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青木が点てた茶を馳走になったあと、主膳は詰所の小部屋でひとり端座していた。
「主膳殿、殿がお戻りじゃ」
障子戸が開くと同時に、側用人の青木が鋭くささやいた。
主膳が顔をあげると、
「殿が居間のほうでお会いになるそうじゃ、早う参られよ」
「かたじけない」
主膳は青木の計らいに感謝し、一礼して静かに立ち上がった。
小姓に案内され信輝公の居室に入ると、公は脇息に肘を預けて眉間に深い皺を刻んでいた。
主膳は部屋の中程に着座した。どう切り出したものか一瞬迷っていたところ、信輝公が上座から声をかけた。
「主膳…ちこう寄れ」
「はっ」
主膳が膝行し、御前近くへ進み出ると、
「藩庫から消えた三万両…行方がわかったぞ」
信輝公が低い声音で呟いた。
「殿! 某も本日はその儀につきましてご報告が…」
「主膳…」
信輝公は主膳の目をじっと見つめたのち、万策つきたような溜め息を洩らした。
「…帯刀め、己から白状しおったわ。藩庫の金を無断で使い、千石船を造ったと…」
「内藤が殿に左様なことを…!」
主膳は思わず己の胸に手をあて、着物の上から田村の帳面を握りしめた。
帯刀め、自ら白状するとは何を考えておる?
島崎屋の千石船入港の時期を見計らってのことか…?
「主膳…帯刀が藩庫の使途不明金に絡んでいたこと、そなたはとっくに掴んでいたのだろう?なにゆえもっと早う知らせてくれなんだ…」
「申し訳ござりませぬ…なれど、我等としても次席家老を告発する以上、確たる証拠を集めねばと懸命の探索を…。それがようやく一昨日手に入りましてござります!」
主膳は押し頂くようにして、田村の帳面を信輝公の前に差し出した。
「これは…?」
「内藤の命により、勘定方の帳簿を改ざんしていた官吏、田村蓑助の記録にござります。宝暦九年から明和二年の春まで、いつ、誰の命で帳簿を改ざんしたかが克明に記されております」
信輝公は帳面を受け取ると、吟味するがごとく真剣な面持ちで頁をめくった。
「殿…、確かに、此度、我藩はくだんの『千石船』に救われたようなものです。島崎屋という海商の力がなくば、我藩がこれだけの米と御用金を手に入れるのは不可能であったかと…」
「そなたの言う通りじゃ。帯刀もそのことを重々承知しておる」
信輝公はふっと口元を歪めて笑った。
「なれど、それはそれ、藩金流用とは別の話にござりまする」
「主膳…」
「恐れながら、殿、いわば藩の危機を救った内藤を処罰するのはしのびない、とお考えでしょうか?」
「それもあるが…」
信輝公は一旦言葉を切った。
「帯刀は藩庫の金を無断で江戸へ送っていたのだ」
「恐れながら、その儀…某も聞き及んでおりまする」
主膳は神妙に首を垂れた。
「二万両もの金が、惣一郎の婚儀と前後して消えていったそうだ…」
「に、二万両…にござりますか?!」
横領された三万両の内訳までは知らなかった。お牧の方に何ものかが金を融通していたのは掴んでいたが、まさか藩庫の金が内密に江戸へ送られていたとは…。それも総額二万両とは呆れ返る。
高山藩の俸禄支給総額は、年間およそ三万五千両ほど。江戸藩邸に流れた二万両があれば、今年、『半知御借上』を実施せずとも済んだかもしれない。信輝公としては、藩士に倹約を強いながら、正当ならざる手段で藩庫の金を手に入れ、江戸のご正室が贅沢三昧ときては、立場がないのだろう。
「横領は重罪じゃ…。それも次席家老の地位にあるものが万両単位で行ったとなれば、切腹は当然。その金で造った船を今さら『御用船』と呼ばわったところで、罪は罪。本来ならば切腹を申し付けるべきなのだが…」
「殿…!」
「されど、主膳、曲がったこととはわかっていても、財政の逼迫した我が藩には島崎屋が必要であろう?」
「そ、それは…」
「帯刀ひとりに腹を切らせたのち、島崎屋から引き続き運上金を搾り取るなど、あまりに恥知らずなやり方ではないか…」
確かに島崎屋を今、手放すわけにはいかなかった。ここで帯刀もろとも処罰して身代を召し上げたところで、今年、米と五千両を献上した島崎屋にさほど貯えが残っているとは思えない。末永く働かせて運上を納めさせるほうが得策だ。
永代渡海免許とひきかえに、櫻田右近が老舗の中村屋、角屋に蝦夷との商いを奨めたが、ついに色好い返事を得られなかった。十年先を考えるなら、内藤の息のかかっていない、新しい海商を育てることも可能だろう。しかし、お牧の方様が『お断り』(借金踏み倒し宣言!)を食らわせて以来、江戸や大坂の金主からの借財も思うにまかせぬ高山藩は、まず来年さ来年の心配をせずばなるまい。やはり信輝公の言う通り、今、島崎屋を失うことはできない。
されど…。
「主膳、身供は…来年、再来年も御借上が続くような事態だけは避けたいのだ…」
「藩士たちの暮らしを案ずる殿のお心…、この主膳にも痛いほどわかりまするがっ…」
主膳は懸命に食い下がった。
信輝公の藩士・領民を思う気持ちは立派だ。しかし、ここで内藤への処分をうやむやにされては、右近や配下の者たちの働きが無になってしまう。自業自得とはいえ、殺された田村蓑助も浮かばれぬ。
「なれど、殿! 将来藩庫を充実させるための投資といえば聞こえは良いですが、帯刀めのくすねた金額を御考えくださりませ!」
「主膳…」
「三万両もの藩金流用に対し何の咎めもなしでは、政の信用は地に落ちまする。ここは何とぞ、目先の利益に流されず、武門として筋の通ったご裁可を!」
信輝公は深い瞳の色で、しばしの間沈思に落ちた。藩主の葛藤が、重く澱んだ空気となって室内に漂っていた。
息苦しいまでの沈黙の後、やがて信輝公はおもむろに口を開いた。
「主膳、許せ…やはり帯刀に切腹を申し付けるわけにはいかぬ」
苦渋に満ちた表情でちいさく首を振った。
よく言えばお優しい。悪く言えば優柔不断。やはり信輝公の御気性では、峻厳な裁きはできぬか…。
主膳は奥歯をかみしめたが、
「殿、ならば、切腹は無理でもそれ相応の処分をお願いいたしまする。我等の手にはこうして、藩金流用の証拠もそろっておりますゆえ…」
瞬時に作戦を切り替えた。
この際、次善の策でも何とか内藤に一太刀浴びせねば…、主膳は懸命に考えを巡らせた。
「それ相応の処分とは…?」
己では決めかねるのだろう。信輝公が縋るような瞳で主膳を見た。
「藩金流用は重罪ですが、米の手配をいち早く済ませ、飢饉を未然に防いだ功績は認める」
「して?」
「本来ならば切腹申し付けるところなれど、格別のお慈悲をもって、次席家老の任を解き、閉門百日を申し付ける…で、いかがにござりましょう?」
「百日が過ぎた後、帯刀はどうなる? 家老三家は代々世襲…、余程の理由がのうては内藤家を潰すことなどできぬぞ」
「取り潰しまでは考えておりませぬ…そのまま帯刀を隠居させ、嫡男・弥一郎に家督を継がせるが穏便かと…」
「なるほど…、弥一郎は来年いくつになる?」
「確か十八歳かと。先代に似たのでしょう。若いが聡明で温厚な人物と聞き及びまする」
「あいわかった…。主膳、そなたの申す通りにいたそう…」
「ありがたきお言葉にござります…」
主膳は胸の奥から安堵の息を吐き出した。
「主膳…」
「はっ」
まだ何か言いたげな信輝公を、主膳は平伏したまま見上げた。
「次の上席家老は…誠之進じゃ。すでに本人には申し渡してある」
「…なんと」
主膳は瞠目した。息子の口からは、斯様な話は一切聞かされていなかった。
「誠之進のおかげで、三郎は文武に秀で、何処へ出しても恥ずかしくない若者に成長した。三郎も誠之進を実の兄のごとく慕っておる」」
「恐れおおいことにござります」
「誠之進には身供の代はもちろん、惣一郎が家督した後も、藩のために末永く仕えてもらいたい」
「倅には過ぎたお言葉、身に余る光栄にござります…」
斯様に大事な話をなぜ誠之進は父に黙っていたのだ?
主膳は息子の心をいぶかりながらも、この場は信輝公に深い感謝の意を示した。
*
信輝公は深い疲労を覚えた様子で、話が終わると早々に主膳を下がらせた。
主膳にとっては玉虫色の不本意な決着であったが、それでも内藤に多少の手傷は負わすことができた。今はここで一旦鉾を納め、秘かに抜け荷の探索を続けていこうと心に決めた。
(誠之進…)
主膳は中奥から表の御用部屋へ向かいながら、嫡男・誠之進のことを思った。
将来、筆頭家老として藩士の頂点に立つべく、幼い時から愛情を持って厳しく育てた息子だった。誠之進も主膳の期待に応え、文武両道、人心掌握術にも長けた、次期家老として申し分のない青年に成長した。
もはや誠之進も来年正月には二十七。主膳の跡を襲うには十分すぎる年齢に達していた。自分が隠居する前に、少しでも地ならしをしておいてやろうと、内藤帯刀を追いつめたが、完全に失脚させるには至らなかった。無理を重ねて探索にあたった櫻田右近や部下たちの苦労を思うとやりきれないが…。此度の戦はここまでか、と主膳は無念の溜め息を洩らしていた。
内藤が謹慎している間に、自分は隠居して誠之進を上席家老に据える。
誠之進を次の上席家老にという、先程の信輝公の言葉で、主膳の決意が固まった。
主膳はまだ五十二歳である。健康であれば、政治の中枢から退くにはいささか早い年齢だったが、還暦を過ぎても連綿と家老の地位にしがみついた、内藤家の先々代の轍は踏みたくなかった。
(誠之進…其許ならやれるな。父にかわって、見事、高山藩の舵取りをしてみせよ)
*
磨き抜かれた渡り廊下をゆきながら、主膳はふと中庭から漂う菊花の香りに足を止めた。
重陽の節句を過ぎると冬は駆け足でやってくる。今は絢爛と咲き誇る色とりどりの菊花も、やがて葉は枯れ、色をなくし、庭先に無用のものとして打ち捨てられる。
冬の硬い空気の中、凛として香りだけを漂わせるのも趣があるが、盛りを過ぎたものは、やはり潔く退くべきであろう。
未だ強い香気を放つ菊に、早くも己の老いを重ねて、主膳は嘆息した。
残菊 了
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