはありがたい…」
誠之進は起き上がって、胡座をかいた。
三郎の乳母・お福が静かに襖を開けて入室し、陶製の小さな手焙りを誠之進のもとへと運んだ。
「三郎ぎみは?」
「夕餉のあと、本丸からお戻りです。もうお休みになっているのでは?」
「…顔を出してもいいだろうか」
「まあ、何を遠慮なさるのかと思えば」
お福が思わず含み笑いをもらした。
何もかものみ込んでくれているお福だが、それだけに気恥ずかしい部分もある。
「…ではちょっと行ってくる」
誠之進は一応断ると、お福に三つ指ついて見送られながら、離れの居室から母屋の三郎の寝所へと向かった。
今宵の宿直は小兵太ではない。守役とはいえ、誠之進もきちんと手順を踏まねば寝所に立ち入ることはできない。
「三郎ぎみはもうお休みか?」
次の間に控える当番の小姓に問いかけた。
「はい…四半刻ほど前にお床につかれました」
小姓の答えが終わらぬうちに、
「誠之進か?」
襖の向うから声がかかった。
「通せ」
鶴の一声で、小姓は一礼して襖を開けた。誠之進が入室する。背後で静に襖が閉まった。
三郎が夜具の上に身を起こした。誠之進は三郎の枕頭に歩み寄り端座した。
「本日はずっと留守にして申し訳ありませんでした」
三郎がうつむき加減でちいさく首をふった。
誠之進は主を愛し気に見つめて尋ねた。
「今日は一日、何をして過ごされました? 殿は御機嫌うるわしゅうござりましたか?」
「う…ん」
なぜか三郎は曖昧にうなずくと、
「そなた…主膳に呼ばれて屋敷へ帰っていたのだろう?」
黒目がちの瞳が誠之進を見上げた。
どことなく、陰りが見られるのは気のせいだろうか。
「大事な…用件だったのか?」
「はい…藩の機密に関わることゆえ、若にもまだ仔細は申し上げられませぬが…」
「藩の機密などどうでもよい」
「三郎ぎみ…?」
誠之進は首をかしげた。
苛立ちとも、不安ともつかない、何やらささくれだった空気が三郎を包んでいた。
「今日…父上からお話があった」
「殿が…? それはいかなる?」
三郎はふっと視線を膝の上に落とし、奥歯をかみしめた。
「三郎ぎみ…」
誠之進は三郎の膝上に置かれた手をそっと握りしめた。
「誠之進…っ」
三郎は誠之進の手にさらに己の手を重ね、すがりつくように握った。
「…父上からお尋ねがあったのだ。…元服後も養子にいかず藩内に留まりたいというのは…まことかと」
誠之進は思わず嘆息した。信輝公はいずれ三郎と膝を付き合わせて話すとはおっしゃっていた。されど、なぜ今日なのだ。何故、何もかも諮ったように難題が一度に押し寄せるのだ?
眉根を寄せて黙りこんでしまった誠之進を、三郎が心細げに見上げた。
「私は…父上に包み隠さずお話した。養子にいって大名になぞなりたくない。部屋住みでもよいから、誠之進やお福と源蔵、倫太郎と、これからも一緒に暮らしたい、と申し上げた」
「で。殿は何と?」
「…よく考えてみるとはおっしゃってくださったが…」
三郎は一旦言葉を切った。
「何やら、ひどくお困りの様子にも見えた」
「…左様にござりましたか」
当然だろう。可愛い三郎の願いはかなえてやりたい。誠之進が面謁して同じことを願い出た時より、三郎本人の口から聞かされるほうが、余程インパクトがある。だが三郎を一日も早く養子に出そうという、江戸藩邸の反対をどうやって押し切るか。
留守居役の岩田をはじめ、今の江戸屋敷の重臣は、ほとんどお牧の方様の実家、田安家の息のかかったものたちだ。信輝公は彼等を相手に孤軍奮闘せねばならない。
(せめて堀田様がいらしたら…)
誠之進は江戸詰めの頃世話になった、前留守居役の堀田を思い出していた。突然三郎の守役を命じられ戸惑っていた自分に、「誠心誠意勤めればよい」と励ましてくれたのは、他でもない堀田であった。
「のう…誠之進?」
黙り込んでしまった誠之進に再び三郎が問いかけた。
「江戸の…御正室様とは、どのようなお方なのか?」
三郎が瞳を揺らして誠之進を見上げた。
「私が、きちんとご挨拶をして、兄上のお邪魔にならぬよう暮らすからと申し上げれば…許してくださるだろうか?」
(三郎ぎみ…!)
誠之進は答えられなかった。
お牧の方は三郎の母・おひろを憎み、あまつさえ毒まで盛ろうとした。おひろ親子への恨みの根は、正室としてたてられながらも、信輝公に顧みられなかったことにあるのだろう。男の誠之進には計り知れない感情である。
御正室様はあなたが目障りで仕方ない、万が一にもあなたに家督がいかぬよう根回しに忙しいのだ…。
などと、口が裂けても言えなかった。
「誠之進…私が領内に残りたいというのは、それほどわがままなことなのだろうか?」
「それは…」
「やはり私が養子にいかねば、皆が迷惑するのか?」
「さ、左様なことは断じて!」
誠之進は三郎の両肩に手を置き、頭を振って否定した。
大丈夫、万事私にお任せください、と言えぬ、今宵の自分が歯がゆかった。
三郎はそんな誠之進の気持ちをも読んだらしい。
もはや語ろうとはせず、寄り掛かるように片頬を誠之進の胸に押しあてた。誠之進も両手を三郎の背にまわして柔らかく抱きしめる。くるみこむように腕にそっと力を込め、三郎の前髪に優しく口づけた。
襖の向うには小姓が控えている。これ以上のことはできなかったが、三郎・誠之進主従は、それぞれの心に重荷を抱えながら、静かに温もりを分け合っていた。
つづく
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