|
重陽の節句の翌日、上席家老・溝口主膳は定刻に登城後、午前の執務を済ませると、中奥の側衆詰所へ向かった。側用人の青木忠座右衛門を通して、藩主・信輝公に午後からの面謁を願い出るためだ。
田村の遺品を手にいれ、内藤帯刀の不正を糾弾する証は十分にそろった。もともと、藩金流用の調査は信輝公の命を受けてのこと。主膳の仕事はここまで。あとは信輝公の裁可をあおぐべき時だった。
側衆詰所の小部屋で、主膳は青木と向き合っていた。
「…本日午後から特にご予定はないが、主膳殿、何か火急の用件でござるか?」
「左様。取り急ぎ、殿にご相談したき儀がござる」
「ほかならぬ主膳殿のお申し出、某も殿にお伝えいたしますが、今日は何やら慌ただしい一日でござりますなあ…」
青木は白髪まじりのあごひげをさすりながら首をかしげた。
「慌ただしいとは…?」
主膳はふと嫌は予感にかられた。
「いや、今朝、内藤帯刀殿がお見えになりましてな。殿はちょうど朝餉を済まされたところでしたが、何やら火急の用件とか…。小書院にて人払いをしたまま、もうかれこれ半刻(一時間)近くも話し込んでおられます」
「殿が内藤殿を面謁中と申されるか…?」
「左様でござる」
思わず主膳の喉が鳴った。主膳の懐には田村の残した帳面が入っている。藩金流用の動かぬ証拠はこちらが握っているのだ。今、内藤が何を信輝公に訴えていようが、慌てることはない。
どうせ最後の悪あがきだ…、と主膳は己に言い聞かせた。
「では…終わるまでここで待たせてもらおう。殿が戻られたらお取次ぎを願いたい」
「心得ました。…お待ちの間、あちらで茶でも点てましょう…」
青木は側仕えの小姓を呼んで茶の仕度を命じると、隣室へ主膳をいざなった。
*
高山城本丸・小書院。
床の間と書院がつく十五畳の部屋で、藩主・結城因幡守信輝は次席家老・内藤帯刀と相対していた。帯刀のたっての希望で、小姓を次の間からも遠ざけ、完全に人払いした中でふたりは会見した。
高山藩主、結城因幡守信輝は温厚な人柄が家臣の敬愛を集めていたが、君主としての器量は中の上、暗愚な藩主ではなかったが親政を行うほどの政治力はなく、これまで有能な上席家老の溝口主膳を信頼し、万事を任せてきた。
六、七年前から藩金流用の疑惑があることは、とうの昔に主膳から報告をうけていた。その調査のために右近を吟味役に抜擢して呼び戻した。だが今日まで調査の進捗状況について、信輝はそれほど詳しく知らされていない。下級官吏の田村が何者かの命を受けて、帳簿を改ざんしたこと。およそ三万両の使途不明金が出ているとの報告は受けているが、それが誰の命によって行われたか、信輝は今朝の時点でまだ何も知らなかった。
主膳の立場としては、仮にも上席家老の自分に次ぐ、次席家老の帯刀を横領で告発する以上、憶測で物を言ってはならない。確たる証拠を集めてから報告すべきと考えていた。それゆえ、信輝は内藤帯刀と藩金流用疑惑の関係は知らぬまま、帯刀と面談することになってしまったのだ。
*
白小袖に麻裃を身につけた帯刀を上座から見下ろしながら、信輝は苦渋の表情を浮かべていた。
今朝、帯刀が側用人の青木を通して面謁を願いでたとき、大方、米を献上した島崎屋の褒美の件かと呑気に構えていた。ところが、会見が始まってまもなく、帯刀は島崎屋の今回の働きをたたえながら、信輝にとっては寝耳に水の話を切り出した。
「帯刀…今、何と申した?」
「…はっ。恐れながら…まもなく今町に到着する千石船は、我が藩の『御手船』(御用船)にござります」
「…どういうことじゃ。米を運んでくるのは『島崎屋』の船ではないのか? それを御手船と呼ぶはいかなるわけじゃ。身供にもわかるように説明せよ、帯刀」
「…はっ。では申し上げます。かの千石船は四年前…誠に恐れ多いことながら、藩庫の金を拝借し、某の命で建造させた我が藩の御手船。それを島崎屋に貸し与え、今日まで商いをさせて参りました」
信輝はこぼれんばかりに目を見開いた。
「藩庫の金を『拝借』しただと…?」
帯刀は低く頭を垂れながら、真摯な声音で続けた。
「殿のお許しも得ず、斯様な大金を無断で動かすなど言語道断、この帯刀、本日は腹を切る覚悟で殿の御前にまかりこしました」
信輝の前に平伏する帯刀は不気味なほど落ち着きはらっていた。切腹覚悟というのも偽りではなく、肚をくくった者の潔ささえ感じられた。
だが、信輝も内藤帯刀とは長い付き合いだ。この男が何の魂胆もなしに己の罪を告白し、大人しく裁きを受けるつもりとは到底思えなかった。
信輝はしばらくまばたきもせずに帯刀を見つめていたが、やがて胸の底から重い吐息をついた。
「…御用部屋で討議にもかけず、そなたの独断で藩庫の金を使ったというのか?」
「御意」
「…何と言うことをしてくれたのじゃ」
信輝は小さく首を左右に振った。
主膳から報告を受けていた三万両の使途不明金。その行方が今わかった。それも流用した本人の口から明かされたのだ。
巷の噂によれば、島崎屋の千石船はあと数日で今町湊へ帰着するとのこと。横領した金で造った船に米を満載し、帯刀が後ろ楯となってきた商人が華々しく凱旋するのである。飢饉から藩士・領民を救った島崎屋は一躍故郷の英雄だ。
その島崎屋に米の買い付けを指示したのは内藤帯刀。
まさに絶妙の間合いとしか言いようがなかった。
厳しく処罰せねばならない相手から、既に恩を売られている。人の好い信輝が困惑するのも無理はなかった。
帯刀は畳に額をすりつけんばかりに平伏した。
「殿のお怒りはごもっともかと…」
「何故そのような勝手な振る舞いをした? 次席家老といえども、閣議の承諾もなく藩庫の金を使うなど…横領といわれても致し方ないぞ」
「某も武士のはしくれ…」
「帯刀…」
「藩庫の金を独断で動かした責めは負いましょう。もとより切腹は覚悟の上。なれど…殿。某が千石船を造ったは、断じて私服を肥やすためではありませぬ!」
「ならば、何のためじゃ、申してみよ」
「誠に恐れ多いことながら…殿はここ十数年間の、江戸表での入費をご存じでしょうか?」
信輝は痛いところをつかれ、一瞬顔をしかめた。
「…細かいことは主膳に任せておるゆえわからぬが、そなたの言いたいのは牧(信輝公の正室)の借財の件であろう?」
「いえ、某が申し上げたき儀は、左様な些末なことではござりませぬ」
「殿…、この数十年間、諸藩の江戸入用の額は年々ふくれあがっております。これはなにも我が藩に限った話ではなく、いずこも内証はにたりよったり…。対面を保つため際限なく借財を続けるか、一転して爪に火をともすような倹約政策をとるか、いずれにせよ、昨今の諸藩の財政逼迫ぶりは目を覆うばかり…」
「左様なことは身供とて承知しておる。それゆえ、主膳に命じて運上金制度や海運業の振興など、歳入を増やす様々な策を検討しておるではないか。藩を豊かにしたいと願うはそなた一人ではないぞ」
帯刀は一旦言葉を切ると、肉厚の唇にかすかな笑みを浮かべた。
「さりながら、新たな制度が施行され実を結ぶには、それなりの年月がかかりましょう。米どころと言われる我が藩ですが、もはや新田開発もし尽くし、実石高がこれ以上あがることはござりませぬ。余程思いきった策を講じねば、膨れ上がる借財に歯止めをかけ、藩庫を充実させる手はありませぬ」
饒舌な奴め、と信輝は心の中で苦々しく呟いた。
「そちの言う思いきった策とは、藩金を流用して『御手船』を造り、島崎屋に商いをさせることか?」
「…仰せの通りにござります」
信輝の皮肉をもろともせず、帯刀が自信たっぷりに答えた。
「西国と蝦夷の中間点にあるわが藩の地の利を生かし、ぜひとも藩をあげて海運業に乗り出すべきかと」
信輝にも帯刀の主張がおぼろげながら見えてきた。だが、金のためなら横車を押すのも辞さない、あまりに強引なやり方に、不快感を覚えるのも事実だった。
そんな信輝の顔色を読んだのか、帯刀は再び頭を垂れて話を続けた。
「十年で藩庫を黒字にするには、年貢米に依存せず、交易で利益を上げている諸藩にならうべき、と某は考えました。それにはまず大型船とそれを動かす者、しかも抜群の商才を持った人間が必要にござりました」
「帯刀、ならば問うが…斯様な構想を持ちながら、何故閣議にかけず独断で藩金を使った? 主膳も海運業の振興には賛成なのだ。現に櫻田右近に命じて、永代渡海免許、運上金制度などの立案に動いておるのだぞ。なにゆえ閣議にかけ、論議をつくす労を惜しんだのだ?」
「殿、こう申しては何ですが、主膳殿は慎重すぎて行動が遅い。お若い頃、新田開発を進めて藩庫を充実させた功績は認めますが、近年の緊縮財政策はどう見ても守勢に回ったとしか思えませぬ。海運業の振興といいつつも、結局は老舗に援助を与えて商いを少しばかり広げさせようなど…何も目新しいところはござりませぬ」
誹謗とまではいかないが、主膳に対する歯に衣着せぬ物言いに信輝は眉をひそめた。
「恐れながら、殿。今回島崎屋がおらねば、わが藩は飢饉を免れませんでしたぞ。制度や枠組みを作ることも結構ですが、実際に動くのは人間です。人を得てこそ制度や仕組みもうまく働くというもの。主膳殿や櫻田右近のやり方は、仏作って魂入れずと申しましょうか…」
「帯刀、口が過ぎるぞ…」
「…ご不快にござりましたか。これは失礼いたしました」
信輝は脇息にもたれ深く息をついた。
帯刀の言い分はある意味正しかった。ことごとく正論と言ってもよいくらいだ。だが、なぜだろう、いかに大言壮語を吐こうが、この男の言葉には人の心を打つものがない。単に帯刀と自分の波長が合わぬだけの話だろうか…。それとも…。
思案顔で黙りこむ信輝を前に、帯刀は再び淡々と語り出した。
「殿…、七年前、縁あって島崎屋と出会うたとき、某はこの男にかけようと思いました。酒田の本間家を凌ぐような、ひとかどの海商に育ててやろうと。そのためには、某も一蓮托生、島崎屋と心中する覚悟で密かに後ろ楯となってきたのです」
「左様か…」
「あの頃、島崎屋は海商としてはまだ駆け出しで、二百石のぼろ船で大坂へ頸城米や青芋を売りに行こうとしておりました。恐れながら、あの時点で大金を投じて藩船を建造し、どこの馬の骨ともわからぬ商人に任せるといっても、家老、中老の誰ひとりとして賛同してはくれなんだでしょう」
「なぜ実績のある中村屋や角屋にやらせようと思わなかったのだ?」
「老舗は危険をおかしてまで商いをする気概がありませぬ。津軽海峡を怖がって、蝦夷行きにも腰が引けているような者たちですぞ…」
「なれど、帯刀、いかに取り繕ってみても、そちのやったことは藩金流用ぞ…。私服を肥やすためではないという、そちの言葉は信じよう。だが流用の罪は罪…。処分は免れまいぞ」
信輝は暴君ではない。むしろ、人を裁くことに耐え難い痛みを感じていた。だが、三万両もの藩庫の金を独断で流用した者に、なんの咎めもなしでは周囲の者に示しがつかぬ。
一方、処分云々と言われた途端、帯刀の声の調子が変わった。先程までのへりくだった様子は消え、不躾なまでに正面から信輝の目を見すえた。
「殿…、恐れながら、拝借した藩金三万両の使い道、ざっと申し上げまする。まずは千石船三隻、五百石船五隻の建造と、有能な船頭を各地から雇いいれた金、ざっと七千両。島崎屋の商いの元手として貸し与えた金、三千両…。しかしこの三千両は、此度の御用金と米献上で、利子をつけて返済したも同然でござりますな」
帯刀はぬけぬけとほざいた。
「して残りは…」
信輝は苛立ちを滲ませて尋ねた。
「毎年数千両ずつ江戸藩邸、お牧の方様あてにお送りいたしました。惣一郎様の御婚儀の前後は物入りの御様子でしたので…一万両ばかりご融通いたしました」
「何…そなた、独断で牧に藩庫の金を送ったと申すか?!」
帯刀は大きく首肯した。
江戸藩邸・奥に流れた金額がいくらになるか、ざっと頭の中で計算した信輝は色を失った。
単純に見積もっても二万両を超えている。
「ご正室様から江戸留守居役・岩田善次郎を通して、この帯刀にご相談がありました。主膳殿が奥向きの費用を減らして以来、諸大名家との付き合いもままならず、『藩からの費用だけではとてもやってゆけぬ。帯刀、助けてたもれと…』」
「牧が左様なことを…」
かすれ声で問い返す信輝を尻目に、帯刀はさらに朗々とした声で続けた。
「島崎屋の商いが軌道に乗りましてからは、島崎屋から江戸の両替商、天満屋を通して、お方様に金子をお送りしております。お方様におかれましては大層ご機嫌麗しく…」
信輝は苦りきった表情で、上座から帯刀を見つめていた。帯刀が伏目がちにしながらも、唇の端に不敵な笑みを浮かべたのを、信輝は見逃さなかった。
もはや言葉が続かない。
上屋敷奥の改築も、あの黒塗りの梯子も…、惣一郎の妻、綾姫にと京から取り寄せた、贅をつくした着物や装飾品の数々。どうせ実家の田安家に無心したのだろうとたかをくくっていたが、どこから金が出ているのか、もっと追求しておくべきだった。正室・お牧の方を日頃顧みなかったことで、信輝は思わぬ窮地に立たされていた。
正室の牧、そして嫡男惣一郎までもが、間接的にとはいえ藩金流用の恩恵を受けていたというのか…。これでは己の口から帯刀に切腹など申し付けられない。
信輝の胃の腑がしくしくと痛みはじめた。
「この件…一時、身供が預からせてもらう。帯刀、決して他言するでないぞ」
「御意…。某、いつでも腹を切る覚悟はできております。不正者には峻厳に相対せねば示しがつかぬのであれば、どうぞ御存分に。されど、島崎屋はどうか御容赦くださりますよう、伏してお願い申し上げます…。あの男はまだまだ藩の役にたちましょう。『御手船』と島崎屋、これからも末永く藩のために使うてくださりませ。それさえお聞き届けいただければ、この帯刀、もはや思い残すことはござりませぬ」
己の勝ちを確信しながらの、恩着せがましい物言い。どこまでも鉄面皮な奴よと、信輝は内心吐き捨てた。
信輝は面謁はこれまでと無言で席をたった。平伏して見送る帯刀の気配を背中に感じながら、信輝は足早に小書院を出て中奥へと戻っていった。
つづく
|